第9話 敬意の表現(Priyokti. Compliment)
父は、私が作った筋を否定することなく、適切に批評し示唆するやり方で、助言を与えてくれた。私はいくつかの点を修正し、筋の効果が増した。クシャラさんが調達してくれた貝葉(ヤシの葉)に、台詞とト書きを書いた。これも父に助言を仰いで修正した。こうして私は脚本を仕上げた。サティヤジットさんの隠棲所へ行き、彼に筋を語って聞かせ、台詞を書いた貝葉を渡した。サティヤジットさんは泣きながら称賛してくれた。
サティヤジット「あなたは真に優れた劇作家です。この劇こそが、マガダ人とカリンガ人の和解を成し遂げるでしょう。これこそが真に尊いことです。私はあなたに敬意を表現しなくてはなりません」
私は恐縮したが、一方で、これが善い劇だという自信もあった。
劇場の設営が始まって、父はしばしばエーカーナムシャ寺院へ出向いた。スバドランギさんも一緒だった。スバドランギさんは資材の手配などを裁量してくれているという。母が亡くなってから笑ったことのなかった父は、明るく元気になった。スバドランギさんが関係していることは皆知っていたし、私も皆もそれを喜んでいた。
配役について考えていて、父や叔父上でやりくりするよりも良い方法を私は思いついた。スバドランギさんに頼むと快諾してくれ、一緒にクシャラさんに会いに行った。
クシャラ「太后様、コハラさん、どうしたのですか」
スバドランギ「コハラさんがあなたに用がおありだそうで、お連れしたのです」
クシャラ「コハラさん、どんなご用件ですか」
コハラ「クシャラさん、いつも思っていましたが、あなたはずいぶん演劇にお詳しいのですね」
クシャラ「そうでもありません」
コハラ「でも、あなたは稽古場の設営には抜かりはないし、私から頼むまでもなく貝葉を手配してくれたり、市民に上演を知らせる旗の手配まで申し出になられました。パータリプトラの劇団から衣装と小道具も借りてきてくれました。女優の相談をしたときには、すでに顔見知りだったからと想像しますが、5人ものパータリプトラの女優を連れてきてくださいました。スンダリーさんやスバドランギさんと一緒に私たちが寸劇を演じた際には、あなたが誰よりも感動なさっていたのを私は見ていました。実はあなたは、演劇を鑑賞するにおいて心の衝立を片付け、劇の意味を注意深く洞察する技術に長じた、ひとりの演劇通でいらっしゃるのではないですか? ついでに言いますが、あなたは密かにスンダリーさんに恋をしてらっしゃるのではないですか? あなたがスンダリーさんを見る目のことを、私が気づかないとでも思っていらっしゃいますか?」
スバドランギ「私も気づいておりました」
クシャラ「コハラさん、私の負けです。今こそ認めましょう、私は子供の頃から今に至るまで演劇を愛しています。ですがスンダリー殿下のことは、何のことやらわかりません。あの方はバーラットで最高のナーイカであるとは思っていますけれどもね」
コハラ「そういうことにしておきましょう。ところでクシャラさん、旗祭りの演劇に出演していただけませんか? このことを承諾していただくためにスバドランギさんにおいでいただいたとは考えないでください。スバドランギさんはただこの親衛隊の詰め所へ案内してくださっただけなのです。ですから私は強要しようなどとは思っていないのです。嫌な気持ちがあるのでしたら、どうか断ってください」
スバドランギ「そうですクシャラ、嫌なら断ればよいのです」
クシャラ「どうして断るでしょう。実は私はずっとそのお言葉を待っていたのです。でも私には務めがありますから、毎日稽古に参加するわけにはいきません」
コハラ「よいのです。重要な役ではありますが、台詞はそんなに多くはないのです。暇を見て稽古に来てくださればよいのです。それからスバドランギさんに、あなたにお子さんがいらっしゃると聞きました」
クシャラ「シャタといいます。6歳の男の子です」
コハラ「シャタくんにも出演してもらいたいのです」
クシャラ「あの子も演劇が大好きです。大喜びするでしょう」
コハラ「よかった。これがあなたたちの台詞です」
私はクシャラさんに貝葉を渡した。クシャラさんは両手で拝跪せんばかりに受け取った。
アショーカ王が南方から帰ってきたと聞いたときには、私はもうひとりの俳優がどうしても必要だと考えていた。アショーカ王に会わせてもらえるようまたスバドランギさんに頼むと、スバドランギさんはなぜか満足げだった。
スバドランギ「それが良いのです。あの子とコハラさんは会って話をするべきなのです。いいえ、会って話をしなければならないのです」
それでスバドランギさんはすぐに私をアショーカ王の部屋へ連れて行った。
スバドランギ「私は退散します。ふたりきりで話すのがよいのです」
スバドランギさんはそう言って行ってしまい、そういうわけで、私はアショーカ王とふたりきりで対面することになった。マガダの獅子の部屋は存外質素であった。
アショーカ「これはコハラさん、どうされましたか」
コハラ「陛下にはご機嫌麗しゅう」
私たちは合掌を交わした。
アショーカ「母はすっかり明るく元気になりました。あなた方のおかげです。お礼申し上げます。ありがとう」
コハラ「私たちこそ、スバドランギさんのような最高のパータカを得て、歓喜しているのです」
アショーカ「礼節はほどほどにしましょう。何か大事な用がおありですね?」
コハラ「そうなのです。大臣のチャーナキャさんに旗祭りの演劇に出演してもらいたいのです。ですが私から頼んでも断られてしまうだろうと思ったのです。陛下とチャーナキャさんは幼馴染の仲と聞きました。ですから陛下にチャーナキャさんを説得していただけないかと思ったのでした。よく考えたのですが、この劇にはマガダ人も出演しなくてはなりません。すでにクシャラさんに出演していただくことになっていますが、チャーナキャさんでなければ務まらない役があるのです」
アショーカ「ははあ、あなたがどういうことを考えておられるのか、だいたいわかりましたよ。それならば確かに、チャーナキャ以上のはまり役はいないでしょう」
アショーカ王の了解の早さに私は驚いた。
コハラ「陛下はどうしてそのように演劇の意味をただちに了解なさったのですか?」
アショーカ「コハラさん、秘密を教えて差し上げましょう。実は私とクシャラとは、いつも演劇談義をしている仲です。私と彼は、おそらくパータリプトラきっての演劇愛好者であり、評論家なのです。そもそも旗祭りの演劇ということを思いついたのも、そのためなのです」
コハラ「驚いた秘密です」
アショーカ「チャーナキャはこのことをよく思っていません。私が演劇にうつつを抜かしているというような風評が立つことを恐れているのです。それは一理あることと思いますから、私とクシャラはこのことを秘密にしているのです」
コハラ「私はこのことを口外しません」
アショーカ「わかっています。ですから打ち明けたのです。さあ、チャーナキャのところへ行きましょう」
それでアショーカ王に案内されてチャーナキャさんの執務室へ行った。部屋へ入ると、チャーナキャさんは貝葉の山に囲まれて座っていた。この人の勤勉な仕事ぶりを私は推察し、この人にはこのような美徳もあることを私は初めて知った。人を一面だけで判断してはならないという教訓を私は得た。
チャーナキャ「陛下、何ですか、俳優なぞ連れて。ご覧の通り私は忙しいのです」
アショーカ「我が友チャーナキャ、ご苦労様。コハラさんがおまえに用事があるそうで、お連れしたのだ」
チャーナキャ「やい下賤な俳優、儂はおまえに用なぞない」
やはり素晴らしい悪役ぶりである。意地悪さ、下品さ、ともに申し分ない。
アショーカ「チャーナキャ、コハラさんは私の友だ。君は礼儀を尽くすべきだ」
はて、アショーカ王はいつどうやって私の友になったのだろう?
チャーナキャ「ならば仕方がありません、陛下の顔を立てて、話だけは聞きましょう。コハラさん、何の御用ですか?」
コハラ「あなたがやめさせようとした旗祭りの演劇に、あなたに出演していただきたいのです」
チャーナキャ「演劇? 出演? 儂が? 儂が演劇に出演。漫談をありがとう。さあ、儂は忙しい。話は聞いたよ。用が済んだなら帰ってください」
コハラ「まあそうおっしゃらずに。順を追ってご説明しましょう。チャーナキャさんとお呼びしてもよろしいですか?」
チャーナキャ「下賤の者とは無礼なもの。勝手になさい」
コハラ「チャーナキャさんは病気になったことがおありですか?」
チャーナキャ「儂が神のように見えるか、無理もない、君は奴婢、儂は婆羅門。すごいことを教えてあげよう、婆羅門は神から生じたが、実は人間なのだ。ゆえに儂もまた病気になったことがあるのだ」
コハラ「今はお元気そうです」
チャーナキャ「たらふく食っておるからな。腹が減ったこととてない」
アショーカ「節度ある食生活こそ健康の秘訣。命と世界への敬意。寝る前には空腹なくらいが朝食が楽しみな心地よい目覚めのための奥義」
コハラ「病気から快復されたとき、幸せではありませんでしたか? 健康がひときわ愛おしく感じられたのでは?」
チャーナキャ「健康こそが人の利」
コハラ「つまりそういうようなことなのです。演劇を観る観客は、人格の醜い人、下品な人を見たあとで、立派な美徳や行いを見ると、より強く感動することができるのです」
チャーナキャ「儂こそ美徳の家長、品格の山のいただきだからな」
コハラ「ええ、ある意味。チャーナキャさんでなければ務まらない悪役があります。これを演ずるのはどうしてもあなたでなければならないのです。あなたのその下品さ、滑稽なまでの強欲さでなければ、立派な人々と行いとが引き立ちません」
アショーカ「実に理にかなっている」
チャーナキャ「よくも抜け抜けと」
コハラ「もちろん、これらはチャーナキャさんという人の一面に過ぎません。あなたが政務においてどれだけ有能で実直か、私はこの部屋に入ってすぐに理解しました。あなたは立派な政治家でいらっしゃいます」
アショーカ「それもまた真実」
チャーナキャ「それほどでも」
コハラ「ですから演技をしていただきたいのです。俳優とはそういうものなのです。自分の中のある一面を、劇の効果として強調するものなのです」
アショーカ「さすが名俳優、とっさにうまく言った」
チャーナキャ「ええい、しつこい人だ。劇に出るとして、私は忙しい。稽古になんか参加できませんよ」
コハラ「良いのです。最後の通し稽古にさえ参加してくだされば。ところで今、劇に出るとおっしゃいましたね?」
チャーナキャ「そら耳でしょう」
アショーカ「チャーナキャ、出ると言ったよ」
チャーナキャ「陛下の気まぐれに付き合わされるのが我が幼少からの定め」
コハラ「ありがとうございます。これがチャーナキャさんの台詞です。重要な役ですから、かなり多いのですが、明晰なあなたであればすぐに覚えてしまわれるでしょう」
チャーナキャ「造作もない」
チャーナキャさんは台詞が書かれた貝葉を受け取った。チャーナキャさんは心の内ではまんざら嫌でもないように私には思えた。
アショーカ「チャーナキャ、私からも礼を言いたい。ありがとう。では邪魔したね」
コハラ「失礼します」
チャーナキャさんはすぐに政務に集中し始めた。私たちは退出した。
コハラ「陛下、助かりました。それではこれで」
アショーカ「実は、私の方でもコハラさんに用事があったのです」
コハラ「どんなご用件ですか」
アショーカ「スンダリーさんのことです」
嫌な予感はしていたのであった。
コハラ「スンダリーさんのこと。スンダリーさんの、どんなことです?」
アショーカ「以前私がスンダリーさんに求婚したとき、私はスンダリーさんを見たこともありませんでした。ただチャーナキャの提案に従って、マンダカ卿も賛成されたので、そうしただけなのでした。ですがあの日スンダリーさんが舞台で舞い歌うのを見て、私はあの方に恋をしたのです」
コハラ「そうですか、恋を。恋。おめでとうございます。それで?」
アショーカ「コハラさん、あなたとスンダリーさんがすでに深く愛し合ってらっしゃることは、わかっています」
コハラ「それは陛下の思い込みだと思います」
アショーカ「慎みある態度ですね。今はそれがふさわしい態度です」
コハラ「そういうわけでは」
アショーカ「追及したいのではありませんから私の話を続けましょう。私とスンダリーさんはふたりで話をしたことがありません。あの方は私がどのような人間かをご存じではありません」
コハラ「スンダリーさんにとって陛下はお父上とお兄上の仇です」
アショーカ「わかっています。その通りです。でもあれから私がどれだけ悔恨し苦しんだか、そして今どのような男になったか、あの方は知らないと思います。コハラさん、あなたにとっても私はお母上とお姉上の仇です。あなたはどうですか。今の私は、あなたにはどう見えますか? ただの残忍な暴君ですか?」
一口に言えるものではない。
コハラ「そうではありません。今の陛下はただの残忍な暴君ではありません。犯した罪を悔恨し苦しんでおられます。私は陛下をよく知りませんし、正直なところ、好意は持っていません。でも、私は演劇人ですし、今こうしてあなたと腹を割ってお話ししていますから、そのことはわかるのです。一方で、陛下はチャーナキャさんの前で私を友と呼ばれましたが、私は陛下を友とは思っていません。無礼を承知でありのままにお伝えしています」
アショーカ「あなたが私に複雑な思いを抱いておられることは、私にはわかるのです。腹を割ってお話しできてよかったと思っています。ですからこのことも言わせてください。私はスンダリーさんとふたりで話をしたい。今の私がどういう人間かを知っていただきたいのです。コハラさん、このことを許してもらえませんか? そしてあなたからスンダリーさんに頼んでもらえませんか? コハラさんとスンダリーさんはしばしばふたりきりで話をするのでは? これは公平ではありません。つまり私にも機会を与えてほしいのです」
コハラ「どうして私が許すというような話になるのでしょう、スンダリーさんは私のものでも何でもありません。ですからあなたご自身でスンダリーさんに頼めばよいのです」
アショーカ「それもそうですね。ではそういたしましょう」
コハラ「ひとつ教えてください。陛下にはすでに何人か妃がおられるでしょう?」
アショーカ「3人おります。チャーナキャが連れてきた娘を言われるがままに。でも正妃はまだとっていません。大きな声で言えることではありませんが、私は妃の誰をも愛していないし、妃たちもまた私を愛してなどいないのです。それは問題ですか?」
コハラ「いいえ、何となく」
アショーカ「スンダリーさんのような神聖な方を見たのは初めてです」
あんな人が他にいるはずもない。
アショーカ王を連れて稽古場へ行くと、スバドランギさんがいて、ただちに事態を了解した。
スバドランギ「コハラさん、よくぞ堪忍されました」
コハラ「スバドランギさん、私には何か堪忍しなければならないようなことはないのです」
スバドランギ「慎みある態度。いいのです、私にはわかっているのです。このことは後でお話ししましょう。さあアショーカ、スンダリーさんのところに行きましょう」
アショーカ「そうしましょう」
アショーカ王とスバドランギさんがスンダリーさんに話しかけた。ドリティが近寄って来た。
ドリティ「事件です、兄様」
コハラ「そんな大げさなことではない」
ドリティ「これが事件でなくて何が事件ですか。あ、スンダリー姉様がアショーカ王に背中を向けました。嫌がっています」
コハラ「当然だ」
ドリティ「あ、スバドランギ叔母様がスンダリー姉様を説得しています。あ、おふたりが泣きながら抱擁しています。良くない予感がします」
コハラ「良くない予感がする」
ドリティ「あ、スンダリー姉様がアショーカ王に向き直ってうなずきました。あ、ちょっとちょっと、ふたりで行ってしまいましたよ、兄様。スプシュカラさんもウグラさんもついて行きません。ふたりきりです」
コハラ「諸々の事象は過ぎ去るものである」
ドリティ「真理です。でもいけませんよ、引き留めなくては。さあ、兄様」
コハラ「稽古を続けよう」
ドリティ「稽古どころではありませんよ。あ、スバドランギ叔母様がこっちに来られます。きっと大事なお話です。私は退散します」
ドリティはスプシュカラさんのところへ行きふたりは慌てた様子で話し始めた。
スバドランギ「コハラさん、私を恨めしく思われましたね」
コハラ「はい、そのような気持ちが生じたことを認めなければなりません」
スバドランギ「確かにアショーカは私が産んだ息子です。あの子の恋を成就させてやりたい気持ちはあるのです。でもコハラさん、私はあなたのことも、我が子同然に思っているのですよ。あなたの恋を成就させてやりたい気持ちも、同じように持っているのです。信じてもらえますか」
コハラ「信じます。スバドランギさんのそのお声とお言葉は、母上と同じ慈しみの心が宿っています。私はあなたを母同然に思っています。ですからあなたを恨めしく思う一方で、あなたを責めるべきではないとも思い、私はふたつに引き裂かれていたのです」
スバドランギさんは私の手をとった。
スバドランギ「嬉しいことです。それでは私もまたふたつに引き裂かれて苦しんでいることがわかっていただけますか」
コハラ「わかります」
スバドランギ「スンダリーさんのお母様のことは聞きましたか」
コハラ「はい、聞きました。スンダリーさんを産んですぐに亡くなったと」
スバドランギ「悲しいことです、不憫なことです。私はスンダリーさんに娘同然と思っていると伝えました。するとスンダリーさんは泣いて私を抱擁してくれました。私を母と呼んでくれました。それでスンダリーさんはアショーカとふたりきりで出かけることを承諾してくれたのです」
コハラ「はい、見ていました。そういうことが起こったかもしれないと思っていました」
スバドランギ「アショーカは今日バウッダの精舎を訪問する予定だったので、ふたりはそこへ行ったのです。アショーカはスンダリーさんに許しを請うでしょう。それから何が起こるか、私たちは見てみましょう」
コハラ「そうする他ありません」
スバドランギ「およそ恋とは人の心を引き裂くもの。この劇がそうですね」
コハラ「そうです。ナーイカはブラフマダッタ王への憎しみと愛とに引き裂かれて苦しみます。ナーイカはこの葛藤を解決しなければなりません。これがこの劇の主筋です」
スバドランギ「酷な役をスンダリーさんに与えたものです」
コハラ「スンダリーさんと私はすでに陛下やマガダの人々に憎しみを抱いてはいません。ですから私はこの筋を作ることができたのです」
スバドランギ「でも、この劇はアショーカとスンダリーさんの結婚を暗示しませんか」
コハラ「暗示すると見ることもできると思います。そういう可能性があると思う人にとっては」
スバドランギ「つまりコハラさんは、そういう可能性を信じていなかったので、この筋を作ることができたのですね」
コハラ「そういうことになるかもしれません」
スバドランギ「スンダリーさんを信じているのですね。健気なコハラさん。でもどうでしょう、アショーカは女を知っています。コハラさんはまだ女を知らないでしょう?」
隠喩としてであれ何であれ、私はそれを知らない。
コハラ「知りませんとも」
スバドランギ「あの子は女の扱いを心得ています。この点はあの子の方が優勢です。油断なさってはなりませんよ。さあ、何が起こるか見てみましょう」
見たくない気がしてきた。
スンダリーさんとアショーカ王が帰ってきて、ふたりがにこやかに話しているのを見て、私は打ちひしがれた。
アショーカ「それでは今日はこれで失礼します。ご機嫌よう」
スンダリー「今日は楽しませていただきました。お礼申し上げます。ご機嫌よう」
アショーカ王を見送るスンダリーさんの楽しげな様子に、私は初めて嫉妬というものを体験した。私はそれを劇でしか知らなかった。
スンダリー「コハラさん、ただいま戻りました」
私の気持ちを知ってか知らずか、スンダリーさんは屈託のない笑顔。
コハラ「おかえりなさい。精舎はどうでしたか?」
スンダリー「清らかな森で比丘様たちが修行してらっしゃいました。法話を聞かせていただきました。非暴力についての尊い教えでした」
コハラ「スンダリーさんはアショーカ王をどう見ましたか」
スンダリー「私は以前のあの方を知りません。でも今のあの方は、人々の安寧のために奮闘される立派な英雄です。それに、機知に富んだ面白い方です」
スンダリーさんは思い出し笑いをしながらスプシュカラさんとドリティのところへ行ってしまった。立派な英雄、英雄。私はただちにウグラさんのところへ行った。
コハラ「ウグラさん、お願いがあります」
ウグラ「何ですかい、若旦那、あらたまって」
コハラ「私に武芸を教えてください」
ウグラ「ははあ、先日大臣の手勢にやられちまったことを、気にしておいでなのでしょう。確かにあれはいただけませんでしたな。そしてアショーカ王が姫様に言い寄ってきたものだから、姫様に尊敬される強い男にならなければならないと発起なさった。そうなのでしょう?」
コハラ「完全にその通りなのです」
ウグラ「わかりやした。そういうことならこのウグラ、一肌脱ぎやしょう。拳法と棒術を手ほどきしましょう」
コハラ「ウグラ先生の弟子、コハラが感謝いたします」
それで私は武芸の稽古を始めた。
エーカーナムシャ寺院に、インドラを表す雷と梵天を表す蓮の花が描かれた旗が立った。夏に、バードラ月に入ったのである。
再終幕の場面を稽古していた。私とスンダリーさんが抱擁しあう場面。
ヴァーティヤ「待て待て。コハラ、スンダリーさんとの距離が離れている」
父は首を振るしぐさ。隣のスバドランギさんは心配顔。私を見つめるスンダリーさんも心配顔。
ヴァーティヤ「体の距離ではない。心の距離が離れている。コハラがスンダリーさんから離れているのだ。それでどんな感動(Rasa)が生じるというのだ。コハラ、おまえはどうしてしまったのだ」
コハラ「すみません」
ヴァーティヤ「これでは稽古にならん。ちょっと休憩にしよう。コハラ、おまえは頭を冷やせ」
私は水場で顔を洗い、皆から離れて座った。ドリティがやってきた。
ドリティ「兄様、ひとつ言わせていただきます。兄様は女を知りません」
この場合、隠喩ではないだろう。女を知らない、私は女を知らない、アショーカ王は女を知っている...
コハラ「ドリティ、私に女を教えてくれ」
ドリティ「そんなこと、できません」
コハラ「違う、隠喩ではない。お慈悲だから、女とはどういうものなのか、女とはどんな男を求めているのか、教えてくれないか」
ドリティ「そっちの意味ですか。よろしい、それでは教えて差し上げましょう。兄様は女について、女が求める男について、次の4つのことを知らなければなりません」
コハラ「私の愛しい妹よ、恩に着る」
ドリティ「まず、女とは、この人と定めた殿方には、来るべきところではぐいぐいと来てほしいのです。じれったいのはいけません。もちろん、品格を忘れてもらっては困ります。行くべきところは行き、慎むべきところは慎む。その見極めが肝要なのです」
コハラ「奥義だ」
ドリティ「奥義です。ナラ王は制止する衆人を押しのけて大胆にもダマヤンティの前に現れました。ぐいぐい行くところは行ったのです。でもナラ王はダマヤンティを強奪はしません。ただダマヤンティの前に立って、自分の肢体と心とをダマヤンティに見せながら、沈黙していました。慎むべきところでは慎んだのです。そのためダマヤンティはナラ王にくらっときてしまったのです」
コハラ「な、なるほど」
ドリティ「第2に、女に男友達ができたくらいで、狼狽するようではいけません。でんと構えていてくれなくては困るのです。狼狽するのは、女を信じていない証拠です。ラーマはシーターの貞節を疑っているわけではないなどと言いつつ、世間の評判を恐れて、シーターに純潔の証明を求めました。あろうことか、シーターに火の中に入らせたのです。たまたま助かったからよかったようなものの、あんなのとんでもないことですよ。私に言わせれば、ラーマなんていうのはまるで駄目な男です」
コハラ「君が正しい」
ドリティ「第3に、男はやっぱり強くなくてはなりません。兄様はウグラさんと武芸の稽古をされています。これは善いことです」
コハラ「俳優としても武芸のたしなみは役に立つ」
ドリティ「でもより重要なのは武勇よりも、心の強さなのです。ナラ王はダマヤンティと結婚するまではいい男でしたが、呪いのせいだか何だか知りませんが、賭博にうつつを抜かし、ダマヤンティを捨てました。要するに彼は心が弱かったので堕落したのです。もちろん、最後にはナラ王は改心して、ダマヤンティは寛容を通りこしてちょっとお馬鹿さんですから、ナラ王を許してあげました。でも賢い女であれば、あんな情けない男はこっちから捨ててやるのです」
コハラ「肝に銘じておく」
ドリティ「最後に、これが最も重要です。男は、女と一度した約束を忘れてもらっては困るのです。ドゥフシャンタ王は、シャクンタラーと子まで成しておきながら、呪いのせいだか何だか知ったことではありませんが、シャクンタラーとの約束をころっと忘れてしまいます。ずいぶん経ってからドゥフシャンタ王はしゃあしゃあと思い出したなどと言い出し、シャクンタラーはダマヤンティと同じくらいお馬鹿さんですから、ドゥフシャンタ王を許してあげます。人並みのおつむを持っている女であれば、そうはいきませんよ。およそ約束を先に忘れるのは男のほうなのです。ごくまれに忘れっぽい女もいますが、それは珍しい女なのです。男が先に約束を忘れるなら、女だってそんないまいましい約束は、忘れてやりますよ。こうして男と女は互いに敬意を失い、侮辱し合うようになり、破局するのです。おしなべて言うに、これは先に男が約束を忘れることによって起こるのです」
コハラ「深淵だ」
ドリティ「そうですか? 単純なことです。あ、スバドランギ叔母様がスンダリー姉様に話しかけています。助言を与えているようです」
コハラ「そのようだ」
ドリティ「あ、おたりが泣いて抱擁しています。美しい光景です」
コハラ「牛の母と子さながら」
ドリティ「あ、スンダリー姉様がスプシュカラさんに何かをささやいています。あれ、スンダリー姉様とウグラさんがどこかへ行ってしまいました。あ、スプシュカラさんがこっちに来られます」
コハラ「見ればわかる」
スプシュカラ「コハラさん、姫様から伝言を預かりましたのでお伝えします。約束をお忘れでないなら、ガートまで来てください、とのことです」
コハラ「わかりました。ありがとうございます」
ドリティ「兄様、私の4つの訓戒をお忘れなきよう」
コハラ「女の亀鑑ドリティよ、ありがとう」
ガンジス川のガートに行くと、スンダリーさんが川面を見て佇んでいた。陽は西に傾いていた。ガートの端にウグラさんが控えているのが見えた。遠くの砂辺でディガンバラ(裸形行者)が何人か禅定をしている。ガンジス川の波音だけが聞こえる。私はスンダリーさんに近づいた。
スンダリー「よく来てくださいました」
コハラ「来ますとも。忘れるはずがないではありませんか」
スンダリー「でも、私の心のそばには近づいてくださいません」
コハラ「はい。でも忘れたからではないのです」
スンダリー「あの劇が、私とアショーカ王の結婚を暗示するように見えることが関係していますか」
コハラ「関係していると思います」
スンダリー「劇団の一員として提案があります」
コハラ「どうぞ提案してください」
スンダリー「ブラフマダッタ王の名前を変えましょう。ナーイカの名前はスンダリーなのに、ナーヤカの名前はどうしてコハラではないのですか? これがいけないのです。コハラ王にしましょう」
コハラ「ふさわしくないと思ったのです」
スンダリー「私にとっては、王の称号はコハラさんにこそふさわしいのです。私にとってはコハラさんこそが慎みある善良な人々の王です。美徳の王です。俳優の王にして劇作家の王です」
コハラ「もったいない敬意の表現(*)です」
*敬意の表現 「良い劇の筋の要素は36通りあります...尊敬すべき人物を称え、その行為に対する喜びを表現するために、心地よい気分で言葉を発することは、敬意の表現(Priyokti)の一例です」
Nāṭyaśāstra. XVII, 41
スンダリー「このことは皆さんで議事にかけましょう。いいですね?」
コハラ「そうしましょう。それではもう戻りましょう。このことを皆で議論して、稽古を続けなければ」
私が歩き出してスンダリーさんから離れると、スンダリーさんは声を張り上げた。
スンダリー「それから、あなただけに、私の秘密を教えて差し上げましょう」
私は足を止めて振り向いた。スンダリーさんの美しい笑顔が西日を受けて輝いていた。
コハラ「教えてください」
スンダリー「私はアショーカ王とはどんな約束もしていません。私が約束をしたのは、あなたとだけなのです」
私は号泣した。スンダリーさんは私に近づいて歌った。
スンダリー
約束してください。あなたが答えを、真理を見つけたなら、私に教えてくださると。
コハラ
約束します。私が答えを、真理を見つけたなら、必ずあなたにお教えします。
約束してください。あなたが答えを、真理を見つけたなら、私に教えてくださると。
スンダリー
約束します。私が答えを、真理を見つけたなら、必ずあなたにお教えします。
私は遠くを見ません。近くを見ません。内を見ます。
コハラ
私は遠くを見ません。近くを見ません。内を見ます。
スンダリー
あなたが見えます。あなたが微笑んでいます。
コハラ
あなたが見えます。あなたが微笑んでいます。
スンダリー
私たちはひとつです。ひとつになって輪を回します。
コハラ
私たちはひとつです。ひとつになって輪を回します。
私たちは抱擁した。スンダリーさんは私の胸に顔をうずめた。いつまでもそうしていた。
ナーヤカの名前をコハラ王に変えることは、満場一致で決まった。通し稽古はうまくいった。サティヤジットさんは見事な演技を披露してくれたし、チャーナキャさんは持ち前の性情をいかんなく発揮してくれた。クシャラさん、スプシュカラさん、ウグラさんも役にはまっていた。
インドラの旗祭りの日がやってきた。エーカーナムシャ寺院の劇場は、パータリプトラの市民とトーシャリから移送されてきたカリンガ人で、ちょうど半々に、埋め尽くされた。アショーカ王とマンダカ卿は階段状の客席の最後方に座った。空には雲ひとつとしてなく、真夏の太陽が輝いていた。
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