昼日中、永遠を残す

黒本聖南

◆◆◆

「あんたなんて嫌いだ」


 エヴァレット・デリコが買い物から戻ると、いつの間にかやってきていたらしい恋人が、エヴァレットが暮らす部屋の中で待っていた。床に座り込む恋人の小さな背中に、彼がただいまと言うより先に、涙混じりのそんな声が飛んでくる。


「え?」

「嫌いだ嫌いだ、大っ嫌いだ!」

「ちょっと、何でそうなるんですか」


 後ろ手に扉を閉め、荷物を近くのテーブルに置いてから、恋人の元へエヴァレットが駆け寄ると、恋人は彼と目を合わせたくないのか、膝に顔を埋め、爪の跡がつくほどに強く脚を抱き締めている。


「ウィスタリア、何があったんです」

「何かあったのは、あんたの方じゃんか」


 恋人の名をエヴァレットが口にすれば、恋人は顔を埋めたまま、くぐもった声で詰ってきた。


「いつも動物の絵しか描いてないあんたが、人物画を描くことになったら、ぼくを最初にモデルにするって言ってたくせに、誰だよこいつ」

「……あの」


 彼らの傍にはキャンバスがある。

 そこに描かれているのは、両手で持った林檎を齧ろうとしている誰かの横顔。耳に掛けられた肩までの髪は白に近い銀色で、横顔からでも、美しく整った顔立ちであろうことは容易に見て取れた。

 エヴァレットの職業は画家。この絵も彼が描いたものだ。


「髪の色はぼくと一緒だけど、ぼくはこんな美人じゃない。こんな奴知らない。ぼくじゃない奴を描くあんたなんてもっと知らない。嫌いだ。嫌い。大嫌いだ」

「ウィスタリア、おれの話を聞いてください。もしくは絵をよく見てください」

「ふざけんな。何も見たくないし聞きたくない」

「ウィスタリア……」


 溜め息を溢し、エヴァレットは恋人の身体を後ろから抱き締める。びくりと肩が跳ねたが、恋人は特に抵抗しなかった。

 数日振りの恋人の温もりに、エヴァレットの顔が笑みの形に歪む。そしてその頭の中では、なんと説明しようかと考えていた。


「聞いてください、それに見てください。絵の人物の首を」

「首?」

「──赤くなっているでしょう?」


 エヴァレットの腕の中で、恋人が動くのを感じる。それに合わせ、エヴァレットも視線をキャンバスに向けた。

 林檎を齧ろうとしている誰かの横顔、その首筋には一点、赤くなっている箇所がある。

 丸くぽつんと赤いそれは、まるで──鬱血痕のよう。


「あれ?」

「ここにいつも、痕をつけてあげてるじゃないですか。きみが欲しいって言うから」


 恋人たるウィスタリアの首筋、絵の人物と同じ箇所にも、うっすらと鬱血痕があった。

 エヴァレットがつけたものだ。

 その箇所をエヴァレットが指で撫で上げると、ウィスタリアの身体が震える。


「……この絵のモデルにもつけてたりは」

「きみ以外につけたいとは思いませんよ」

「じゃあ、この絵」

「きみですよ。きみを描きました。こないだ林檎を食べていたでしょう? あの時のきみがあんまりにも可愛らしかったものですから、絵に描いてみました」

「……ぼくはこんな、美人じゃない」


 おれにはきみがこう見えますと、エヴァレットは強く恋人を抱き締めた。


「指に絡めやすい白銀の髪も、怒ったり照れたりして赤く染まる頬も、よく涙を溢す赤い瞳も、おれ以外知らない唇も、全部きみを思い出しながら描いたんです」

「……ぼくがいる時に、ぼくを見ながら描けよ」

「いてほしい時に、きみがいないのがいけないんですよ」


 一緒に暮らそうという話を、エヴァレットは何度も恋人にしてきた。だがウィスタリアは、首をなかなか縦に振らない。

 ウィスタリアだって彼と共に暮らしたいが、そうできない理由があった。


「仕方ないだろう、おばあさんが狩りに行くって言うから、一緒に行かないと」


 ウィスタリアの言うおばあさんは、彼の祖母というわけではなく、彼が世話になり、世話をしている老婆のことだ。ウィスタリアはおばあさんとその孫、そしてウィスタリアの弟であるヴァイオレットと共に今は暮らしている。

 大きな孫がいる老婆だが、腰は曲がることを知らず、高笑いを上げながら人狼を狩ることを趣味としている。彼女の健康と趣味には、ウィスタリアとヴァイオレットの協力が必要不可欠だった。


「言ってみただけです。ほら、もう泣き止んでください。せっかく会えたんですから」


 エヴァレットは軽くウィスタリアから身体を離し、顔をそっと自分に向かせ、彼の目元を指で拭う。

 ウィスタリアの赤い瞳からはポロポロと涙が──涙の形をした赤い結晶が溢れ落ちていた。

 ウィスタリア・ホバート。

 彼は人間ではなく、吸血鬼。

 バッキンガムの子供達と呼ばれる特別な吸血鬼であり、彼らは涙の形をした赤い結晶を瞳から溢す。それには魔力が込められており、人間が口に含むと魔法を行使することができるのだ。


「……会いたかった」

「おれもですよ、会いたかった」


 ウィスタリアは顔をエヴァレットの首筋に寄せる。ちょうど、自分の首筋にある鬱血痕と同じ箇所、そこへ噛みついた。いつもその場所で血を吸っており、エヴァレットの首筋には年中噛み痕が残っている。

 夢中になって血を飲むウィスタリア。そんな恋人の髪を、愛おしそうにエヴァレットは撫でていく。

 窓から差し込むあたたかな陽光、それに照らされるウィスタリアの白銀の髪は、美しく輝いていた。


「昼ご飯、これから食べるつもりだったのですが、ご一緒にどうですか?」


 エヴァレットがそうウィスタリアに訊ねると、頷いたような振動が伝わってくる。エヴァレットは満足そうに微笑み、それから、キャンバスに目を向けた。

 依頼人から、自分が最も美しいと思うものを描けと言われ、愛する恋人を描いた彼。もちろんタイトルは決まっている。


 ──我が最愛のホバート。


 この先何年、何十年、何百年と残っていく名画には、画家の愛がたっぷりと込められていた。

 エヴァレット・デリコ、彼が描く人物画は全て恋人をモデルにし、それ以外の人物は絶対に、何があっても、描くことは生涯ない。


 永遠に残っていく絵の前で、彼と彼は今日も、変わらぬ愛をその身に刻んでいく。

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