【SF短編小説】境界線上の導師たち ~科学と祈りの境界で~(約2万字)
藍埜佑(あいのたすく)
【SF短編小説】境界線上の導師たち ~科学と祈りの境界で~(約2万字)
●第1章:天啓の
青く透きとおる空が、ガラス張りの天井を通して降り注いでいた。
天宮渚紗は、導師育成学園の入学式の会場に立ち、思わず息を呑んだ。2085年、科学と宗教の融合を目指す世界最高峰の教育機関である本学園は、まさにその象徴としてふさわしい建築様式を誇っていた。
古い大聖堂を思わせるゴシック建築の骨格に、最新のナノマテリアルで作られた透明な外壁が融合している。天井からは自然光が差し込み、床一面に敷き詰められた量子センサーが、一人一人の精神波動を可視化していた。
「あの、天宮さん……ですよね?」
背後から柔らかな声が聞こえ、渚紗は振り返った。
そこには、月光を纏ったような銀色の髪を持つ少女が立っていた。制服の襟元には、最優秀入学試験成績者の証である金の導師バッジが光っている。
「月詠理央です。よろしくお願いします」
理央は優雅に会釈をしながら、渚紗に向かって微笑んだ。その仕草には、古い時代の礼儀作法と現代的な自然さが不思議と調和していた。
「あ、はい。天宮渚紗です。こちらこそよろしくお願いします」
渚紗は思わず背筋を伸ばしながら返事をした。理央の存在感は、穏やかでありながらも確かな威厳を感じさせるものだった。
「天宮さんも特別選抜枠での入学なんですよね? 私、あなたの入試データを拝見させていただきました。科学的分析力と宗教的直観力の両方でAランクを取った方は、過去10年で天宮さんだけなんです」
理央の瞳が好奇心に輝いていた。渚紗は少し困ったように頬を掻いた。
「そんな……私はただ、見えるものを見ているだけです。科学的な解析と宗教的な感応が、私の中では自然と重なって見えるんです」
「素敵です!」
理央は両手を軽く合わせ、嬉しそうに目を細めた。その仕草が愛らしく、渚紗は思わず見とれてしまう。
「私は逆なんです。科学と宗教の間に明確な境界線を感じていて。でも、その境界線上にこそ真実があるんじゃないかって思うんです。だから天宮さんの存在を知った時、すごく興味を持ちました」
理央の言葉には、純粋な探究心が滲んでいた。その瞳の奥に、渚紗は何か深いものを感じる。まるで月の光に照らされた湖面のように、穏やかでありながら底知れない深さを持っているような。
「入学式、一緒に座りませんか?」
理央が差し出した手は、予想以上に温かかった。
渚紗は頷きながら、その手を取った。指先から伝わる体温が、不思議と心を落ち着かせる。
「あ、でも式の前に、量子センシング検査を受けないといけないんですよね」
「ええ。新入生全員の精神波動を記録するんです。私たち導師は、科学と宗教の力を使って人々を導く存在。その適性を測るために必要な検査なんです」
理央の説明に頷きながら、渚紗は自分の胸の内を見つめた。科学と宗教――相反すると思われてきた二つの領域を融合させる。それは人類の長年の夢であり、同時に大きな課題でもある。
その時、会場の量子センサーが微かに明滅した。渚紗と理央の立っている場所を中心に、淡い光の輪が広がっていく。
「あら……」
理央が驚いたように目を見開いた。
「私たちの精神波動が、共鳴しているみたいです」
確かに、床に映し出された波動の模様は、二人の足元で美しい干渉模様を描いていた。科学的な解析では説明のつかない現象。しかし、それは確かに存在している。
「これも、科学と宗教の境界線上の現象なのかもしれませんね」
渚紗がそうつぶやくと、理央は嬉しそうに頷いた。
「きっとそうです。私たちの出会いには、きっと意味があるんです」
その言葉が、渚紗の心に深く響いた。
入学式が始まるまでの時間、二人は他の新入生たちと一緒に、量子センシング検査を受けた。検査室には最新鋭の測定機器が並び、同時に古来の祈祷具も設置されている。その不思議な光景が、この学園の特異性を象徴しているようだった。
「天宮さんの波動、本当に美しいですね」
検査を終えた後、理央が感嘆の声を上げた。スクリーンに映し出された渚紗の精神波動は、科学的な規則性と宗教的な神秘性が見事に調和した模様を描いている。
「理央さんこそ、とても特徴的な波動を持っていますよ」
渚紗も画面に見入った。理央の波動は、月光のように清らかでありながら、その中心に強い意志を感じさせる核があった。
「でも、私の波動には明確な境界線があるんです。科学的な部分と宗教的な部分が、きれいに分かれている。それが私の悩みで……」
理央は少し寂しそうな表情を浮かべた。その横顔を見て、渚紗は思わず手を伸ばし、理央の手を軽く握った。
「理央さん」
「はい?」
「境界線があるからこそ見えるものもあると思うんです。私には境界線が見えないから気づけない真実を、理央さんは見つけられるかもしれない」
その言葉に、理央の瞳が輝きを増した。
「天宮さん……ありがとうございます」
理央は渚紗の手を握り返し、そっと頬に寄せた。その仕草には、少女らしい愛らしさと、導師としての凛とした美しさが同居していた。
「私、天宮さんとの出会いが本当に嬉しいです。これから一緒に学べること、楽しみです」
「私もです」
二人は互いに微笑み合った。その時、入学式の開始を告げる鐘が鳴り響いた。古来からの梵鐘の音色に、最新の音響技術による倍音が重なっている。
渚紗は理央と共に式場へと向かいながら、これから始まる学園生活への期待を胸に抱いた。科学と宗教の境界線上で、自分たちは何を見つけることができるのだろう。
その答えはまだ見えていない。しかし、隣で歩く理央の存在が、不思議と心強く感じられた。
●第2章:月光の導き
導師育成学園の寮生活が始まって一週間が経った。
渚紗は夜更けの自室で、理央から借りた古い経典を読んでいた。画面越しではない、実際の紙の手触りが懐かしい。暗くなった部屋の中で、ホログラム時計が22時を指している。
「やっぱり、理央さんの言っていた通りだ」
渚紗は経典の一節に付箋を貼りながら、小さくつぶやいた。科学と宗教の境界線について、古代の賢者たちも同じような疑問を抱いていたことが記されている。
その時、ドアをノックする音が響いた。
「渚紗、まだ起きてる?」
理央の声だった。
「あ、はい。どうぞ」
ドアが開き、部屋着姿の理央が入ってきた。銀色の髪が月明かりに輝いている。
「やっぱり経典、読んでたんだ」
理央は渚紗のベッドの端に腰かけた。その仕草には、既に親しい友人としての自然さが感じられる。一週間という短い時間で、二人はずいぶん打ち解けていた。
「理央さんが言ってた箇所、とても興味深くて。特に『科学は真理の形を測り、宗教は真理の心を感じる』という部分」
「ふふ、渚紗ったら。もう何度目の読み返し?」
理央は渚紗の隣に座り直すと、その肩に優しく頭を寄せた。甘い香りが漂ってくる。
「三度目です」
「真面目なんだから」
理央は微笑みながら、渚紗の髪を優しく撫でた。その仕草には、姉のような愛おしさが込められている。
「でも、理央さんこそ毎晩遅くまで研究してますよね?」
「うん。私には追いつきたい相手がいるから」
「追いつきたい相手?」
「そう。科学と宗教を自然に結びつけられる、ある人」
理央はそう言って、意味ありげに渚紗を見つめた。その視線に、渚紗は思わず頬が熱くなるのを感じる。
「そんな……私なんて、まだまだです」
「いいえ。渚紗の持つ才能は特別なの。私にはそれがはっきりと分かる」
理央は真剣な眼差しで続けた。
「だからこそ、私も頑張らないと。渚紗と一緒に歩いていけるように」
その言葉に、渚紗は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
「理央さん……私こそ、理央さんについていけるように頑張ります」
渚紗は理央の手を取った。掌と掌が重なり合う。その時、部屋の空気が微かに震えるのを感じた。
「あ……」
二人は同時に目を見開いた。部屋に設置された小型の量子センサーが、かすかに光を放っている。二人の精神波動が再び共鳴を起こしているのだ。
「入学式の時みたいですね」
「ええ。でも、今回は少し違う」
理央は立ち上がると、窓際へと歩み寄った。月明かりが彼女のシルエットを優しく照らしている。
「渚紗、こっちに来て」
促されるまま、渚紗も窓際へと移動した。
「ほら、見て」
理央が指さす先で、量子センサーの光が美しい模様を描いていた。入学式の時とは異なり、より複雑で深みのあるパターンが浮かび上がっている。
「この一週間で、私たちの波動の共鳴が深まったみたい」
理央の声が、感動を含んで震えていた。
「これって、どういう意味なんでしょう?」
「科学的に言えば、私たちの精神波動の同調率が上がっているということ。でも……」
理央は言葉を切り、月を見上げた。
「宗教的な感覚で言うなら、私たちの魂が呼応し合っているってことかもしれない」
その言葉に、渚紗は深い共感を覚えた。確かに、理央との出会い以来、自分の中で何かが変化している気がする。科学的な思考と宗教的な直感が、より鮮明に結びつくようになっていた。
「理央さん」
「ん?」
「私、理央さんと出会えて本当に良かった」
素直な気持ちを口にすると、理央は嬉しそうに頬を染めた。
「私もよ。渚紗と一緒にいると、境界線の向こう側が少し見えるような気がするの」
理央は渚紗の肩に手を回し、優しく寄り添った。二人はしばらくの間、月明かりの下で静かに佇んでいた。
夜風が窓を通して流れ込み、二人の髪を優しく揺らす。理央の銀色の髪が、月の光を浴びて幻想的に輝いていた。
「もう遅いわね」
理央が時計を見て、少し残念そうにつぶやいた。
「明日は早起きしないといけないのに、つい話し込んじゃった」
「でも、充実した時間でした」
渚紗は経典を大切そうに閉じながら答えた。
「ありがとう、理央さん。こんな貴重な本を貸してくれて」
「いいのよ。渚紗なら、この本の真価が分かるって思ったから」
理央は渚紗の頬に軽く触れ、優しく微笑んだ。その仕草に、渚紗は胸が高鳴るのを感じる。
「おやすみなさい、渚紗」
「おやすみなさい、理央さん」
理央が部屋を出ていった後も、その温もりは渚紗の頬に残っていた。窓の外では、満月が静かに輝いている。
渚紗はベッドに横たわりながら、今日一日のことを思い返していた。授業での理央の真摯な姿。休み時間の穏やかな会話。そして今夜の静かな語らい。
すべてが、不思議なほど自然に感じられる。まるで、ずっと以前から知っていた人のように。
その夜、渚紗は月明かりに照らされた湖の夢を見た。その湖面に映るのは、理央の優しい微笑みだった。
●第3章:揺らめく境界
導師育成学園の図書館は、古い知識と新しい技術の融合を象徴する場所だった。
古びた木の書架が立ち並ぶ一方で、最新のホログラム端末が設置され、世界中の文献にアクセスできるようになっている。天井には、精神波動を可視化する装置が組み込まれており、読書中の生徒の心の動きを観測することができた。
渚紗は、理央と二人で課題研究に取り組んでいた。テーマは「現代社会における科学と宗教の共生」。理央が提案したテーマだった。
「ねえ、渚紗」
理央が古い文献から目を上げ、渚紗を見つめた。
「この資料によると、20世紀には科学と宗教は完全に対立する概念として捉えられていたのね」
「ええ。でも21世紀に入って、量子物理学の発展とともに、その境界線が曖昧になっていったんです」
渚紗はホログラム画面に表示された論文を指さしながら説明を続けた。
「特に意識の研究において、科学的な観測と宗教的な洞察が重要な接点を持つようになった。私たち導師は、その接点に立つ存在なんです」
理央は感心したように頷いた。
「さすが渚紗。その説明、とても分かりやすいわ」
そう言って、理央は渚紗の隣に寄り添うように座り直した。二人の肩が触れ合う。
「でも、私にはまだ分からないことがあるの」
「何でしょう?」
「なぜ、渚紗には境界線が見えないのかということ」
理央の声には、羨望と好奇心が混ざっていた。
「私には、いつもはっきりと見えるの。科学的な思考と宗教的な感覚の間にある、確かな線が。でも渚紗は、まるでその線が最初から存在しないかのように、自然に両方を結びつけることができる」
渚紗は少し考えてから、静かに答えた。
「私には、それが当たり前すぎて……むしろ、どうして線を引く必要があるのか分からないんです」
「それって、とても素敵なことだと思う」
理央は渚紗の手を取り、優しく握った。
「私ね、渚紗と一緒にいると、少しずつだけど、その境界線が薄れていくのを感じるの」
その瞬間、図書館の天井に設置された精神波動センサーが反応し、二人の周りに淡い光の輪が広がった。
他の生徒たちが驚いた様子で振り返る。これほど強い共鳴が図書館で観測されたのは、珍しいことだった。
「また始まったわね」
理央は嬉しそうに微笑んだ。
「でも今回は、前とは少し違う」
渚紗も気づいていた。二人の精神波動が作り出す模様が、これまでより複雑で深みのあるものに変化していたのだ。
「理央さんの中の境界線が、少し揺らいでいるみたいです」
「ええ。渚紗の影響ね」
理央は照れたように頬を染めた。その表情が愛らしくて、渚紗は思わず見とれてしまう。
その時、図書館の古時計が3時を告げた。二人は同時に我に返ったように顔を見合わせる。
「あ、もうこんな時間」
「次の授業、『現代祈祷技術論』でしたよね」
二人は急いで資料を片付け始めた。その時、理央が不意に立ち止まり、渚紗の袖を引いた。
「ねえ、渚紗」
「はい?」
「放課後、屋上の祈祷室に来てくれない? 見せたいものがあるの」
理央の瞳が、真剣な光を帯びていた。
「もちろんです」
渚紗は迷わず答えた。理央が何を見せてくれるのか分からないが、きっと大切なことなのだろう。そう直感していた。
それは、科学的な根拠のない確信。でも、渚紗の中では、それもまた真実の一つだった。
理央は満足そうに頷くと、渚紗の頬に軽くキスをした。
「ありがとう。絶対に来てね」
その仕草があまりに自然で、周りの生徒たちの視線も気にならなかった。二人の間では、そんなスキンシップがごく普通のことになっていた。
しかし、その接触の一つ一つが、確実に二人の関係を深めていることを、渚紗は感じていた。科学と宗教の境界線のように、二人の間の境界線も、少しずつ曖昧になっていく。
それは、怖いことなのだろうか? それとも、自然な導きなのだろうか?
その答えは、まだ見えていなかった。ただ、理央と共に歩む道の先に、きっと大切な真実があるはずだと、渚紗は信じていた。
二人は図書館を出て、次の教室へと急ぐ。その背中に、天井の精神波動センサーが、まだかすかな光を投げかけていた。
窓の外では、春の陽光が煌めいている。その光は、科学と宗教の境界線さえも、優しく包み込んでいるようだった。
●第4章:揺らぐ心像、魂の重なり
夕暮れ時の屋上祈祷室は、オレンジ色の光に包まれていた。
渚紗は約束通り、放課後にここへやってきた。円形の部屋の中央には、最新の量子演算装置と古来の祭壇が同心円を描くように配置されている。
「来てくれたのね」
理央が祭壇の前から振り返った。夕陽に照らされた彼女の横顔が、信じられないほど美しい。
「理央さん、見せたいものってなんですか?」
渚紗が尋ねると、理央は祭壇の上に置かれた古い箱を指さした。
「これは、私の祖母から受け継いだもの。古い時代の導師が使っていた道具なの」
理央が箱を開くと、中から水晶のような球体が現れた。しかし、よく見ると、その中に微細な電子回路が埋め込まれているのが分かった。
「これは……」
「そう、科学と宗教が分かれる前の時代に作られた『心像結晶』よ」
理央は大切そうに球体を手に取った。
「これを使えば、二人の精神波動を完全に同調させることができるの。お互いの心が見えるようになる」
渚紗は息を呑んだ。確かに、そんな技術の存在は授業で習ったことがある。しかし、実物を見るのは初めてだった。
「でも、これを使うのは危険だって……」
「ええ。だから禁止されているの。相手の心に深く入りすぎて、自分を見失う危険があるから」
理央の声が震えていた。
「でも、私は賭けてみたいの。渚紗となら、きっと……」
その言葉に、渚紗は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
「理央さん、もしかして、ずっとこれを……」
「ええ。入学式の日から、あなたとこれを使ってみたいと思っていた。渚紗となら、きっと新しい何かが見えるはずだって」
理央の瞳に、決意の色が宿っている。
「私の中の境界線を、完全に溶かしたいの。そのためには、渚紗の力が必要」
渚紗は黙って理央を見つめた。確かに、危険な提案だ。しかし、理央の真摯な思いは、しっかりと伝わってきていた。
「分かりました」
渚紗は一歩前に進み出た。
「私も、理央さんの心をもっと知りたい」
理央は安堵したように微笑んだ。
「ありがとう、渚紗」
二人は祭壇の前に正座し、心像結晶を間に置いた。夕暮れの光が、球体を通して美しい模様を床に描いている。
「準備はいい?」
理央の問いかけに、渚紗は静かに頷いた。二人は同時に、心像結晶に手を触れる。
その瞬間、世界が光に包まれた。
渚紗の意識は、急速に拡大していく。目の前には、無数の光の粒子が広がっている。それは理央の記憶であり、感情であり、思考だった。
そこには、科学と宗教の間に引かれた、確かな境界線が見えた。それは理央の中で、長い年月をかけて形成されたものだ。
しかし、その線は完全に固定されているわけではなかった。渚紗の存在によって、少しずつ揺らぎ始めているのが分かる。
「渚紗……」
理央の声が、意識の海の中で響く。
「私の心、見えるでしょう?」
「はい。理央さんの悩みも、願いも、全部」
渚紗も答える。その時、二人の意識がさらに深く重なり合った。
理央の記憶の中に、小さな頃の風景が浮かび上がる。祖母から心像結晶を受け取った日の光景。科学と宗教の境界線に悩む日々。そして、渚紗との出会い。
それらの記憶の一つ一つが、強い感情を伴っていた。
「理央さん、素敵な記憶をありがとう」
渚紗がそう言うと、今度は渚紗の記憶が理央に流れ込んでいく。
科学的な観察と宗教的な直感が自然に溶け合う感覚。理央との出会いで、その特別な才能の意味を理解し始めた日々。
「渚紗……あなたの中には、本当に境界線がないのね」
理央の声が感動を含んで震える。
「ええ。でも、それは特別なことじゃないんです。理央さんの中にも、きっと……」
その時、突然、強い光が意識の中を貫いた。
「!」
二人は同時に目を見開く。心像結晶が、まるで内側から輝いているかのように光り始めていた。
「これは!」
理央が驚いた声を上げる。しかし、その声はどこか嬉しそうだった。
「私たちの波動が、完全に同調し始めているの」
確かに、部屋中の量子センサーが反応を示していた。かつて見たことのないほど複雑で美しい模様が、空間に描き出されている。
二人の意識が溶け合っていく瞬間、渚紗は不思議な感覚に包まれた。
まず、量子もつれのような状態が意識レベルで発生していることを感じ取る。理央の思考や感情が、量子的な重ね合わせのように渚紗の意識と絡み合っていく。これは現代物理学が示唆する「意識の量子性」という仮説に近い現象だった。
同時に、古来の神秘主義者たちが語った「万物照応」の境地が開かれていく。理央の意識の中で、科学と宗教を隔てていた境界線が、まるで氷が溶けるように融解していくさまが見えた。それは単なる比喩ではない。意識の深層で、確かな変容が起きているのだ。
「渚紗、これが……本当の真実なの?」
理央の声が、意識の海の中で波紋を広げる。
「ええ。でも、言葉で説明するのは難しいかもしれません」
確かに、今この瞬間に起きていることを、通常の言語で説明することは困難だった。
古代ギリシャの哲学者プロティノスが語った「一者との合一体験」に近いかもしれない。あるいは、禅仏教でいう「事事無礙法界」――すべての事象が互いに妨げ合うことなく融合する世界の様相に似ている。
理央の意識の中で、科学的な思考と宗教的な直観が、まるで陰と陽のように調和を始めていた。それは危険な変容かもしれない。なぜなら、個としての自我が溶解していく可能性をはらんでいたから。
心理学者のユングが警告した「個性化の過程」の危うさがここにある。意識の深層で起きる変容は、時として自我の崩壊をもたらすことがある。
しかし――
「怖くない」
理央の思いが、確かな波動となって伝わってくる。
「渚紗といるから、大丈夫」
その信頼が、意識の融合に安定した基盤を与えていた。マルティン・ブーバーが説いた「我―汝」の関係性。真の対話は、相手を対象化することなく、存在と存在が向き合うときに成立する。
今、二人の間で起きているのは、まさにそのような根源的な出会いだった。
理央の意識の中で、境界線が溶けていく。それは、西田幾多郎の言う「絶対矛盾の自己同一」のような状態かもしれない。科学と宗教という相反するものが、より高次の次元で一つに統合されていく。
渚紗には、その過程がはっきりと見えていた。理央の精神波動が、これまでになく自由な律動を示し始める。量子センサーが記録する波形は、古来の曼荼羅が示す調和の図像に驚くほど似ていた。
現代の脳科学は、深い瞑想状態での脳波がガンマ波とシータ波の特異な同期を示すことを明らかにしている。今、理央の意識もまた、そのような特別な状態に近づいていた。
しかし、それは単なる生理学的な変化ではない。魂の次元での変容と言っていい。
キリスト教神秘主義が語る「神との合一」。イスラム神秘主義スーフィーの「消滅(ファナー)」。禅での「見性」。その本質は、既存の境界線が溶解し、より高次の真実に目覚めることにある。
理央は今、その真実に触れようとしていた。
「渚紗……私の中で、何かが永遠に変わっていく」
その声には怖れはなかった。むしろ、深い悦びが滲んでいた。
「理央さんの本質は、少しも変わっていません。ただ、本来の姿に近づいているだけです」
渚紗もまた、この変容を確かに見守っていた。二人の信頼関係が、この危険な航海を支える安全な港となっている。
現代物理学が示唆する「非局所的な量子もつれ」。東洋哲学が説く「縁起」の思想。神秘主義者たちが体験した「合一」。それらはすべて、今この瞬間に起きていることの異なった表現なのかもしれない。
理央の意識の中で、境界線は確実に溶けていく。それは後戻りのできない変化だった。しかし、それは破壊的な崩壊ではなく、より高次の統合に向かう創造的な変容だった。
二人の深い信頼が、その過程を導いている。それは科学では「共鳴」と呼ばれ、宗教では「慈愛」と呼ばれ、哲学では「相互主体性」と呼ばれる何か。
しかし、言葉による説明は常に不十分だ。今、二人の間で起きていることは、あらゆる概念を超えた生きた体験そのものだった。
それは、危険な変化かもしれない。しかし、二人の信頼関係が、その危険を上回る強さを持っていた。
「渚紗……ありがとう」
理央の感謝の言葉が、意識の海に波紋を広げる。
「私こそ」
渚紗も心からの言葉を返した。
その時、夕陽が水平線に沈み、部屋は深い青みを帯びた闇に包まれた。しかし、心像結晶の光と、二人の精神波動が作り出す模様は、むしろ以前より鮮やかに輝いていた。
●第5章:観測と祈り
心像結晶での経験から一週間が経っていた。
渚紗と理央は、その日も放課後の図書館で研究を続けていた。二人の間には、以前にも増して深い絆が生まれていた。
「ねえ、渚紗」
理央が古い資料から目を上げた。
「私、新しい発見があったの」
「どんなことですか?」
渚紗も手元の量子解析データから視線を移す。
「科学的な観測と、宗教的な祈りは、実は同じ行為かもしれないって考えているの」
理央の言葉に、渚紗は目を見開いた。
「どういう意味でしょう?」
「観測という行為は、対象に意識を向け、その本質を理解しようとすること。祈りもまた、対象に深く意識を向け、その本質と交感しようとする行為」
理央は熱心に説明を続ける。
「私たちが心像結晶で体験したのも、まさにその融合だったんじゃないかしら」
確かに、と渚紗は思った。あの時の経験は、科学的な観測でもあり、同時に深い祈りのような体験でもあった。
「理央さん、その考え、とても面白いです」
「でしょう?」
理央は嬉しそうに微笑んだ。
「心像結晶を使って以来、私の中で何かが変わり始めているの。科学と宗教の境界線が、少しずつ薄れていくような……」
その言葉に、渚紗は密かな喜びを感じた。理央の中の変化は、確実に進んでいるのだ。
「実はね」
理央は声を落として続けた。
「もう一度、心像結晶を使ってみたいと思っているの。今度は、この新しい発見を確かめるために」
渚紗は少し考え込んだ。確かに、前回の経験は素晴らしいものだった。しかし、同時に危険も伴う。
「大丈夫です」
理央が、渚紗の迷いを察したように言った。
「今度は、しっかりと準備をして臨むわ。科学的な測定機器も用意して、客観的なデータも取りたいの」
その言葉に、渚紗は安心したように頷いた。
「分かりました。私も協力します」
「ありがとう、渚紗」
理央は渚紗の手を取り、優しく握った。その仕草には、前回よりも強い確信が感じられた。
図書館の窓から差し込む夕陽が、二人の横顔を優しく照らしていた。
「今夜、準備ができるわ」
理央が静かな声で告げる。
「実は、測定装置は全部用意してあるの。渚紗の答えを待っていただけ」
その言葉に、渚紗は思わず微笑んだ。理央らしい周到さだ。
「何時にしましょうか?」
「夜の9時。屋上祈祷室で」
理央は渚紗の頬に触れ、その手の温もりに深い信頼を込めた。
●第6章:真理の光輪
夜の屋上祈祷室は、前回とは違う雰囲気に包まれていた。
部屋の中央には、心像結晶を囲むように最新の測定装置が配置されている。壁際には大型のホログラムディスプレイが設置され、精神波動の変化をリアルタイムで表示できるようになっていた。
「万全の態勢ね」
理央は満足そうに準備を確認した。
「でも、本当に大丈夫なんでしょうか……」
渚紗が少し不安そうに尋ねる。これほどの機材を無断で使用することは、明らかな校則違反だった。
「心配しないで」
理央は優しく微笑んだ。
「この実験の結果次第で、きっと学園の理解も得られるはず。科学と宗教の新しい関係性を、私たちが証明できるんだから」
その自信に満ちた声に、渚紗も次第に心を落ち着かせていく。
「理央さんの言う通りです」
二人は向かい合って座り、心像結晶を手に取った。周囲の測定装置が静かに作動を始める。
「準備はいい?」
「はい」
前回と同じように、二人は同時に結晶に触れた。しかし、今回はより意識的に、科学的な観測と宗教的な祈りの融合を試みる。
世界が再び光に包まれる。
しかし今回は、その光が以前よりもはるかに鮮明だった。理央の意識が、驚くほど明確に渚紗の中に流れ込んでくる。
「す、すごい……」
理央の声が、意識の海の中で響く。
「前回よりずっと、クリアに感じるわ」
「ええ。私もです」
確かに、二人の精神波動は驚くほど同調していた。壁のディスプレイには、複雑な干渉パターンが次々と表示されている。
その時、渚紗は不思議な感覚に包まれた。理央の中にあった境界線が、まるで霧が晴れるように薄れていくのが分かる。
「理央さん、感じますか?」
「ええ。私の中で、何かが変わり始めているわ」
理央の意識が高揚している。その感情が、渚紗にも強く伝わってくる。
二人の意識は、さらに深く溶け合っていく。科学的な観測と宗教的な直感が、完全に一つになろうとしていた。
測定装置が、異常な数値を示し始める。しかし、二人はもはやそれを気にする余裕もない。
意識の深層で、何か大きなものが目覚めようとしていた。
「渚紗……私、やっと分かったわ」
理央の声が、深い感動を含んで響く。
「境界線は、初めから存在しなかったのね。私たちが、そう信じ込んでいただけ」
「はい。理央さんが気づいてくれて、嬉しいです」
渚紗も心からの言葉を返す。
その瞬間、心像結晶が虹色の光を放ち始めた。
「!」
予想外の事態に、二人は動揺する。しかし、その光は危険なものには感じられなかった。
むしろ、祝福するような温かさを持っていた。
「これは……」
理央の声が震える。
「古い導師たちが見ていた光……」
虹色の光が部屋全体を満たしていく中、渚紗の意識は特異な認知状態へと遷移していった。それは古代インドの仏教経典が説く「三昧」に近い状態であり、同時に現代の量子物理学が示唆する「観測者と被観測者の一体化」という概念をも体現するものだった。
「これが……真理の輝き」
理央の声が、意識の深層から響いてくる。
測定装置のディスプレイには、前例のない波形が次々と記録されていく。それは通常の脳波やニューロン活動のパターンとは明らかに異なっていた。むしろ、宇宙背景放射に似た性質を持つ波形。まるで、意識という個別の存在が、より普遍的な何かと共鳴しているかのようだった。
「渚紗、この状態……プラトンの言うイデア界に近いのかもしれません」
理央の思考が、直接渚紗の意識に届く。
「はい。でも、それと同時に、量子もつれ状態のような……」
渚紗の認識は、科学と哲学と宗教の垣根を超えて広がっていく。
古代ギリシャの哲学者たちが探求した「真理の形相」、中世の神秘主義者たちが描いた「神との合一」、そして現代の科学が示唆する「意識と量子状態の相関性」――それらはすべて、今この瞬間に二人が体験している現象の異なる側面を表現していたのかもしれない。
測定装置は、さらに驚くべきデータを記録し続ける。二人の脳の量子状態が完全に同期し、しかもその同期が通常の物理法則を超えた様相を示していた。これは、マックス・プランクが晩年に到達した「意識が物質に先立つ」という洞察を裏付けるような現象だった。
「見えます……」
渚紗の意識が、さらに深い次元へと沈潜していく。
「人類が分断する前の真理が……」
そこには、古代の導師たちが見ていた世界の姿があった。科学的観測と宗教的直観が完全に一体となった認識。それは、東洋思想で言う「空」の境地であり、同時に現代物理学が示唆する「究極の統一理論」とも呼応するものだった。
測定装置のスクリーンには、人類の科学史上、前例のない波形が記録されている。それは、デカルト以降の近代哲学が作り出した「主観と客観の分離」という枠組みを完全に超越していた。
この状態こそ、古代の導師たちが「真理の輝き」と呼んだものの正体だったのだろう。それは単なる視覚的な光ではない。意識そのものが、存在の根源的な輝きと共振する状態。禅仏教で言う「見性」であり、キリスト教神秘主義者たちの言う「神との合一」であり、現代の理論物理学が探求する「意識と物質の究極的な一致」でもあった。
「理央さん……これが本当の真実なのかもしれません」
渚紗の認識が、さらに鮮明になっていく。
「科学と宗教を分けていた境界線は、近代以降の人類が作り出した幻……」
「ええ。アインシュタインが言ったように、『科学のない宗教は盲目であり、宗教のない科学は足萎えである』のかもしれない」
理央の思考が応える。その瞬間、測定装置の波形がさらに複雑な様相を示した。それは、ユング心理学で言う「集合的無意識」へのアクセスを示唆するような波形であり、同時に量子場理論が予言する「真空の揺らぎ」とも驚くべき類似性を持っていた。
二人の意識は、より深い真実へと近づいていく。それは、古代インドのウパニシャッド哲学が説く「梵我一如」の境地であり、同時に現代宇宙論が示唆する「意識と宇宙の根源的な一体性」でもあった。
測定装置は、人類の知的探求の歴史上、最も深遠なデータを記録し続けている。それは、科学と宗教と哲学の全てを包含し、同時にそれらを超越する何かを示唆していた。
真理の輝きは、存在そのものの本質を照らし出す光なのだ。
測定装置が、未知の波形を記録し続けている。それは、科学的にも宗教的にも、前例のないものだった。
「私たち、何か大きなものを発見してしまったのかもしれないわ」
理央の言葉には、興奮と畏怖が混ざっていた。
「でも、この発見は、きっと――」
その言葉が終わる前に、突然、部屋全体が強い光に包まれた。
「!」
理央の声が、警告のように響く。
「渚紗、気をつけて! 波動が不安定になってきているわ」
確かに、二人の精神波動が急激に乱れ始めていた。心像結晶の光も、制御不能なほどに強くなっている。
「理央さん、これは……」
「ええ。私たちの発見は、まだ早すぎたのかもしれない」
警告音が鋭く響き渡る中、測定装置のディスプレイには異常な数値が次々と表示されていく。量子もつれ状態を示す指数が臨界点を超え、二人の精神波動は制御不能なまでに同調し始めていた。
「これは……予想を遥かに超えているわ」
理央の声が意識の海の中で震える。
「私たちの意識が、完全な融合状態に向かっています」
渚紗も事態の深刻さを感じ取っていた。仏教でいう「空」の状態に近い。自我の境界が溶け始め、個という概念そのものが揺らいでいく。
ホログラフィック理論が示す通り、意識の一部には全体が、全体には一部が含まれている。その原理が極限まで加速することで、二人の意識は完全な一体化を目指そうとしていた。
「これが、古代の神秘主義者たちが語っていた『合一体験』なのかもしれません」
渚紗の言葉が、波紋のように広がる。
意識の深層では、ユングの言う集合的無意識の層が露わになりつつあった。人類の持つ元型的なイメージが、万華鏡のように次々と浮かび上がる。
「でも、このまま進めば……私たちの個は消滅する」
理央の声に、僅かな恐れが混じる。
測定装置の警告音が更に強まる。脳波計が示す値は、通常の意識状態からかけ離れたものになっていた。前頭葉の活動が異常な高まりを見せる一方で、自己認識に関わる部位の活動は急速に低下している。
「臨界点まであと3分」
冷たい機械音が、残された時間を告げる。
このまま進めば、二人の意識は完全に溶解し、個としての自我を失うことになる。それは、ある意味で「死」を意味していた。
古来の神秘主義者たちは、この状態を「神との合一」と呼んだ。しかし同時に、それは還るべき場所を失った魂の永遠の彷徨でもあり得た。
量子力学の観点からすれば、これは意識の重ね合わせ状態が極限まで達した状況だった。観測者と被観測者の区別が完全に消失し、純粋な「存在」のみが残される。
「渚紗……私たちは、誰も到達したことのない領域に来てしまったのかもしれない」
理央の言葉が、真理の重みを帯びて響く。
それは最初、かすかな波紋のように始まった。
渚紗の意識の中に、理央の幼年期の記憶が滲み始める。それは五歳の夏の日の情景。庭に置かれた古びた望遠鏡を、祖母が静かに磨いている。銀色の髪をした老婦人の手の動きが、まるで祈りのように丁寧だ。
「おばあちゃま、これは何をする道具なの?」
幼い理央の声が、澄んだ風鈴の音のように響く。
「これはね、星を見る道具でもあり、神様を感じる道具でもあるのよ」
祖母の答えに、理央は首を傾げた。そこに渚紗の五歳の日の記憶が重なる。
夕暮れの神社。渚紗は母に手を引かれて、境内を歩いていた。
「ママ、あそこで光ってるの、なあに?」
渚紗が指さす先には、夕陽に照らされて輝く御神体が。
「あれはね、科学で言うと水晶だけど、神様の力が宿る大切なものなの」
二つの記憶が、静かに溶け合っていく。
望遠鏡を覗く理央の目に映る月の輝きと、御神体に反射する夕陽が、一つの光となって意識を満たしていく。理央の「不思議だな」という呟きと、渚紗の「きれい」というつぶやきが、同じ周波数を持つ音として共鳴する。
記憶は、まるで春の小川の流れのように、自然に混ざり合っていく。
七歳の理央。塾の理科室で、初めて顕微鏡を覗いた日。プレパラートの中の細胞が、まるで宇宙のように広がっていく。
同じ年の渚紗。寺院の書院で、般若心経を初めて読んだ瞬間。文字の一つ一つが、生命を持ったように踊り始める。
「先生、この生き物たち、なんでこんな形をしているの?」
「お坊さん、この字たち、どうして躍るの?」
二人の問いかけが、螺旋を描くように交わっていく。そこには、科学的な観察眼と宗教的な直感が、まだ分かれていない純粋な好奇心として存在していた。
記憶は更に深く、より幼い時期へと遡っていく。
三歳の理央。祖母の部屋で見つけた心像結晶に、無意識に手を伸ばした瞬間。
三歳の渚紗。神社の御守りに触れた時の、不思議な温もり。
二つの感触が、一つの感覚として蘇る。
「あったかい」
「ふわふわする」
幼い二人の言葉が、まるで同じ子供の異なる表現のように重なり合う。
更に深く。
二歳の記憶。
まだ言葉を持たない意識の底で。
理央が初めて満月を見上げた夜。
渚紗が朝日に触れようと手を伸ばした朝。
光を追い求める純粋な魂の躍動が、二つの記憶の中で完全に一体となる。
そして、最も深い場所で。
生まれた直後の感覚。
理央の耳に届いた、最初の祈りの言葉。
渚紗の目に映った、産室の無影灯の光。
それは祈りであり、科学であり、しかし何より、生命の神秘そのものだった。
記憶は、もはや「私のもの」「あなたのもの」という区別を失っていく。在るのは、ただ純粋な体験としての記憶。時間という概念が溶解していく中で、それは永遠の現在として立ち現れる。
理央の中の科学的な眼差しと、渚紗の中の宗教的な直観が、なぜ分かれることになったのか。その過程も、記憶の中に刻まれている。
十歳の理央。科学雑誌で量子力学を知り、世界の法則性に魅了される。
同じ頃の渚紗。祈りの中で感じた神秘に、言葉を超えた理解を覚える。
しかし今、その分岐点さえも、より大きな一つの流れの中に溶けていこうとしていた。
記憶は、もはや個人の歴史ではなく、魂の持つ根源的な体験として、二人の意識の中で輝きを放っている。
「これが、私たち……?」
理央と渚紗の声が、一つの問いかけとして響く。
そこには、科学と宗教が分かれる以前の、純粋な認識とでも呼ぶべきものが在った。
心像結晶が放つ光は、もはや虹色を超えて、人知れぬ色彩を帯び始めている。それは、通常の光学的スペクトルでは説明できない、意識と物質の境界領域での現象だった。
「臨界点まであと2分」
冷?な機械音が、再び時間を告げる。
二人の意識は、もはや分かちがたいほどに溶け合っていた。そこでは、西田幾多郎の言う「絶対矛盾の自己同一」が実現されようとしていた。個であり、かつ全体である状態。
しかし、それは人間の意識が維持できる限界を超えていた。
「私たちは、きっと人知の限界に触れているんです」
渚紗の意識が、かすかに震える。
測定装置のスクリーンには、前例のない波形が描き出されていた。それは、脳科学者たちが「統合的意識」と呼ぶ状態を遥かに超えていた。
量子もつれ理論で説明される「非局所的な結合」が、意識レベルで起きている。それは、アインシュタインが「不気味な遠隔作用」と呼んだ現象の、精神世界における実現だった。
「臨界点まであと1分」
無機質な警告音が、さらに切迫感を増す。
二人の意識の境界が、もはや判別できないほどに曖昧になっていた。それは禅の言う「無分別智」に近い状態。しかし、それは同時に、個としての存在を脅かす危機的状況でもあった。
ユダヤ神秘主義のカバラーが説く「アイン」(無)の状態。仏教で説く「空」の完全な実現。意識の究極的な解体と融合が、目前に迫っていた。
「理央さん……このまま進めば」
「ええ。私たちは、『個』という幻想から解放されるわ。でも同時に……」
言葉を終える前に、心像結晶が未知の輝きを放つ。それは、可視光の範囲を超えた、人智を超越した光だった。
量子センサーが示す値は、もはや既知の理論では説明できないレベルに達している。意識の重ね合わせ状態が極限まで進み、新たな存在の相が開かれようとしていた。
「臨界点まで30秒」
切迫した警告音が、残された時間の少なさを告げる。
この瞬間、渚紗の中に、ある理解が閃いた。
彼女たちが直面しているのは、単なる意識の融合ではない。それは、個と全体、部分と全体、存在と非存在という、あらゆる二元性を超えた「究極の一」への到達だった。
しかし、人間の意識は、そのような完全な一性に耐えられるようには設計されていない。
「臨界点まで15秒」
警告音が、最後の警告を発する。
理央の意識が、決意を持って波打つ。
「渚紗、ここまでにしましょう。私たちは、すでに十分な真実を見た」
その言葉に、深い理解が込められていた。これ以上進めば、彼女たちは決して戻れない領域に踏み込むことになる。
それは、科学と宗教と哲学が、それぞれの方法で警告してきた境界線だった。神との合一を説きながらも、そこに留まることの危険を説いた神秘主義者たち。意識の究極状態を理論化しながらも、その実現に警鐘を鳴らした科学者たち。存在の根源に迫りながらも、人間の限界を説いた哲学者たち。
彼女たちは、その全ての警告の真意を、身を持って理解した。
「はい……戻りましょう」
渚紗の返答が、最後の理性の輝きとして響く。
これが、人間に許された知恵の極限。それを超えようとすることは、イカロスの如く、破滅への道を辿ることを意味していた。
二人は、ゆっくりと心像結晶から手を放す――。
測定装置が警告音を発し始める。精神波動の同調が、危険なレベルに達しようとしていた。
このまま続けば、二人の意識が完全に溶解してしまう可能性がある。
「渚紗、一旦中断しましょう」
理央の声が、決意を含んで響く。
「でも……」
「大丈夫。私たちはもう、大切なことを学んだはず」
渚紗は一瞬躊躇したが、すぐに理央の判断が正しいことを理解した。
二人は同時に、心像結晶から手を離す。
光が徐々に収まっていく。測定装置の警告音も止まり、部屋は静寂に包まれた。
ただし、ホログラムディスプレイには、先ほどの驚異的なデータが残されていた。
「記録は、ちゃんと取れているわ」
理央は安堵の表情を浮かべた。
「これで、私たちの発見を証明できる」
渚紗も頷く。実験は中断を余儀なくされたが、得られた結果は十分に価値があるものだった。
「理央さん」
「なに?」
「怖くなかったですか?」
渚紗が心配そうに尋ねる。しかし、理央は穏やかな笑顔を向けた。
「ええ。だって、渚紗と一緒だったから」
その言葉に、渚紗の胸が熱くなる。
窓の外では、満天の星が輝いていた。その光は、科学と宗教の境界線など、初めから存在しなかったかのように、すべてを平等に照らしている。
二人は静かに見つめ合い、そっと手を握り合った。今回の経験は、終わりではなく、新しい始まりなのだ。それを、二人は確かに感じていた。
●第7章:永遠の導き手
春の日差しが学園全体を包み込む午後、渚紗と理央は学園長室へと呼び出されていた。
先日の実験から一週間が経っている。測定データは学園の研究部門で詳しく分析され、その結果が今日、正式に報告されることになっていた。
「心像結晶を無断で使用したことは、確かに校則違反です」
学園長の声は厳しかったが、その目には何か期待のような色が宿っていた。
「しかし、あなたたちが記録した現象は、非常に興味深いものでした」
スクリーンには、あの夜の測定データが映し出される。虹色の光が放たれた瞬間の、前例のない波形。
「これは、古の導師たちが『真理の輝き』と呼んだ現象に極めて近い特性を示しています」
学園長は椅子から立ち上がると、窓際へと歩み寄った。
「しかも、あなたたち二人は、その現象を科学的に記録することに成功した。これは、画期的な成果です」
渚紗と理央は、互いに顔を見合わせた。
「ですが」
学園長が振り返る。
「なぜ、このような危険な実験を?」
その問いに、理央が一歩前に出た。
「私たちは、科学と宗教の本当の関係を知りたかったんです」
理央の声には、揺るぎない信念が込められていた。
「私の中には常に、科学と宗教の境界線がありました。でも渚紗は、その線など最初から存在しないように、自然に両者を結びつけることができる。その違いが、私には衝撃でした」
理央は一息置いて、続けた。
「そして、心像結晶を通じて渚紗の意識と深く触れ合う中で、私も気づいたんです。境界線は、私たちが作り出した幻かもしれないって」
学園長は深い関心を持って理央の言葉に耳を傾けていた。
「渚紗」
今度は渚紗に向かって問いかける。
「あなたはどう考えていますか?」
「はい」
渚紗は真摯な表情で答えた。
「私は、科学的な観測と宗教的な祈りは、本質的には同じものだと考えています。どちらも、真理を理解しようとする人間の純粋な願いから生まれたもの」
その言葉に、学園長は満足そうに頷いた。
「よく分かりました」
学園長は再び席に着くと、穏やかな声で告げた。
「実は、このような実験結果を私たちは長年待ち望んでいました」
「え?」
二人は驚いて顔を上げる。
「科学と宗教の真の融合――それは、この学園の創設以来の目標です。しかし、これまで誰も、具体的な証拠を示すことができなかった」
学園長は静かに立ち上がり、窓際の古い木製キャビネットに向かった。その仕草には、懐かしい記憶を扱うような優しさがあった。
「これは、2025年の写真です」
取り出された写真には、若い二人の導師が写っていた。一人は漆黒の長い髪を持ち、もう一人は栗色の短い髪をしている。二人とも現在の導師育成学園の制服の原型となった白衣のような装いで、心像結晶を挟んで向かい合っている。
写真の端には、「実験記録:第127回」という走り書きがあった。
「黒髪の方が私の母、天倉真琴。そして栗色の髪の方が、その親友の水無月かおる」
学園長は写真を両手で大切そうに持ち、感慨深げに続けた。
「母たちは、当時まだ確立されていなかった科学と宗教の融合理論の研究に、青春のすべてを捧げました」
写真には、実験室の様子も写り込んでいる。現在のように洗練された測定装置はなく、手作りの検出器や、古い祭具が雑然と並んでいた。しかし、その無骨な佇まいが、かえって二人の情熱を物語っているようだった。
「毎晩遅くまで実験を重ねて、時には夜明けまで議論を続けることもあったそうです。母は科学的なアプローチを、かおるさんは宗教的な視点を重視していました」
学園長は机の上に写真を置き、その横に一冊の古びた研究ノートを広げた。
「これが、その時の記録です」
ページをめくると、緻密な実験データと、心像結晶を用いた意識共鳴の理論的考察が、二人の筆跡で交互に書き込まれていた。数式と祈りの言葉が、不思議な調和を持って並んでいる。
「ある日、二人は重大な発見をしました」
学園長は特定のページを開いた。そこには興奮した筆致で、「意識の完全な共鳴に成功!」という書き込みがあった。
「しかし……」
学園長の声が少し沈んだ。
「当時の測定装置では、その現象を科学的に証明することができなかった。母たちの発見は、『主観的な体験』として片付けられてしまったのです」
ページをめくると、実験の中止を命じる公文書の写しが挟まれていた。
「それでも母たちは、諦めなかった。この学園の設立に尽力し、いつか必ず、科学と宗教の真の融合を証明できる日が来ることを信じていました」
学園長は懐かしむように微笑んだ。
「母は私にこう言い残しました。『きっと次の世代が、私たちの夢を実現してくれる』と」
写真の中の二人は、まるで今の渚紗と理央のように、若く、そして希望に満ちていた。その瞳の輝きは、60年の時を超えて、現在まで脈々と受け継がれているように見える。
「そして今、あなたたちが、その夢を現実のものとしてくれた」
学園長の声に、深い感動が滲んでいた。
渚紗と理央は、写真の中の二人の導師たちを見つめながら、自分たちがバトンを受け継ぐ存在なのだということを、深く実感していた。
「母たちは、見ていてくれたのですね」
学園長の目に、小さな涙が光った。
「ええ、きっと。科学では説明できない導きもあるのですから」
その言葉に、深い真実が込められていた。
「これからは、この発見を基に、新しい導師育成のプログラムを作っていきたいと思います。もちろん、あなたたち二人にも協力してもらいたい」
「はい!」
二人は声を揃えて答えた。
「ありがとうございます」
理央が深々と頭を下げる。
「私たちに、このような機会を与えてくださって」
「いいえ」
学園長は優しく微笑んだ。
「これはきっと、導きだったのでしょう。科学的には偶然と呼ぶべきものかもしれませんが、宗教的に見れば、必然の出会いだったのかもしれません」
その言葉に、渚紗は心の中で強く頷いた。理央との出会いは、確かに導かれたものだったに違いない。
学園長室を出た後、二人は中庭のベンチに腰かけた。春の柔らかな風が、二人の髪を優しく揺らす。
「不思議ね」
理央がつぶやいた。
「私たちの出会いも、実験の成功も、すべてが運命だったみたい」
「科学的な必然と、宗教的な導き。それも、同じ真実の異なる表現なのかもしれませんね」
渚紗の言葉に、理央は柔らかく微笑んだ。
「ねえ、渚紗」
「はい?」
「私の中の境界線は、もう完全に消えたわ」
理央は渚紗の手を取り、自分の胸に当てた。
「ここで感じるのは、科学でも宗教でもない。ただ、真実を求める心だけ」
渚紗も、その温もりに深く共感する。
「理央さん」
「なに?」
「これからも一緒に、真実を探していきましょう」
「ええ。科学の名において」
「そして、宗教の名において」
二人は声を合わせた。
「真理の探求者として」
上空では、一羽の鳥が自由に翔けていく。その姿は、境界線のない空を悠々と渡っていた。
新しい時代の導師として、二人の歩みは、ここからが始まりなのだ。
~終わり~
【SF短編小説】境界線上の導師たち ~科学と祈りの境界で~(約2万字) 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi
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