これを愛と言うのか、忘れたいと思うのか

月乃ミルク

第1話 

 ただ愛しただけ。


 彼女に俺の気持ちを伝えた訳でもない。

 彼女の好きなものも知らない。


 それでも、俺は15年の結婚生活を手放した。


 大学を卒業して勤続30年以上。そこそこ大きい商社の営業部長をしていた。


 手続き上、人事の一部の人だけにしかわからない。男が離婚しても誰も気が付かないもんだな。周りに隠しているつもりも全くなかったが、紙切れ一枚でいつもの日常に変わりはなかった。


 結婚生活は、希薄なものだ。

 転勤ばかりで、子供が小学生になってからは家族で移動することはなくなり、ほとんど別居と同じの約10年。


 俺は、32歳の時に取引先の娘だった麻美と結婚した。離婚をする時もそうだったが、ケンカをしたことは付き合ってから一度もない。お互いに当たり障りのない言葉を交わして、それなりに笑い、それなりに穏やかな。

 

 可もなく不可もない家庭を築き、息子が一人。運動会や家族旅行、卒業式とかにも出席して誕生日には豪勢なお祝い。何不自由なく“家族”をやってきたと俺は思っている。


 男も女も、家庭を持ち子供を養うことがステータス。時代が変わっても、世間の目は変らない。男は、結婚が出世にも少なからず影響するだろうし、女は子供を産み育てることが、勝ち組なんて言われるんだから。


 世間的に問題のない家庭像を見せていることが「欠陥のない人物像」と、周りに思わせているんだろう。


 離婚を切り出しても、麻美は怒ることもなく、冷静に養育費のことだけを気にしていた。


 息子も、「たまに会えるでしょ。今まで通りじゃないの?」という感じ。


 二人の本当の気持ちが、正直わからない。

 世の中に、本当に好きで一緒になった夫婦はどれくらいいるんだろうか?

 そんな相手と一生涯連れ添えるなんて、そんな幸福な人生があるだろうかと羨ましく思う。 


 まあ、それもまた結婚して子供をもって家庭を築いたことがあるからこその贅沢な悩みなのかもしれない。


 俺を離婚に搔き立てた彼女の名前は、「雨宮 雪」。半年前に営業一課へ営業として入ってきた。40歳で、決して若い訳ではなかったが、見た目は年齢より若く見えた。若い奴が面接でよく使う、「やりがいを感じる環境だと思った」「経験を活かして、御社に貢献したい」というようなありきたりの言葉ではなく、「離婚をしたから収入が欲しい」とハッキリと言い切った。前職は、営業事務をしていたらしいが、営業経験は全くないと言う。


 まだまだ営業は男社会。業界的にも女性が少なく、3課ある営業部にも、新卒から入って、営業に回された20代の女性が1人だけ。


 周りは雨宮の事を、「経験もないし、若くもない。女だから扱い辛い」と難を示し、どうして面接したのかと言う奴もいたが、受け答えは営業としての素養が身に付いているように思えた。


 まっすぐと目を見て、質問にもハキハキと返してくる。立ち振る舞いも、年齢を重ねたエレガントさもあった。


 (子供も大きくなっているから、ある程度の自由はきくみたいだし)


 人選は、部長の俺に委ねられている。俺は、周りの反対を押し切って採用を決めた。


 よくある日常の一コマ。

 

 この何の変哲もない出会いで、俺は家族という“ステータス”を手放した。

 

 人知れず離婚するほど、彼女から目をそらすことができないのは何故だろう?


 俺との接点は、同じ空間に居ることだけ。営業方針は課長へ伝え、直接指導も課長の役目だ。


 俺にとっても雨宮は、大勢いる部下の1人に過ぎないし、雨宮にとっても俺は話しかけずらい相手でしかないだろう。


 数ヶ月もすると、最初に難を示していた、直属課長の佐藤も「雨宮は、営業向きだな」と、意識改変させるくらい、ここに雨宮は溶け込んでいた。

 

 雨宮は、スポンジのように仕事を覚え、年下の奴にも年齢的なプライドは一切なく、質問することにも抵抗がない。


 若い奴が「彼女と仲直りできましたー!」なんて、雨宮に向かって言っているのを見ると、人生経験の指南はしているんだろうな。


 雨宮への気持ちが大きくなったきっかけは何だったんだろう?


 面接の時も別に電気が走ったとか運命の相手だという直感が働いたわけではない。


 ただ空気が合う。


 そんな感覚でしかなかった。


 でも、雨宮が毎日出社してくる時を、俺は感じ取れていた。姿が見えなくても空気が変わる。心なしか、ホッとしている気もしていた。


 俺は、いつも朝1番で席に着く。いつもは騒がしい部署が、朝だけ味わえる凛とした空気。そこで、コーヒーを味わうのが日課になっていた。心が落ち着くその時間が俺は好きだった。



 雨宮がくる。



 その気配を感じながら、俺は、自然と雨宮分のカップも用意してコーヒーを注ぐ。


 「えっ。おはようございます」


 なんか、罰が悪そうだ。


 「気にしないで。いつものことだから」


 淹れたてのコーヒーを、雨宮にも差し出す。


 驚いているようだったが、ふっと力が抜けた穏やかさが戻ってきた。


 「ありがとうございます」


 にこっと笑う雨宮。心がじんわりと温かくなる。

 

 席について、無言で2人でコーヒーを飲む。俺は、雨宮の横顔をみながら、その時間に愛おしさを感じていた。


 「おはよーございます」


 2課の寺田が、気だるそうに入ってきた。


 「あれ、早いっすね雨宮さん」


 その言葉を聞いて、雨宮は急にバタバタとし始めた。


 「今日、課長が体調不良で急に同行できなくなっちゃったんです。林さんも、出張中だし。急遽1人でお客様の訪問に行くことになっちゃって。書類に目を通して、粗相のないようにしないと…。部長、ご馳走様です」


 そう言って、パソコンを開く。焦りと緊張が伝わってきた。


 それと同時に、社内直通の電話が鳴った。


「あ、部長。すみません。熱が出てしまって、お休みいただきたくて…」


「おう、さっき雨宮から聞いたよ」


「雨宮、早いっすね。まー無理もないか…。ちょっと、大きな商談で加藤がミスしちゃって、今日は担当変更もかねたリベンジマッチなんですよ。ここで行けないとは、取引先に言えなくて」


 そういうことか。俺は少し考えて


「俺が同行するよ」と返答をした。


「まじですか!本当すみません。それは、心強い!でも、今日役員会じゃないですか?」


「吉野瀬に頼むから大丈夫だ。ゆっくり体を休めて」


「副部長にもお手数かけちゃって、すみません。ありがとうございます。じゃ、よろしくお願いします」


「あー。お大事にな」


 加藤の件は聞いていた。長年営業をしていれば良くあることだったし、お客様との相性もある。


 雨宮と、商談内容の打ち合わせをする。

 こんなに近い距離は初めてだった。いい匂いがする。


 緊張している雨宮をよそに、俺はなんだかワクワクしていた。同行なんてしょっちゅうしているのに、まるで初めての訪問のような高揚感がある。


 俺の言葉を一生懸命メモする姿に、目を奪われた。少し右上がりな文字。


 こんな字を書くんだ。


 雨宮のことを一つひとつ知るほどに、心が鳴る。


 「よし!大丈夫。15分になったら出よう。少し落ち着いておいで」


 「はい。よろしくお願いします」


 雨宮はそこで、肩の力を抜いて大きく息を吐いた。俺が緊張させてしまってるのかな。もっと普通に頼って欲しいのに。


 車は、俺が運転することにした。


「そんなこと、させられません!」と、抵抗する雨宮。


「立場とか関係なく、男としての…って言うか(苦笑)もっと、肩の力抜いて、頼ってくれて大丈夫だよ。さ、行こう」


 車の中でも、緊張が伝わってくる…


 「もっと、リラックスしてよ。難しい商談だけど、うまくやろうとか思わなくて良いから。わからないことは、わからないでバトンタッチしていいよ。どんなに大企業のお偉いさんだろが、俺たちと同じ人の親であり、子供なんだよ。みんな同じ。ありのままの雨宮で全然大丈夫だから。これが、評価に繋がるとかじゃないんだし」


 雨宮の顔は見れなかったが、少し深めにシートに腰を下ろしてくれたようだった。


 最初は、こちらからのお詫びから入ったが、商談は終始和やかなムードで終わることができた。もともと、俺の担当だった人が、部長になっていて最後に挨拶がてら顔を見せてくれ、「お茶でも飲みにくる感じでいいよ。末永くよろしくお願いしますね」と、雨宮のことも気に入ってくれたようだった。


 取引先を後にして、お昼を食べに蕎麦屋に入る。


 「苦手じゃない?」


 「はい!お腹空きました〜笑」


 やっと安堵の表情を見せてくれた。

 向かいに座って、音を立てて蕎麦をすする。


 美味しそうに食べる人だな。緊張も解けたみたいで俺もほっとしていた。


 「お蕎麦も、ラーメンも音を立てないと美味しくないから(笑)この前、ラーメン屋さんで、20代くらいの男女2人が先に食べてて。付き合い初めなのかなー?女性の方が、ハンカチ片手に一本ずつ食べてるんですよ!男の子は、速攻で食べ終わってるしで、女の子『もうお腹いっぱい』と言って、ほとんど残して帰ったんです。どっちが悪いのか、後でモヤモヤしちゃいました(笑)女の子に、かわいこぶってないで食べなきゃ!なのか、男の子が彼女のことちゃんとみなくちゃ!なのか、どう思います?」


 雨宮の話しに、大笑いした。


 新しい一面が次々と見れて、それだけでお腹がいっぱいだ。いつも行く蕎麦屋だったが、雨宮との食事は特段美味しく感じていた。


 「俺だったら、自分の好きなラーメンをそんな風に食べられたら、なんかこっちが悪いことしたかな…って気になるかな。でも、それを隣で見ながら雨宮は豪快に食べている姿の方が(笑)」


 「かわいく食べた方がいいですか?」


 雨宮はそう言って、蕎麦を一本、音を立てないで食べる。


 「無理!全然味しない!」


 俺もやってみた。


 「男らしくない。それ嫌です(笑)」


 「結論!どっちが悪いではなく、蕎麦もラーメンも、音を立てなきゃ美味くないし、つまらない」


 「うんうん。食事の好みが合うって大事ですよね」


 「今度、また2人でどこか行こうか?」


 あまりの楽しさに、思考よりも早く自然と出た言葉だった。


 雨宮の好きなものも知りたい。この勢いのまま、俺は雨宮を誘った。


 「立場とか、関係なく個人としてもっと色々話したいと思ってる。誰にでも、言ってるわけじゃないよ。そこは、信じて欲しいんだけど。…何を言っても変に聞こえるかな(苦笑)」


 「ありがとうございます。はい。ぜひ」


 素直に、受け入れてくれたことが嬉しかった。


 「これを断っても、別に昇進に関わるとか立場が悪くなるとかないからね。迷惑じゃなければ良いんだけど」


 「迷惑だなんて。純粋に嬉しいです。でも、ご結婚されてますよね。2人は申し訳ないというか…その…」

 

「俺、離婚してるよ」


 驚いた表情でこっちをみる。


 「いつ?!あ…個人的なこと、すみません!こんなに優しくて仕事だって…あ、不躾すぎました。いいですいいです。ごめんなさい」


 「別に隠してるわけじゃないから(笑)今は、もう戻らないとだし、今度ゆっくり話そうよ」


 とりあえず、お互いにLINEを交換して蕎麦屋を出る。


 社内に戻り、いつものように仕事をしていたが、さっきの自分の行動を思い返してしまう。興奮を隠すのに精一杯だった。


 次はどこに行こう。何が好きなんだろう?いい歳して、高校生の恋愛みたいな、初めての感情に自分でも手が負えない。


 次の日曜日に、海を見がてら海鮮を堪能しようと話しがまとまった。

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