第8話 名声(Prasiddhi. Celebrity)
サティヤジットさんが語ってくれた説話をもとに、あら筋を考えた。当然スンダリーさんを劇の女王に据えるから、大幅に改変する。スンダリーさんも交えて皆に語ると、皆が涙した。
ドリティ「兄様、素晴らしい劇です、猛烈な感動(Rasa)です」
ヴィプラ「善い劇だ、コハラ」
ブダセーナ「申し分ない」
スンダリー「美しいです、太陽のようです」
ヴァーティヤ「うん、おおむねいいだろう。だが女パータカはどうする」
コハラ「ドリティはもう一流の歌手です。ドリティに歌ってもらいましょう。伴唱がいなくなりますが、仕方がありません」
ドリティ「私に務まるかしら」
コハラ「君にできないことは存在しない」
ヴァーティヤ「8幕か。これだけ大きな劇だと、俳優が足りないのではないか。私たちでやりくりするのか」
コハラ「はい、俳優が足りません。実は先日、修行林の比丘様に出演を頼みました。承諾していただきました。それからスプシュカラさんとウグラさんに出演していただこうと思います」
脇に控えていたスプシュカラさんとウグラさんが聞いて驚いた様子。
スプシュカラ「とんでもないことです」
ウグラ「俳優なんてできるものですか」
コハラ「できると思います。スプシュカラさんは気品備わり声は孔雀のようで、身のこなしは機敏です。ウグラさんは勇猛さの表現を生まれながらに備えられ、声は雄大です」
スンダリー「その通りです。ふたりは舞台に立つべき素養を備えています」
スプシュカラ「そうかしら」
ウグラ「それほどでも」
スンダリー「いいですね、スプシュカラ、ウグラ」
スプシュカラ「はい、ぜひ」
ウグラ「合点です」
ヴァーティヤ「よし、では稽古を始めよう」
中庭の稽古場で、私とスンダリーさんが舞台に上がった。ナーヤカとナーイカが初めて出会う場面をやってみることにした。
ドリティの朗唱。スンダリー踊る。
夜の静けさが私の心を包みます。
月の光が私の心を震わせます。
私を愛してくれた人は去りました。私はひとり。
私は夜と月を愛するしかないのです。
ブラフマダッタ(コハラ)「[独白}なんと美しい人だろう。パールヴァティと見紛うばかり」
ブラフマダッタ(コハラ)「あなたの歌声に私は目を覚ましました。あなたの歌声は清らかですが深い悲しみをたたえています。あなたはどうしてそんなに悲しげなのですか? あなたの身に何があったのですか?」
スンダリー「陛下、私の身に何があったとして、それが陛下に何の関りがありましょう。それに、このことは陛下に言うべきではないのです」
チャーナキャ「そこまで、そこまで」
どやどやという音と、品のないだみ声が轟いて、美しい情景が消え去った。品のない装身具をたくさんまとい、じゃらじゃらと音を鳴らしながら、恐ろしく太った男が近づいてきた。大勢の護衛たちが棒を持って背後から続いた。これを見たウグラさんがスンダリーさんの前に立った。惚れ惚れするほどの雄姿であった。私もウグラさんの横に立った。
チャーナキャ「マガダ大臣、チャーナキャであるぞよ。さあ、控えなさい」
私はこの人のことをパータリプトラの街の人々から噂に聞いていた。名家の婆羅門でマガダの国政を一手に担っているという。有能だが冷徹なために人望がないそうである。私はこの噂が本当のことだと信じた。
ヴァーティヤ「何事ですかな? 大臣様」
チャーナキャ「旗祭りの演劇は中止になった。おまえたちはこの宿舎から立ち去って、ガンジス川の収容所へ行かなければならない」
ヴァーティヤ「何ですと? それは陛下が決めたことなのですか? 私たちは陛下に旗祭りの演劇を依頼されたのですが」
チャーナキャ「陛下の依頼。我が幼馴染陛下の。まったく陛下には困ったことだ、利というものがわかっておられない。その点儂は利を承知しておる。実に利こそ全て。利とはすなわち金なり。力なり。それだけが人を生かしむる。演劇が利を生むかね? 金を生むかね? 力を生むかね? 生むはずもない。生むのはただ一瞬の快楽の充足のみ。演劇で人の腹が膨らむかね? 膨らむはずもない。そこで儂はこれを決定したのである。さあ、ただちに荷物をまとめてここから出ていくんだ。マガダは演劇などにかかずらっている暇はないのであって、カリンガを滅ぼした今、次はタミラカムを攻め滅ぼさなければならない。陛下が今南方へ視察に行かれているのは、私の助言によってなのである」
ドリティ「なんて下品な男でしょう」
チャーナキャ「何か許しがたい言葉が聞こえた気がする」
コハラ「気のせいです、大臣様。それよりひとつ教えてください。もしも演劇がただ一瞬の快楽の充足をもたらすのみのものだとすると、多くの人が演劇に強く感動しむせび泣くのはなぜでしょうか? あまりの気持ちよさに感動しむせび泣くのでしょうか? 確かに演劇を見ても腹は膨らみません。ですが演劇による感動は、食べ物ではない形で、私たちの生きる糧となるのではないでしょうか」
ブダセーナ「よく言った」
チャーナキャ「ははあ、おまえだな、スンダリー殿下をかどわかして、陛下を袖にさせたという不埒なカリンガの俳優は」
ドリティ「むしろ誇らしいこと」
コハラ「コハラでございます。旗祭りの演劇でナーヤカを務めます」
チャーナキャ「儂に口答えするとは、王女をたぶらかすとは、見上げた度胸だが、お前の身分には余ることだ。演劇が生きる糧だと? 普通生きる糧とは食べ物のことだろうが。常識的に言って、演劇など一瞬の快楽でしかないだろうが。一般に演劇など無駄なものだろうが」
コハラ「普通とは何ですか? 常識とは何ですか? 一般とは何ですか?」
チャーナキャ「口の減らない奴だ。スンダリー殿下、今から荒々しいことが始まりますからさあこちらへ。あなたは陛下に輿入れなさる身。さあこちらへ」
スンダリー「嫌です。私はここを離れません」
チャーナキャ「あなたの国はもう滅んだのです。あなたは儂の命に背くことはできないのです」
大臣はスンダリーさんの手を掴もうとしたが、ウグラさんが大臣の手を掴んでそうはさせない。
ウグラ「姫様に触れてみろ、おまえの首が吹っ飛ぶぞ。カリンガが滅びただと? 我らが姫様は美しく輝いておられる。ウグラがお守りしている」
チャーナヤ「者ども、何をしている。思い上がったカリンガ人どもに身の程を思い知らせてやれ。王女を捕えよ」
チャーナキャの護衛兵たち「おう」
兵たちが棒を振りかざして襲い掛かって来た。私はスンダリーさんの前に立ち、ウグラさんは大臣を突き飛ばすと、大いに暴れ回った。素手で次から次へ兵たちを掴み投げ飛ばした。驚いた豪勇であったが、ひとりで防ぎきれるものではない。情けなくも私は棒で打たれて倒れた。
スンダリー「コハラさん」
私にすがりつくスンダリーさんの手をひとりの兵が掴もうとしたとき、棒の一閃が兵を打ち倒した。威風堂々、スンダリーさんの前に立ちふさがったのは、アショーカ王の親衛隊長クシャラさんその人。
クシャラ「下郎、命拾いしたな。スンダリー殿下に触れていれば、私は加減をせず、お前の命はなかったのだからな」
ウグラ「あんた、やるじゃないか」
コハラ「クシャラさん、なぜここに」
クシャラ「わけがあってのことです。間に合ってよかった」
コハラ「ええ、よかった。しかしわけとは何ですか?」
スバドランギの従者「おなーり、おなーり」
金の音とともに一団の人々が現れた。
スバドランギの従者「いと尊きマガダの太后様、スバドランギ様の、おなーり」
金の音。
スバドランギの従者「チャンパの8代に渡る由緒正しき婆羅門のお血筋、勇猛並ぶ者無き先のビンドゥサーラ王のご正妃、慈悲に満ちたる全ての善人の母、全ての美徳の川の水源、スバドランギ様の、おなーり」
これだけの名声(*)を並べられては、誰もが後ずさり平伏する他ない。
*名声 「良い劇の筋の要素は36通りあります...多くの有名な功績を優れた言葉で表現すると、名声(Prasiddhi)が生じます」
Nāṭyaśāstra. XVII, 33
豪奢だが品の良い装束をまとった、美しい人が進み出た。これぞアショーカ王の母公スバドランギ太后に相違ない。
スバドランギ「チャーナキャさん」
チャーナキャ「はっ」
スバドランギ「そこのクシャラから、あなたが無法なことをしようとしていると聞いて、私は急いでここへ来たのです。さて教えてください。あなたはここへ何をしに来ましたか」
ヴァーティヤ「おいコハラ、あの声を聞いたか」
コハラ「はい、聞きました。あれは母上の声です」
太后の声は、静かな月夜に水が落ちるかのような澄んで情緒ある声。私を慈しんでくれた母の声そのものだった。私はすでに泣いていた。
チャーナキャ「太后様、包み隠さず申し上げます。私には隠さなければならないことはないのです。演劇はマガダのために利をもたらしません、むしろ害悪をもたらします。そこで私はこやつらを追い払いに来たのです」
スバドランギ「私が旗祭りの演劇を心から楽しみにしていることを知っての上ですか」
チャーナキャ「それは存じ上げませんでした」
スバドランギ「私は陛下から全て聞いています。今度の旗祭りの演劇はマガダ人とカリンガ人の和解のために必ず役に立つものです。これが利でないなら、何が利なのですか?」
ドリティ「この方はわかっておいでです」
ヴァーティヤ「しかも容姿もお声もお美しい」
私はそうつぶやく父上が恍惚と太后を見ているのを驚きとともに見た。
チャーナキャ「ごもっとも。ですがマガダはさらに増強されなければなりません。旗祭りで遊んでいる場合ではないのです。そのために陛下もタミラカムとの国境へ視察へ行かれております」
スバドランギ「それはあなたの思い込みです。陛下はタミラカムとの平和のための交渉をするために国境へ行かれたのです。そして万一に備えてクシャラを私のもとに残したのです。はっきり言っておきます。チャーナキャさん、私はあなたのこのような専横を許しませんよ。もう下がりなさい」
チャーナキャ「かしこまりました。行き過ぎておりましたことをお詫びします。どうぞ平に」
大臣と護衛兵たちは後ずさりつつ退散した。すると驚いたことが起こった。太后が私たちに向かって平伏したのである。
ヴァーティヤ「おやめください、太后様。あなた様にふさわしくないことです」
スバドランギ「いいえ、私にこそふさわしいことなのです。私が生んだ愚かな倅と、我がマガダの戦士が皆さんに何をしたか、私は知っているのです。ですから私は皆さんにお詫びしなければならないのです。あなたが座頭様ですね?」
ヴァーティヤ「はい、座頭のヴァーティヤでございます。確かに私の妻と娘は先の戦争で亡くなりました。多くのカリンガ人が死にました」
太后は号泣しはじめた。
スバドランギ「悲しいことです、むごいことです。どうぞ私を責めてください」
ヴァーティヤ「多くのマガダ人も死に、苦しみました。しかし残された私たちは、悲しみと憎しみを乗り越えて、和解すべきです。そのために、旗祭りの演劇を上演するのです。今太后様はそれを助けてくださいました。どうして私たちが太后様を責めるでしょうか。私たちは太后様のお志を今目の前に見ました。はばかりながら申し上げます。私たちはすでに同志です」
スバドランギ「嬉しいです、ヴァーティヤさん。あなたは私を救ってくださいました。勇気を与えてくださいました。実はここに来ましたのはもうひとつの用事があったためなのです」
ヴァーティヤ「どんなご用件なのですか?」
スバドランギ「あなたがスンダリーさんですね。スバドランギでございます」
スンダリー「太后様。スンダリーが初めてご挨拶いたします」
スバドランギ「クシャラからあなたが劇団のナーイカになられたと聞きました。あなたはいったいどうやってこの劇団のナーイカになられたのですか? どうやって劇団の皆さんに自分がナーイカにふさわしいことを示されたのですか?」
スンダリー「私は皆さんと合わせて即興で舞い歌いました。それがうまく調和したのです」
スバドランギ「なるほどそういうことですか。それではヴァーティヤさん。私の歌を聞いてください。皆さんに合わせて、即興で歌わせてください」
ヴァーティヤ「何のお話しですかな?」
スバドランギ「どこからお話ししましょう、そうあそこから。ここだけの話ですが、私が8代前まで婆羅門の血筋などと称しておりますのは、真っ赤な嘘なのです。私は女優で朗唱歌手でした。演劇通だった先王に見初められて、愛していただき、正妃となるためにそのような僭称が必要だったのでした。お笑いくださいまし」
ブダセーナ「ありがちなことだ」
ヴァーティヤ「それから、それから」
スバドランギ「陛下から旗祭りの演劇のことを聞きました。意義深いことと感心するとともに、私の心の中に、若い頃の演劇人としての情熱が燃え上がるのを私は見ました。クシャラからスンダリーさんがナーイカになられたと聞いたとき、私が嫉妬を覚えたことを告白しなければなりません。私はナーイカとしては年を取りすぎましたが、パータカ(朗唱歌手)としてならまだ通用するという矜持を持っていることも」
ヴィプラ「これは渡りに船」
ヴァーティヤ「実は女パータカだった私の妻が亡くなったために、今私たちの劇団には女パータカがいないのです」
スバドランギ「奥様のことは悲しいことでした。でも私は旗祭りで償いをすることができるかもしれません。つまりヴァーティヤさん、私をパータカとして劇団に加えてくださいまし。私がパータカにふさわしいか、試験をしてくださいまし」
ヴァーティヤ「それは願ってもないことですが、慣習に反します。あなたは太后様。我々は芸人」
スバドランギ「慣習が何だとおっしゃるのですか。慣習が真に役に立ったためしなど、実はないのです。それにスンダリーさんだって王族です。不公平ではありませんか?」
コハラ「筋が通っています。父上、私は太后様の歌をお聴きしたいです」
スンダリー「私もです」
ドリティ「私が伴唱を務めましょう」
ヴァーティヤ「それではひとつやってみましょう」
スバドランギ「ありがとうございます」
稽古の途中であったので、楽器の準備はできていた。私とスンダリーさんが舞台の中央に立った。太后が父の横に座った。観客はクシャラさんと太后の従者たち。ドリティのタンプーラ。叔父上のボル(口打音)とタブラ。
スバドランギの朗唱
私の隣にあなたがいます。私の心は躍ります。(躍ります)
ヴァーティヤの朗唱
私の隣にあなたがいます。私の心は躍ります。(躍ります)
私とスンダリーさんが手を取って見つめ合う。大叔父上の笛。
スバドランギの朗唱
私とあなたの心は繋がっています。私たちの志は同じです。(同じです)
ヴァーティヤの朗唱
私とあなたの心は繋がっています。私たちの志は同じです。(同じです)
スバドランギの朗唱
見てください、空を、大地を。私たちは繋がっています。(輪のように)
ヴァーティヤの朗唱
見てください、空を、大地を。私たちは繋がっています。(輪のように)
私とスンダリーさんは腕を空に思い切り広げる。
スバドランギの朗唱
憎しみは鎮まりました。悲しみは鎮まりました。残ったのは親しみと歓喜だけです。(親しみと歓喜だけ)
ヴァーティヤの朗唱
憎しみは鎮まりました。悲しみは鎮まりました。残ったのは親しみと歓喜だけです。(親しみと歓喜だけ)
私とスンダリーさんは手を取り合って見つめ合う。
やはり太后の歌声は母の歌声にそっくりだった。無限の慈しみの心が全ての生き物を抱擁しているかのようであった。皆を強烈な感動(Rasa)が襲い、誰もが泣きむせんだ。クシャラさんたちは立ち上がって熱烈な拍手。
ヴァーティヤ「太后様、お見事です。素晴らしい朗唱です。そしてあなたの声は私の妻とそっくりそのままです。私たちにとってはこれこそがあなたの名声です。地位や権力や財産など、演劇では名声でも何でもないのです」
スバドランギ「不思議なことです、有り難いことです。いかがですか、私を劇団に加え、パータカにしていただけますか?」
ヴァーティヤ「もちろんですとも、太后様」
スバドランギ「それではヴァーティヤさん、皆さんも、どうかスバドランギとお呼びくださいまし」
ブダセーナ「スバドランギさん、私は義姪が帰ってきたのかと思いました。」
ヴィプラ「スバドランギさん、私たちにとってあなたは義妹です」
ドリティ「カイシキー叔母様が今お戻りになられました」
ヴァーティヤ「さあスバドランギさん、稽古を続けましょう。私たちの志は同じです」
スバドランギ「嬉しいことです、私は幸せです」
スンダリー「役者が揃うとはまさにこのことです」
コハラ「このことです」
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