酔い覚ましの翌日

翌日、私はいつもより早起きだった。お酒が残っているのか少しだけ頭が重い。スポーツドリンクを流し込むとその不快さはましになったが、もう一度眠りにつく気にもなれなかった。たまには早く研究室に行くというのも悪くない。そうしていつもよりも早い時間に研究室についたのだが、寧々は既にいて、楽しそうに紅茶を淹れていた。私がおはようございます、と声をかけると微笑んで挨拶を返した。私より早く来た学生の机には紅茶が置かれていた。早起きしてしまったのは私だけではなかったのだと思うと少し残念だった。


「あらおはよう、昨日の今日なのにえらく早起きね」


「なんとなく目が覚めてしまって」


「健康的な生活って事ね。遠野さんも朝の紅茶はいかが」


私が断るなど思っていないのだろう、寧々はもうマグカップを用意していた。ふたつのマグカップに紅茶を注ぐと私にそれを渡してきた。


「瀬名くんの分もよろしくね」


寧々の視線の先には大学院生がデスクでうとうとしているところだった。瀬名明は無口であまり話したことはないが、いつも机に向かっている誰よりも研究熱心な学生だった。そこそこお酒は飲んだだろうに、今日もきちんと時間より早く大学に来て研究を始めているのが何よりの証拠だ。昨日の飲み会で初めてきちんと話をしたが、お酒を飲むと優しそうな表情をして話をしてくれる。瀬名さん、と声をかけると瀬名は大袈裟なまでに肩をびくりと震わせてこちらを向いた。


「御堂先生からです。お身体には気をつけてくださいね」


私と寧々を交互に見て、そして頭を下げた。昨日と違って真顔のままだった。この大学にはコミュニケーションが苦手だったり嫌いだったりする人はいくらでもいるから、私はさして気にすることは無い。明るい一面を持っているというだけで充分好印象だ。


私は机につくと紅茶を口にした。ストレートのアールグレイ。普段好んで飲むかと言われたらそこまではしないが、たまに寧々が飲ませてくれるこれは好きだった。朝が来たな、と感じる。寧々はティーバッグではなくリーフからわざわざ淹れる。可愛らしい砂時計を普段は自分のデスクに置いてあるのだが、それを使って時間を測る。拘りというか、几帳面さというか、彼女にはそんなものがあった。


私はパソコンを立ちあげると思いっきり伸びをした。今年度は卒業論文を出さなくてはならない。単位はほぼ取れているもののいくつか一般教養の科目を落としているから油断は出来ない。大学院に進むつもりでいるから就職活動は要らないが、その分受験勉強が必要になる。全く、大変な一年だ。書きかけのプログラムとにらめっこをして一日が過ぎてゆく。生物系の学生は実験ばかりしていると思われるかもしれないが実際はそうではない。シュミレーションは大体パソコンで行うし、ウイルス系の実験室は費用の割り当てが少ない。実験はそうそうできたものでは無い。今日もきっとパソコンとにらめっこしていたら終わってしまうのだろう。


私がこの大学を志したのは、なんとなくだった。一人暮らしがしてみたいし、名の知れた大学というのはそれだけで価値がある。医療に携わりたいというのは昔からなんとなく自分の中に存在していたが、医学部に行けばいいのか、理学部か、はたまた農学部か。知識の少ない高校生が決めるのはかなりの難易度であったと思う。自分の学力からそう離れているわけでもなく、だからといって余裕ではない場所。そう思って理学部に進学したのだった。頭はいい方で、要領も良かった。それなりに受験勉強をして合格したが、感想はやっぱりそうか、といったものだった。私には刺激がなかった。答えがあってやり方も確立されているものができないことの方が不思議でならなかった。そんなものだから、大学というのは私にとってとても心地の良い場所だった。全国から集まってきた天才を見て自分が一番でないことを知る。そういった人々が自分に理解できない思考の速さだったりメカニズムを持っている。そして、アカデミアの世界には終着点がない。私は初めて興奮でゾクゾクする、というのを味わった。


そうして三年間過ごした私は、大学院に進むことを当然のように選択した。こんな心地の良い場所を離れられる気がしなかった。私が一番でないことは初めてのわかりやすい敗北だ。悔しい、と思った。私ならまだまだ上の世界を見られるはずだ、とも。小さな報われないかもしれない努力を重ねていくのは悪い気分ではなかった。その分何かを得た時の快感は何物にも替え難い。それに、ゴールなど存在しない世界だ。一つ一つの目標でさえ生きているうちに到達できるかは分からない。最高のゲームじゃあないか。

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