停電

浜辺に打ちあがった魚

停電

 白いスイッチを押し込むと、蛍光灯は点滅しながら、細長い筒の中で虫が跳ねるような音を立てた。ピンピン、ピン、カラン。

 カップラーメンの蓋を開けて、熱湯を注ごうとしていたときのことだった。私の家には、窮屈なシンクに押し込まれた水に浸けられた食器たちがいて、暗闇の中で洗濯を待つ衣類があり、冷蔵庫で期限に怯えながら、切り刻まれるのを待つ食材たちがあり、伸びる爪があり、汚れる歯があり、停止しない消化器官が私の体内には内蔵されていた。何もかもが中途半端で、しかも終わるということがない。すべてが等しく秒針に連れられて、どこかに進む。

 私はカップラーメンの包装をやぶりながら、聞き慣れない歌詞を聴いていた。

 その歌声は壁越しに二〇一号室から聞こえていた。二〇一号室には外国人が住んでいる。彼らは私の知らない言語で、なんの曲かを陽気に歌っている。廊下ですれ違ったとき、その外国人は褐色で、たぶんベトナム人とかだと思うのだが、隣人と親しくするつもりはないようで、すれ違うときには道ばたの自転車を避けるような陰気な顔をしていたというのに、歌っているときの声はむだに明るい。ギターなどの伴奏はないが、ときおり二人分の笑い声があいだに挟まる。

 話を戻そう。食事にありつこうとしていたときのことだった。カップラーメンのフタを開いた瞬間に、なんの前触れもなく、部屋の明かりが「ふっ」と消えたのだった。

 明かりがまったく消え失せたことで、すぐに停電だ、とわかった。

 か細く消え去っていった電気は、戻ってこなかった。やがて暗闇がやって来た。というより、明かりが消えて数秒が経って、私はようやく回りのことがよく見えるようになってきた。私の部屋は息を殺していた。針を落としたような静寂だった。隣人も、突然の停電に動揺したのだろう。二〇一号室の歌声は、ぱたりと止んでいた。

 あらゆる音が、螺旋状の暗闇にからめとられて消えたのだった。

 私はひとまずスマホのライトを点けて、部屋に戻った。カーテンを開いていたおかげで、部屋には月明かりが充満し、物体に陰ができていた。私は足元を照らしながら、遠近感覚をさほど失うこともなく、ローテーブルの前に腰かけた。

 何かが起こったのだろうと思い【東京 停電】というフレーズで、色々と検索をかけてみる。けれども目新しい情報はどこにも更新されていない。もっとも情報の更新が早いだろうⅩ(ツイッター)にも、停電に関する話題はなかった。

 ふと、スマホの充電がなくなった自分を想像した。

 もしも、明日になっても電気が戻って来なかったら? 

 私はきっと、電話の手段を欲するだろう。

 二〇一号室の住人にスマホを貸してもらうよう頼むだろうか。いや、そんなことはしたくない。第一日本語が通じるかもわかんないし……二〇三号室にいる不愛想な住人も同様だ。むしろ日本語が通じてしまうぶん、厄介な問題を抱える可能性だってあるだろう。

 私は電力温存のため、それ以上画面を点けないことにした。

 停電から、およそ三分が経過しただろうか。

 二〇一号室の外人は停電に順応したらしく、あるいは暗闇すらも楽しく過ごしているのか、やはり意味の分からない陽気な歌声を再開しはじめた。比べて私は、部屋でひどく腹を空かせていた。私の部屋には、いま原始的な暗闇が漂っているように思われた。部屋の壁には青白い光が漂っていた。私にはすることがなかった。電気が途絶えた途端、できることは何もなくなってしまったのだ。もちろん、ガスと水道が生きているなら、山積みの食器を洗ったりお風呂を済ませることはできるだろう。だけど、電気もなしにそういうことをする気には、なんだかなれなかった。

 私は光に手をかざした。小さな手は、壁の中で巨大な影となった。暖房が切れたせいか、部屋はだんだんと寒くなっていた。私はベッドの上で膝を抱えて、身体に布団をまとった。そして、すりガラス越しに月明かりを眺めようとした。

 そんな矢先、私はあることに気が付いた。

 飛び起きて、すりガラスの窓を開けた。外の街灯に、電気が通っているのである。予備電力がどうのこうのと、難しいことが頭によぎったが、アパートの前にある、マンションの明かりが点いているのが目に入った。どういうことかと――身体を乗り出し、隣の部屋を覗くと、外国人の窓辺からは明かりが漏れ出しているではないか!

 停電しているのは、どうやら私の部屋だけだったらしい。

 私は急な孤独に駆られた。変にこころぼそくなった。

 私の直面しているトラブルは、私一人で解決しなければならない代物らしい。

 ひとまず窓を閉めて、私は、スマホ片手に洗濯機の前まで歩かなければならなかった。二〇三号室とのあいだにあるザラザラとした壁を手で伝いながら、フローリングから足を剥がすように、ぺたぺたと歩いた。

 暗闇の中では、何もないところでも、足が何かにつまずきそうだった。

 洗濯機の真上に、この部屋のブレーカーがある。

 私はスマホのライトを向け、ブレーカーのスイッチがどれも切れていないこと、異常のないことを確認した後、スイッチの一つ一つをパチンパチンと跳ねてみた。しかし部屋に電気が戻ってくる様子はなかった。

 最後に私が思いつけたのは、契約している電力会社に電話をすることだった。

 私は充電残量を気にしながら、手際よく電話番号を調べ、電話をかけた。お願い……と私は心の中で祈った。電話をすること以外には、私には打つ手が、もうほんとうにないのだった。耳元で受話器が取られる音が聞こえた。

「夜分にすみません、ちょっとご相談したいことがありまして……」

 私は要件を手早く話そうとする。けれども、私が句読点を打つよりも早く、受話器から聞こえてくるのは「大変申し訳ありません。ただいま回線が混み合っているため、電話に出ることができません。もうしばらく、お待ちください」という、録音された女の機械的な声だけだった。

 気が付けば、二〇一号室の歌声が沈黙していた。彼らはきっと、私を置いて先に眠ったのだろう。部屋はますます寒くなる。息を吐けばもうすぐ白くなりそうだった。私は窓辺の明かりを頼りにベッドの中へ入った。これからどうなるのだろうと私は思った。考えようにも、私の頭はいまだ混乱していて、明日のことなど考えようもないことだった。

 眠気はさっぱりとなかった。スマホの明かりを一瞬点けて時刻を確認する。時間はそれほど経っていなかった。私の部屋へ強引に入り込んできた闇が、きっと体感時間を歪めてしまったのだ。そしていま、闇は私の体温すら少しずつからめとろうとしていた。寒さで身体が震えはじめていた。私は身体の震えを抑えることができなかった。歯がガチガチと音を立てた。こんな状況になってしまっては、本も読めないし、音楽も聞けない。気休めはない。きっと長い夜になるだろう――と私は思った。電話が繋がるようになるまで、私にできることと言えば、壁に浮かぶ影を見つめることだけだった。


 そのようにして私は暗闇を払いのけることができず、今も電気が戻ってくるのを待っている。

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停電 浜辺に打ちあがった魚 @huyuyasumi

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