煙草の美学

授業は相変わらず素晴らしかった。下手したら研究室の教授よりも尊敬している先生が、巧みにシェイクスピアについて解き明かしていく。綺麗な世界だ。言葉が生むエリシオンである。もちろん原文も美しいが、それ以上に私のような人間に分かるように解き明かしていく先生が恐ろしく素晴らしい。私は恍惚という言葉を今までで1番深く実感した。このような思考を理解はできても生み出すことはできない。それをやってのける先生が酷く憎かった。私はどうやら、届かない場所にいるひとを憧れるばかりか憎いと思うらしい。憎悪と尊敬でぐちゃぐちゃになった後解放され、九十分の授業の後は放心状態になっていた。


今日の授業はもう終わりで、研究室のパソコンを落としたらもう帰れる。もう一服していこうかしら。そう思って喫煙所に降りると寧々は静かに煙草をくゆらせていた。相変わらずタイトな服装を着るのは彼女らしい。真っ黒な煙草を選ぶのもポリシーの元だとしたら恐れ入る。教員らしいかと聞かれたらそれはノーだが、彼女が着こなすその服装はいやらしいというよりはかっこよかったからきっと問題は無いことになっているのだろう。


「助教」


挨拶をしないのもおかしい話であるから、ぼうっと遠くを眺めていた寧々に声をかけた。虚ろな目をちょっとだけ動かして叶野を見つけた。にっ、と口角を上げて煙草を持った手を軽く開いてこちらへ向けた。


「もう帰りかしら。お疲れ様、まだ今日は疲れているだろうしゆっくりお休みなさい」


「一度研究室に寄ったら帰ります」


隣に立つのも変な気がして、寧々と一人分空けたところに立ち煙草を咥えた。寧々からは煙草の匂いがしたことがないのがふと気になった。いつもは、優しいフローラルの柔軟剤の香りがしている。私は煙草を吸うものの、匂いは苦手だ。狭い喫煙所なんかで吸ったあとは髪や服に匂いが移っていらいらしてしまう。もしやするとヘアフレグランスなんかでそれを防ぐのが女子力というやつなのかもしれない、寧々ほどの芯のあるファッションを貫く女性はきっとそこまで徹底しているのだ。寧々の尊敬すべきところはそんな所にもあるのか、私の中で寧々の評価はまた上がった。


「これね、煙草じゃあないのよ。葉巻よ」


「葉巻ってかなり強いやつですよね。その代わり肺まで入れずに吐き出すとか」


「あら、吸ったことがあるのかしら」


「いいえ、まだ」


赤いパッケージに悪魔の模様、昔十字架なんかに憧れた頃の私が心惹かれそうな葉巻だ。いや、いまもそんな葉巻を吸ってみたいと思うくらいには惹かれてしまっている。元々煙草を吸う自分に酔って続けているだけの習慣だ、より魅力的ですらある。パッケージを見つめる私に箱を渡してもらった。蓋を開けて香りを嗅ぐと甘いコーラ菓子の香りがした。肺に入れずに吸うくらいだから、若しかするとシーシャのようにフレーバーを味わうものなのかもしれない。


「一本吸いたい? 」


ええ、と手の中の赤い箱から一本黒い葉巻を抜こうとすると寧々は私の手の中から赤い箱を奪い取った。


「駄目よ。もうちょっと人生に絶望したらにしなさい」


火を消すとヒールの音を心地よく響かせながら研究室のほうへ帰ってしまった。葉巻のほうが依存性物質も有害成分も多いから私の身体を気遣ってくれたのだろうか。それなら彼女はどんな絶望を抱えていまここで葉巻をくゆらせていたのか、気にかかった。きっと私には到底理解の及ばない地獄を見てきたのだろう。

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魔女の望んだキャンバス 千崎 叶野 @Euey_aio

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