第7話

 三宅が家に着くと、他の家族は誰も帰宅していなかった。

 自室で部屋着に着替えて、リビングへ向かう。寒々しいリビングに置かれている石油ファンヒーターのスイッチを入れて、部屋が温まるのをヒーターの前に座り込んで待った。

 ぼおっ、と火が燃え上がる音がして、すぐに熱風が噴き出してくる。かじかんだ手先をかざしていると、じわじわと温まっていくのを感じた。

 ヒーターの内部で燃焼して揺らめく炎を見つめながら、千紗都の濡れそぼった瞳を思い出していた。嘘をついてあの場を辞去したことは、正しかったと思う。たとえ彼女が自分を嫌うことがあっても、自分のせいで彼女に、これ以上の心配や迷惑をかけるわけにはいかないのだ。酷く屈折しているとは思う。

 御舟千紗都とは、小学校からの付き合いだった。一緒に空手を習っていて、彼女は三宅よりも強かった。そして、肉体的にだけでなく、精神的にも千紗都は強かった。意地悪な高学年にも、相手が男だとしても臆さず立ち向かった。決して暴力は振るわなかったけれど。

 二人のどちらかに恋愛的な感情があったかと言われれば、それはないと三宅は誓って言える。あくまで二人は、仲のよい友人であり幼馴染だったと思う。

 それは中学校に入ってもそれほど変わらなかった。ただし、思春期特有の男女間の壁のような物を感じて、少しばかり疎遠になったような感覚はあった。

 千紗都との関係はそれでもいいと三宅は思っていた。当時、意中の相手が居たからだった。

 古市皐月という、目鼻立ちのはっきりした女子生徒だ。校区内の他の小学校からやってきた女子で、三宅は一目見て強く惹かれてしまった。清らかで少女らしい外見にちぐはぐな、憂いのある掠れ声を聞くたび、鼓動が早くなる心地がした。

 中学校のクラス内では、誰それが付き合っているという情報が盛んに飛び交っていた。その話題の中に皐月の名前が挙がって来ないことを毎日祈りながら、三宅は学校生活を過ごした。自身、目立つ生徒ではないことを自覚していたし、学力には多少自信があったが運動は平均以下という特徴のない人間だと理解していた。それでも、皐月とクラス内でランダムに決められるグループが一緒になり、給食やグループ授業を共にする中で、皐月への想いはますます募っていった。

 彼女が自分に話しかけてくれる。挨拶してくれる。そんな時に見せる、潤んだ大きな瞳。ぷっくりと膨らんだ魅力的な下唇。笑うと鼻に小じわが寄るいたずらっぽい顔。無邪気な仕草……。その全てに、惹かれてしまったのだ。

 三宅が告白したのは冬の日だった。意を決して放課後の空き教室に、皐月を呼び出した。それが悪夢のはじまりだった。

 放課後になって、暖房が切れた教室は寒かった。誰もいない教室で、心を落ち着けようと窓の外を眺めていると、野球部ユニフォームを着た部員が数人、グラウンドへ駆け出していくのが見えた。

 がらがらと、戸を引く音が聞こえて三宅は振り返った。

 そこには、首元にマフラーを巻いた古市皐月がいた。温かい部屋から出てきたからか、頬に朱がさしている。三宅の鼓動は、煩いほどに高鳴った。

「三宅君。話って、なに?」

 甘えるような、掠れた声。

 三宅には、もう何かを考えている余裕はなかった。ずっと頭の中で繰り返していた告白文も、ぐちゃぐちゃに乱れていた。

「お、俺。皐月のことが、好きです!」

 それだけを口にするので精いっぱいだった。格別に仲の良い相手ではないのに、古市皐月の名前を呼び捨てにしたのは、小学校時代からの癖だった。千紗都のように、三宅は同年代の女子なら名前で呼ぶのが普通だと思っていた。

「……私のどんなところが、好き?」

 静かな教室に、皐月の声が妖しく響いた。教室の扉が、風で動くような音がした。

 てっきり、承諾か、あるいは否定のどちらかの返事があるものと思っていた三宅は、意表を突かれた。それでも、彼は思いのたけを口に出した。

「その……大きくて可愛らしい瞳とか、魅力的な唇とか、笑顔とか……。優しく、話しかけてくれるところも、声も、全部……」

 恥ずかしさのあまり、三宅は視線を足元に移した。その一瞬、視界に入った皐月の顔はぴくりと痙攣したが、彼はそれを気にするどころではなかった。

「どれくらい、好き? 私のためなら……三宅君は、何ができると思う?」

 もう、三宅は破れかぶれだった。

「世界で一番、だよ! なんでもできるよ! 皐月のためなら……」

 廊下の方で、空気が漏れるような音がした。

 それから、けたたましい嬌声が聞こえて、三宅は動転して声のした方を見た。

 皐月が入ってきた方とは別の扉が開いていた。携帯電話を構えた女子生徒たちが、腹を抱えて笑っている。視界の端では皐月がしゃがみ込んでいた。

「ちょっとお。まだ途中だったじゃん! これからだったのに」

 笑いを交えて、皐月は廊下の生徒達を詰った。

「もういい。もう十分。撮れ高凄いよ。おかしくて死んじゃう」

 苦しそうに女子生徒の一人が言った。

 耳が遠くなっていくのを感じる。血の気が引いていくのが自分でも分かった。

「ここ。ここ最高だよ」

 髪の長い女子生徒が携帯電話を操作すると、音声が聞こえてきた。くぐもったような、変な声で「……大きくて可愛らしい瞳とか、魅力的な唇とか……」と聞こえる。女子生徒たちは堰を切ったように爆笑した。

「魅力的な唇って……エロ小説かよ」

 一人が言うと、甲高い耳障りな声はさらに煩くなった。

「ねえ。どうすんの皐月。三宅君、固まってんじゃん。早く返事してあげなよー」

 ふざけた調子の声だ。

「分かったから、黙ってて!」

 口元を歪めて、皐月は立ち上がった。その様子を、三宅はぼおっと見ていた。

「三宅君、こういうことだから、ごめんなさい。あと、呼び捨てにされるの、嫌だから。私達、そんなに仲良くないよね。好きじゃない相手から向けられる好意って、普通にキモいから、やめて欲しい」

 それから、どうやって教室から帰ったのか覚えていない。

 布団をかぶってベッドに潜り込んでいたら、朝だった。その日も学校があった。よほど休もうかと三宅は思ったが、平気な振りくらいしなければ、皐月たちが増長するだろうという反骨心が芽生えた。

 学校に行くと、事態は予想を超えて悪化していた。教室に入った途端、あのくぐもった、変な声が聞こえた。聞き覚えのある台詞だった。

 どっ、と津波のような哄笑がした。女子生徒も、男子生徒も、声を上げている。

 三宅は逃げた。もう何も見たくなかったし、聞きたくなかった。その日から学校も休んだ。母や妹から向けられる心配すら胸を締め付けた。友人が訪ねて来たと言われても、一切会わなかった。

 どれくらい休んだか分からない。記憶があやふやで、二週間だったのか、あるいは一か月だったのかもしれない。今の三宅からすれば、それは廃人のような生活だったと思う。

 三宅は、その日、突然部屋まで入ってきた千紗都に家から引っ張り出された。強引な千紗都になされるがままになって、あの日以来、久しぶりに学校へ行った。

 放課後の教室に入ると、クラスは静まり返っていた。クラス全員の注目が、教室に入ってきた三宅と千紗都に注がれた。

 三宅は俯いた。静寂が煩くて、耳を塞ぎたくなった。何が起ろうとしているのか分からず、かといって顔を上げる勇気も無かった。ただ、何かが起こるのを待った。

 突然、椅子を引く音がした。誰かが席を立ったのだ。足音は、三宅の前に来た。

 身体を硬直させて身構えた三宅に、その生徒は頭を下げて謝罪した。三宅はその時は一切知らなかったのだが、クラスの違う千紗都が事情を知り、激しく憤った末にクラス全員を糾弾したのだという。一人一人に詰め寄って動画を消させて、謝罪を迫ったと聞いた。

 一人、また一人と、クラスメイトが三宅の前で謝罪する。その姿を、三宅はテレビを見ているような感覚で受け入れた。怒りは無かった。もう、どうでもいいと思っていた。

 最後にやってきたのは、古市皐月だった。その時になってようやく、三宅は無性にその場を逃げ出したくなった。あれほど焦がれていたはずの皐月のくっきりとした高い鼻筋は、醜い魔女の鉤鼻のように見えた。

「三宅君。その、ごめんなさいね。でも、ちょっとしたいたずらだったの。だからこのくらい、男子なら、気前よく許してよ……」

 凄まじい破裂音がした。

 教室から短い悲鳴が聞こえた。目の前にいたはずの皐月が後ろによろめき、頬を真っ赤にして誰かの机に寄りかかっていた。

「……あなた、最っ低だよ」

 すぐそばに千紗都の姿があった。その右手が中空で震えている。

 その時に初めて、三宅は千紗都が暴力を振るうところを見た。

 皐月の口元から、一筋の血が流れた。口の中を切ったようだった。

 皐月は千紗都をきっと睨みつけると、千紗都へ飛び掛かった。

 それからどうなったか、よく覚えていない。激怒している千紗都を必死で止めたような気がする。誰かが先生を呼びに行き、その場は終息した。千紗都の暴力行為は事なかれ主義の学校側に揉み消されたものの、皐月の保護者からの抗議により、最初に暴力を振るった千紗都にだけ、停学と部活の謹慎処分が言い渡された。千紗都は、直後に部活を辞めた。

 千紗都の停学期間中、三宅は千紗都に会いに家へ行った。

 自分のせいで何の得にもならないことに巻き込んでしまい、あまつさえ、皐月たちの悪行を差し置いて一人罰せられた彼女に対し、罪悪感を抱いたからだ。

 千紗都は、自室であっけらかんとしていた。暴力を振るってしまったことは悔いていたが、行いは正しかったと言った。

「どうして……御舟さんは、俺のためにあんなこと」

 三宅は思い切って聞いた。脳裏に皐月が過ぎって、仲が良かったはずの千紗都ですら、名前で呼ぶことを躊躇ってしまった。

 千紗都は、まっすぐ三宅の瞳を見据えた。

「誰かが笑って、誰かが傷ついてるのは、それだけは絶対に正義じゃないって、思ったから」

「正義?」

 三宅の問いに、千紗都は頷く。

「私は誰かを思いやれる、正義の人でいたいの。そして、自分に嘘を吐いて正義を曲げることだけは、絶対にしたくない」

 固い決意だった。彼女がどうしてそこまで正義にこだわるのかは分からない。彼女の両親は警察官でも無かったと思う。いや……なぜ、などということはどうでもいい。

 三宅が二の句を継げないでいると、千紗都は照れくさそうな顔をした。

「私は、嫌じゃないから。いつもみたいに千紗都って呼んでよ」

 それ以来、三宅の中で千紗都は家族以外で唯一、信を置ける女性になった。

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