シェイクスピアと踊るから、

 次のコマは一般教養の時間だ。シェイクスピアと古典文学。私が専攻するか最後まで悩んだものだ。古典英語の詩的な響きは私の脳髄にしっかり響いて、心にゆっくり根を下ろす。優しいくせに冷たいのは、規則的なリズムに飲み込まれたリリックが静かに、そして何度も背中を叩いてくるからであろう。ほら、紐解きなさい、できるものならね。そうリリックは笑いかける。


 私が専攻しなかったのは、これを紐解ける気が一切しなかったからだ。私はこれを研究することを諦めた。授業を受ける度に小さな未練が私を刺す。なんで逃げたの、と『私』が私を追い詰める。でも。これで良かったと思うしかない。だってこれは私の人生を賭けても解けない呪いだから。この偉人の考え、生き様は大きく常人の私を逸脱する。論理的に追うことが出来ようと理解にはほど遠い。だから私は違う研究に進んだ。芸術をただ美しいもの、にした。即ち解釈を諦めた。結果医療研究に身を捧げたわけで、その判断に間違いは無かったと思うがたまに胸は痛む。私が選ばなかった未来はどんなものなのか。


席についてタブレットとスタイラスペン、配布されたプリントを広げる。まだあと十分は時間がありそうだ。一服して帰ってきても時間にはまにあうことだろう。友人に臭いと言われるPeaceをポケットに入れて、逆のポケットのライターを確認した。財布の横にしっかりと入っている。スマホを片手に喫煙所に向かった。


大学の端、死角に存在するそこは空気が籠っていた。煙草の匂い自体は不快とは思わないが二酸化炭素の溜まった明度の低いその空間は私には耐え難かった。少々しかめっ面になりながらも煙草を口にした。そもそもPeaceを選んだのはきつい煙草だから。きつい煙草を吸っている自分は好きになることが出来た。匂いが好きとか味が好きとか、別にそんな理由はなかった。依存も特にしていないと思う。強いて言うなら煙草を嗜む自分に依存していた。自分に酔うための行動だ。いつだって自分を蒸かしている。だから声をかけられた時、素で驚いてしまった。


「遠野、さん」


瀬名の隣にいる目立たない同回生だ。橋本佑香、と言っただろうか。彼女は大人しくていつもにこにこ微笑んでいるから掴みどころがなくて苦手だった。瀬名のような不思議さでは無い。蛇のように私の手元をするりと抜けていってしまう怖さだった。


「ああ、佑香ちゃん。貴方も吸うのね」


「吸わないように見えた? 」


彼女が軽く挙げた右手にはマルボロがあった。そこそこきつい煙草だった。私は匂いが苦手だけど好きな人は多くいるだろう。私もPeaceを握った左手を降って挨拶をした。


「結構キツいの吸うのね」


「叶野ちゃんこそ。私、Peaceなんて吸ったことないよ」


「そうなの? 美味しいけど。吸ってみる? 」


佑香がマルボロの火を消して私の差し出すPeaceを手に取った。ライターで火をつけてやると美味しそうに吸い始めた。マルボロよりも濃いはずだ。これを吸う女性はあまり見たことがない。佑香が恍惚とした表情で吸いすすめるのを見ていて心地が良かった。


「これを普通に吸う人、なかなか居ないよ。佑香ちゃん、強いわね」


佑香は困ったような顔をしてから微笑んだ。


「慣れてるからだね」


「色々話を聞きたいわ、普段マルボロを吸うの? 」


「普段はメビウスが多いかな。でも実はそんなに拘りは無いんだ」


珍しいわね、と私が言うと無造作にまだ半分は吸えるそれの火を消して捨ててしまった。私が口を開こうとするとさっと手を挙げて、


「授業始まるんじゃないかな。またね」


と去っていった。やはり掴みどころはない。

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