魔女の望んだキャンバス

千崎 叶野

桜の舞わない春

桜など舞わない、平凡な大学三回生の始まり。私の志望する研究室の准教授(当時は助教授と呼ばれていた)は、通例より一年早く助教授の地位を得た、優秀な女性であった。


「始めまして、遠野さん。私が助教授の御堂です」


研究室見学に行った時、それはそれは若くて美しい女性が助教授と名乗ったから、私は吃驚してしまった。御堂寧々、それが彼女のフルネームだった。まるで小説の登場人物の様な名前だ。身長は170センチメートル近くあるはずだ。漆黒のロングヘアを無造作に束ねていて、それが白衣によく映えた。


「ごめんなさいね、丁度ラットの世話をした後だったから」


ぱさりと自分のデスクに白衣を投げた。そんな適当なものなのか、と思ったが寧々は直ぐに研究室の奥へ進んでいくから小走りで着いて行った。黒いタートルネックのニットにぴちっとしたスキニーはかなり質素に見えたが、同時に彼女の拘りが見える気がした。


「ここね」


指と目線でソファに座るように促した。私は黒くてシンプルなそのソファに遠慮がちに腰掛けた。硬めのソファはあまり沈まず私の体重を受けいれた。


「遠野さん、飲み物は紅茶とコーヒー、ミネラルウォーター、どれがいいかしら」


「あっ、それなら、紅茶頂けますか」


研究室見学などいくつも行ったが、准教授自ら相手をして貰えたことは無かった。暇そうな院生が案内して、最後に教授と少しだけ話す時間を貰えたくらいだ。私は恐縮してしまった。


そんな私の心を溶かすように、寧々は優しく私に説明をしてくれた。至らないところが多く恥ずかしくもあったが、まだ学部生なんだから大丈夫よ、とフォローをいれてくれた。


一通り話終えて部屋を出る時、寧々は私のために重いドアを開けてくれた。こんなことは学生にやらせておけばいいのに、律儀な人だ。


「楽しかったかしら。もしも興味があればまたいらっしゃいな」


寧々の研究室は第一志望で今更そうそう変えるつもりはなかったが、私は寧々に惹かれていた。少し話しただけで頭の回転が私の何倍も早い事がわかった。もちろんこの分野を極めて通例より一年早く助教授に上り詰めた人間だから、頭がいいのはわかっていた。それだけではなく、彼女は何気ない会話も上手だった。 雑談ですら叶野の知的好奇心、言うなれば魂を駆り立てるのだ。あくまで敬意を持って接してくれるくせにどこか小馬鹿にした笑いをみせるところにさえこの完璧さに均衡を取るための美しさだと思った。この時私は彼女に心酔していた。だから、研究室配属の希望調査が来た時には第二志望など書かずに寧々のいる研究室を書いた。この人の元で研究したら、きっとすごいものが見られる。寧々のような人間に会えるのは、例え日本で二番を誇る弊学であれなかなかない機会である。彼女の見ている景色を見たい。


「遠野さん、来たわね」


四回生に上がる直前に配属が決まり、初めて研究室にここの研究室の人間として入室した時、寧々は前回と同じようなスタイルだった。黒いスキニーは彼女の細い身体を浮き上がらせていたが、それは不健康の類のそれではなく、きっちり運動して引き締められた身体だった。タートルネックは前回と形は違えど同じようなダークトーンのものだった。やはり彼女は自分のスタイルに絶対的な拘りを持っている人だ。圧倒的に美人であることには変わりないが、自分のポリシーを持って胸を張る彼女のオーラは何よりも美しかった。この大学にいるとかなり浮いてみえるのだが、私にとってはそれが好感度に繋がった。


彼女はかなり優秀な人間で決められたコアタイム内にしっかりと仕事を終えてしまう。それでいて我々学生のこともよく見ていた。教授は忙しく、大体の世話は助教授である寧々が行っていた。それでいて私の学問分野の去年出された論文は七割近く寧々の名前が連ねられていた。この大学の助教授だから優秀であるのは当たり前、そう考えるのはナンセンスだ。実際、教授なんかよりよっぽど学問に向き合っていた。彼女は狂気的なまでに研究熱心で、正直惚れてしまいそうなまでに格好良かった。想像する研究者像そのものだった。こうなりたくて私は生きてきたのだ。私が求めるものがここにある、それだけで嬉しかった。


伝えるつもりではなかったけれど思わず口が滑った。我々新四回生の歓迎会という名目の飲み会の席でそう伝えた時、寧々はケラケラと笑って私を見上げた。


「あら遠野ちゃん、嬉しいこと言ってくれるじゃないの。でも遠野ちゃんが目指すのはもっと上でしょう」


「そんなことないです。御堂先生がいらっしゃったからここにいるんです」


嘘ではない。遠野の雰囲気を見て、絶対ここに来ると決めたのだ。素晴らしい研究者はきっと沢山いる。でも、彼女は私の光だった。どんな偉い人よりも命を燃やしていた。安い言葉でしか表現出来ないのがもどかしいが、彼女は憧れであり越さなくてはならない存在だった。


「あら、ありがとう。」


均衡の取れた美しい顔でも、彼女は左の口角をクイッとあげて笑うのだ。性格の悪そうな、というのが正しい表現な気がする。完璧に近い彼女が人間らしい表現をするのがなんとも言えなかった。


「先生はなにか目標はあるんですか」


「不老不死か魔法使いになりたいかな」


「だいぶ夢を見られるんですね」


「あら。実現可能な夢よ」


まだ氷で薄められてないほぼ原液のウイスキーを煽って蠱惑的な表情をしてきた、女の私も美しい、と思ってしまった。どこまで冗談なのだろうか。私にとっては彼女はまだ分からない存在なので彼女の冗談に付き合う他なかった。


「へえ。どんな夢ですか」


ううん、と考えるふりをして指を唇に当てた。これはいつも寧々が考える時にする癖だった。しばし考え込んだ後に叶野はぎこちなく言葉を続けた。


「例えばね、私が治癒の力を持った魔法使いだとするじゃない。そうしたら今やっている研究なんて意味が無くなるわ。でも、それが我々のめざず場所じゃあないかしら」


私たちの勉強している分野は医療分野だ。最終的にはより良い医療の発展に尽くすために学んでいる。そう考えると寧々の言い分は真っ当だ。


「でもそれが存在し得ないから私たちが研究しているんですよね」


「全くその通りよ、遠野ちゃん」


会話はもう終わり、とでも言いたげに寧々は煙草を蒸かし始めた。決して扱いづらい人間ではないが、冗談を言うような性格にも見えなかったから私は少しだけ困惑した。私の視線を煙草に対するものだと思ったのか、軽く手を挙げて謝罪のポーズを取り煙草を持ち替えた。女性がよく吸う細い煙草だったから匂いが気になっていた訳ではなかった。それよりも服の香りが気になった。優しい柔軟剤の香りだった。ヘビースモーカーであるのは学生のうちでも周知の事実であったが、寧々自身からそういったものを感じたことがないのだ。気に止めて居なければ絶対に感じることなどないであろう優しい彼女の香りがしていた。香水のようなきつい香りではなかった。私自身が寧々に心酔しているのもあって、それは寧々が人を超越しているからに思えた。何から何まで不思議な人だ。私も同じようにウイスキーのロックを飲み干す。濃いアルコールの味がした。


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