冬眠した人間は雪解けの夢を見るか

ふりったぁ

さっかくじゃないよ?

「人間って、冬眠したから滅んだらしいよ」


 ガサガサと紙が擦れるような声でユンが言うものだから、キノーユは四つの丸い目を不思議そうに何度も瞬かせた。

 そして彼は、太い尾が周りの展示物に当たらないように細心の注意を払いつつ、自慢げに胸を張っている友達の方を振り返った。


「ええと、ユン。きみが人類史学を好きなことは、よく知っているつもりだよ。それでも、いや、だからこそ敢えて尋ねさせてもらうんだけど……『とうみん』って、なに?」


 キノーユの問いかけにユンは嫌な顔ひとつしなかった。彼はさながら博士にでもなりきっている様子でエヘンと咳払いをして、三本指のうちのひとつを立てた。


「ユキノクニ歴の紀元前に存在した生態のひとつさ。雪が溶けるまで、眠りにつくことだよ」

「雪が溶けるまで眠る――だって?」


 キノーユは思わず大きな声をあげ、それから慌てて自身の嘴を押さえた。

 幸いにして彼らの周りにいた者達はキノーユの声など気に留めていない様子だった。各々が各々の目の前にある展示物に、夢中になっている。

 たしかに、キノーユ達の周囲に展示されているものはどれも貴重な物であった。紀元前に絶滅した『人間』に興味がある者ならば、誰もが目を奪われるに違いない。

 しかし、キノーユはあまり人間に興味がなかった。

 生物学に食指が向かないと言った方が正しいだろう。

 人類史展なんて――よほどの学者か、オカルトマニアくらいしか見たがらない催し物だ。


――それじゃあ、なぜ僕は今ここにいるんだ?


 急にキノーユはいたたまれない気持ちになり、嘴の先端をカチカチと擦り合わせた。


「ねぇ、ユン。やっぱりニンゲンって存在しなかったんじゃないの?」

「またお前は、そうやってすぐに紀元前の生き物をオカルト扱いする」

「だって、『雪が溶けるまで眠る』だなんて! 呑気でノロマなノゼハショウの雛ですら、考えつかないことだよ」


 キノーユは自身の太い尾を手繰り寄せ、不安げに尾の先を指で弄る。


「そりゃあ、雪は溶けるものだよ。でもさ、ユン。きみだって知っているだろう? 地表を覆う積雪の高さ、この展示会場にも使われている壁雪の固さ。どれもこれも、眠っているだけで勝手に溶ける代物じゃない」

「それはキノーユ、お前が紀元後の生き物だから、そのような考えに囚われているんだよ。大昔は雪がある方が珍しかったんだぜ。信じられるか? 空に浮かんでいるあのちっぽけな太陽が、すべての雪を溶かしていたんだ!」

「……ふぅん。ユンはそうやって、なにも知らない僕を騙して馬鹿にするんだ」

「おいおい。俺がいつお前を騙したって? 人間は存在した。それを証明するために、お前をここに連れてきたんだぞ」


 ユンはガサガサと笑いながら、「こっちだ。早く」とキノーユを手招きしながら、三本の足を器用に動かして展示会場の奥へ進んでいく。

 キノーユは気の乗らない表情を浮かべつつ、ペタペタと足音を立ててユンのあとを追いかけた。


「冬眠はさ、別名『コールドスリープ』とも呼ばれているんだ」

「コルトスリップ? なんだか飲み物みたいな名前だね」

「コールドスリープ。凍らせて眠るってこと」

「ニンゲンって凍るの?」

「俺達『ユキビト』でも生活できないほど、気温を低くすればね。そうやって人間は雪が溶けるまで眠り続けて、積雪の時代をやり過ごそうとしたらしい」


 人間の衣服、人間の玩具、人間の勉強道具……。

 さまざまな展示物をもの珍しげに見るのは周りのユキビト達ばかりで、日頃より人類史学に執着しているユンが脇目も振らないのは、キノーユにしてみればすこし奇妙な光景だった。


――よほどユンは、今回の『目玉展示』が気になるようだ。


 キノーユはユンに気付かれないように溜息をついた。

 彼はユンほど、人間に興味はない。今回の『目玉展示』についても、実は偽物ではないかと疑っているくらいだ。


「なぜニンゲンは、とうみんで絶滅したの?」

「冬眠している間に、酸素が足りなくなったんだ」

「なんだって?」

「さ、ん、そ。俺達にとってのユキ素みたいなもん。それがないと、人間は呼吸ができなくて死んじゃうんだよ」


 段々と、前方にユキビト達の集団が見えてくる。

 彼らは今回の『目玉展示』を囲み、それを見上げているようだった。

 ユンは足を止めて、キノーユのくたびれたコートを掴む。


「ほら、ここからでも見える。あれが『人間』だぜ」


 ユンが三本指のうちの一本を前方に向けた。

 そこには、キノーユを縦に三体並べたくらいの大きさの『試験管に似た楕円形の容れ物』があった。

 その『試験管』は鈍色の機械で作られていて、上面に一ヶ所、中を覗き込める透明な窓が付いていた。

 キノーユ達はユキビトの集団のいちばん外側にいたが、それでも透明な窓から中の様子を窺えた。

 どうやら『試験管』の中は、凍りついているようだ。

 キノーユは氷漬けの中身を眺めて、唸る。

 そこに、漫画や映画でよく見る『人間』の顔が見えたからだ。


「二ヶ月前に地下遺跡から発掘された『生命維持措置』って遺物だ。たくさん見つかったらしいんだけど、みんな死んでいてさ。アキが唯一、まだ生きている人間なんだぜ」


 毛深い腕を振り回し、興奮気味に話すユン。

 キノーユは心底耳を疑った。


「待ってくれよ。アキって、あの人間の名前? 生きている? 紀元前の生き物が?」


 再び彼は太い首を動かし、『試験管』の窓を見つめた。


「ありえないよ」

「それを可能とするのが冬眠なんだよ」


 ユンはどこか誇らしげに言い、アーモンドの形をした三つ目に恍惚とした色を湛える。


「生命維持措置には『AKI』と刻まれていたらしい。四季の国の言葉で、アキと読むんだ」

「しきのくに? なんだっけ、前にきみから聞いた覚えがあるよ。紀元前にあったクニのひとつ……だっけ?」

「そう! さすがは俺の友、キノーユ。よく覚えていてくれた。でさ、見てくれよ、あのアキの顔。目がふたつで鼻と口がひとつずつ……ちょっと愛らしい顔つきじゃないか」

「……ユンって、昔からクリーチャーが好きだよね」


 生きている人間を目の当たりにした動揺をなんとか胸のうちに押し込め、キノーユは素知らぬ顔で軽口を叩く。


「おい、俺と人間に失敬だぞ」


 すぐさまユンが非難の声をあげたがキノーユは聞き流した。そして、近くにある『試験管』の紹介文になにげなく目を向けた。

 数秒後、彼は「えっ?」と声をあげる。


「ねぇ、ユン。その……ニンゲンは『さんそ』がないと、生きていけないんだよね?」

「おぉ。そうだぜ」

「この、せいめいいじ……そうち? さんその残りが少ないって、ここに書いてあるんだけど……」


 キノーユの言葉を聞いたユンは、すこしばかり目尻を下げて、悲しげな表情を浮かべる。


「そうなんだよ。発掘隊が生きている人間を見つけたまでは良かったんだ。でも、酸素の作り方なんて、どれほど高尚な科学者でも知らない。それに……このユキノクニには、酸素なんてどこにも存在しないんだよ」

「見殺しにするしかないの?」

「心優しい俺の友、キノーユ。聞いてくれ。これはネハネの生態を観察するようなものさ。人間はユキノクニの環境に適応できないんだ。あの生命維持装置の中で、静かに生をまっとうするのがいちばん幸せなんだよ」

「そんな……きみはそれが生物学的な観点で、『自然の摂理』だとでも言うのかい?」


 あくまでキノーユは、疑問に思ったことを口に出しただけだった。

 しかし、ユンにはそれが叱咤に聞こえたらしい。彼は大きな垂れ耳をますます低く垂れさせて、落胆するように肩を落とした。


「言わないよ、誓って言わない。ただ、人間はよく自然の摂理を捻じ曲げていた。冬眠だってそのひとつだ。本来、摂理の変化に適応できない生き物は死ぬしかない。けれど人間は、適応できない事実を拒んだ。彼らは理想の世界に逃げ、理想から出られないまま死んでいくんだ」


 ユンの言葉を聞いて、キノーユは再び嘴の先端を擦り合わせる。

 『目玉展示』は偽物かもしれないと、さきほどまで疑っていたのに。キノーユは氷漬けのアキを見た瞬間から、その予想がどこかへ吹き飛んでいた。

 それは、ユキビト達が群がって『試験管』を見上げていたからかもしれない。キノーユは、こんなに大きな生き物が実在してたまるかと思う一方、『人間は本当にいたのかもしれない』と思わせる妙な説得力をこの現状から感じ取っていた。


「ネハネの生態観察みたいなもの、か。幼体期の生物の授業を思い出すよ。僕らの掌ほどちいさなネハネの死骸を、メスで開く感覚は今でも思い出したくないね。……ニンゲンも、死んだあとは解剖するの?」


 おそらくね、とユンは興奮を抑えた声で言う。


「冬眠で死んだ人間は、剥製にすらできないくらい硬直するって聞くよ。だから雪を掘り返して、土に埋めるしかないんだ。けれど、アキはまだ生きている。もし、死んですぐにメスを入れたら解剖できるかもしれない。紀元前の生き物の中身がわかるんだよ!」


 キノーユはまた低く唸って、『試験管』を見上げた。

 紀元前の生き物を学問として、あるいはオカルトの顕現、すなわち娯楽として捉えるユンにとって、『本物の生きた人間、その中身』ほど気になるものはないのだろう。

 その証拠に、彼は二本の細い尾をせわしなく床に叩きつけながら、『試験管』の説明文に読みふけっている。

 普段は引きずられているだけのユンの尾が動くことは、それほど今の彼が高揚していることを表していた。


――僕はなんだか……同情しちゃうな。


 キノーユは人間に興味がない。だが、『生きている』と聞かされると、とたんに胸の辺りが苦しくなった。


――こんなに大きくても、扱いは解剖練習用の小虫のネハネと同じだなんて。


 そのようなことを考えた直後、キノーユは信じられないものを見た。

 凍っているはずの人間が、微かに動いたのだ。

 まもなく、ユンが『目』だと主張していたふたつの箇所に色が灯った。

 ミミクコッコの実にも似た茶色だった。

 その茶色の中央には虫が食った穴のような、ちいさく丸い漆黒がある。

 そして、茶色と漆黒はノゼハショウの雛が歩くかのような遅鈍な速度で、ゆっくり、ゆっくりと、動き始めたのだ。


「ユン! ユン!」


 我慢できなくなったキノーユは急いでユンの黒いベストを引っ張った。


「ニンゲンが僕の方を見た!」

「なにを言っているんだ、キノーユ。アキは今、生きているとはいえ眠っているんだぜ。目を開けるはずがない」


 冷静なユンの言葉でキノーユは我に返り、慌てて四つの目をこすった。

 それからもう一度、『試験管』を見上げた。

 茶色と漆黒はどこにもなくなっていた。


――でも、たしかにニンゲンは僕を見た!


 キノーユは異常な光景を目撃した自覚があった。

 だが、騒いでいるユキビトはキノーユだけで、周囲の者達は慌てた様子もなく『試験管』を見上げている。

 そのせいでキノーユは、いたたまれない感覚を思い出した。

 けれど、それはさきほどとは少々違う感覚だ。

 強いて言うなら、出来の良いホラー映画を鑑賞したあとの恐怖感に似ていた。


「……勤勉な僕の友、ユン。教えてほしいんだ。氷漬けのニンゲンに、僕達の会話は聞こえているのかい?」

「だから、さっきから言っているだろう? アキは氷漬けで眠っているんだ。死ぬまでなにも聞こえないよ」


 『試験管』の説明文に気を取られているユンの反応はおざなりだ。それでも、その回答にはキノーユの欲しかった情報が入っていた。

 キノーユはなんとか胸を撫で下ろそうとした。

 そうだ、自分の気のせいだ。おそらく見間違いをしたのだろうと。

 だが、キノーユは再びあの透明窓に目を向けようという気持ちになれなかった。

 重たい不安が胸の中で渦巻き、周囲の話し声が雪を掘るときの音のように、騒々しく耳の中にこだまする。

 それがことさらキノーユの心に不穏の影を落とした。

 さきほどの茶色と漆黒の動きが、彼の頭から離れない。


 実物の人間を見るなんて、ほんの軽い気持ちだった。

 話題作りのための偽物ではないかとも考えていた。

 しかしキノーユは今、眠っているだけの人間に対して、とてつもない恐怖心を抱き始めた。

 紀元前の生き物という、未知の生物。

 感覚としては、奇妙な外宇宙生命体に出会ってしまった心地である。

 同じ星の、同じ大地で生きてきたはずなのに。


――もし今、ここでニンゲンが目覚めたら? 僕達はなにを目撃して、なにを感じるだろう?


 次第にキノーユは、この展示会場にいることが恐ろしくなった。

 去年、ユンに誘われて降霊術まがいのゲームを遊んだときのような気分である。

 だから、キノーユはこの場にユンを置き去りにして、外の雪の中へ飛び込んでしまいたい衝動に駆られた。

 雪の中を泳いで、泳いで。

 人間なんて存在しなかったと――そのように信じていた頃の過去に戻りたかった。


――ニンゲンはあの丸い漆黒で僕達を見つめ、見つめ……。


 それ以上のことは、人類史学に疎いキノーユには想像がつかなかった。

 だが、その未知こそがキノーユの心を脅かしていた。

 彼はユンに気付かれないように両手を合わせ、自身が信仰する神に祈りを捧げた。

 自分達が何者にも心を揺さぶられず、このまま平穏に過ごせるように。オカルトの深淵を覗き込まないようにするために。

 これ以上、怖い想像をしないために。


――どうかニンゲンが目覚めませんように。僕達のために、そのまま静かに死んでください。



 けっきょくキノーユは、ユンと共に展示会場の外に出るまで、ずっと誰かに見つめられているような錯覚が離れなかったらしい。

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