第二話
見慣れたジョウロに水を汲んで、二週間前にやって来た校舎裏の花壇に水をあげる。シャワーのように降り注ぐ雫が、花壇に咲く花をより一層キラキラと輝かせていた。
放課後、高校生の頃の習慣を記憶の中でなぞりながら、私は美化委員の仕事をこなしている。
校舎から聞えてくる部活や雑談に励む生徒たちの声をBGMに、今日一日をぼんやりと振り返ったりしながら花に水をあげていれば、静かな校舎裏に珍しく人の気配を感じた。
校舎からゾロゾロと出てきたのは、ブラウンカラーに染めた髪を緩く巻き派手なメイクを施した女子生徒の集団だ。
キャハハッと笑い合うその女子生徒の集団は、学校でも生活態度が悪く、不良グループと関わりがあるという噂を持つ有名な怖い女の先輩たちで、短いスカートから伸びる細い足で颯爽と此方に向かって歩いてくる。
そんな女の先輩たちが静かな校舎裏に一体何の用だと、花に水をあげながらその様子を呑気に伺っていれば、いつの間にか女の先輩たちはジョウロを持った私を周りをぐるりと囲んだ。
「お前だよね?最近、七星たちに媚び売ってんの。」
「え?」
女の先輩たちは私を睨み付けながら、そう言うとガラ悪く絡んでくる。まさかの「七星」さんの名前を出されて戸惑いを隠せずにいれば、女の先輩たちから「七星が迷惑してんだよ。」と追い討ちをかけるように吐き捨てられた。
カラコンを嵌め込んだ大きな瞳は目力が強くて、思わず彼女たちから一歩後退る。
一体、何が起こっているんだと内心焦りながら、二週間前にもこの花壇で不良に絡まれる似たような事があったなと何処か既視感を感じる。
「無視してんじゃねぇよ!」
「ひぃっ!?」
目の前の状況が飲み込めずに唖然としていれば、女の先輩から強い口調で攻撃された。本来、私はこの女の先輩たちよりも歳上になるのだが、彼女たちの威圧的な態度は普通に怖くてビビる。
その中でも、一人の先輩が私へ向かって下から上へと視線を這わせると「ハッ」と鼻で笑う。
「お前なんかが、よく七星に近付こうと思ったよね〜」
心底馬鹿にしたような声で、女の先輩はあたかも自分の方が七星さんと釣り合っていると言わんばかりに、腕組みをしてドンッと発育の良い胸を張っている。
私はその胸を見つめながら、女の先輩が言った言葉にムッとした。この人は知らないのだ。七星さんが、この場所に居る誰も選ばない事を。
「てかさ、七星に関わるのやめてくれない?目障りなんだよね。」
過去の私も七星さんに付き纏っていたけれど、こんな風に怖い女の先輩たちから突っ掛かられることは無かった。
その為、今起こっているイレギュラーな出来事が少し怖く感じる。七星さんと関わるなと言う女の先輩たちは、きっと彼に好意を抱いているのだろう。
二週間に絡まれた不良の小早川さんも言っていたが、七星さんはかなりモテるのだ。金髪で不良のような見た目でありながらも、実は気さくで話しかけやすい。
それこそ、私のように何か困っているとスマートに助けてくれるのだから、そりゃ誰もが七星さんに惚れてしまうだろう。以前から私のように彼に恋をしている人もいれば、七星さんを推しているというファンも少なくはなかった。
だから、この女の先輩たちの気持ちも分からなくない。
好きな人に他の女が近付けば、面白くないのは当然だ。そんな気持ちが分かるのは、まさに過去の私がそうだったからだと思う。
「じゃあ、話はそれだけだから。」
「忠告はしたからなー!」
「次はねぇから!」
私に向かって女の先輩たちは不愉快そうに言い放つと、此方に向かって来た時のように短いスカート揺らして校舎裏から次々に去って行った。
まるで嵐が過ぎ去ったように、静かになった校舎裏で「はぁー」と深い溜め息を吐く。
過去では起こらなかった出来事が起こり、私は自分で思っているよりも緊張していたらしい。それも、いきなり怖い女の先輩たちに囲まれて、強い口調で責められたら誰だって怯むだろう。
女の先輩たちの態度を見るに、この過去の世界にやって来てから、私があの頃よりも積極的に七星さんと関わるようになったので、事あるごとに七星さんに付き纏う私が目について許せないのだと思う。
確かに今の私の行動は、昼休みにハナちゃんに指摘されたように少し度が過ぎているような自覚はある。
ただ、私にも七星さんに関わりたい理由があるのだ。例え怖い女の先輩に目をつけられたとしても、どうしたってそこだけは譲れない。
何を言われたって、私は七星さんから離れるつもりは毛頭無かった。ここで、あの頃のように何も出来ずに彼から離れてしまえば、私はこの先きっと後悔する。
散々後悔したからこそ、酔っ払って道路に飛び出す奇行に走ってしまい今この過去の世界に居るのだ。もう、あんな虚しい思いをしたくない。
そう改めて決意を固めてから、とっくに水やりを終えていたジョウロを片付けて校内へと戻る。
今日は七星さんはバイトで既に帰宅してしまっているため、美化委員の仕事を終えた私はもう学校に残る理由がない。
このまま帰ってしまおうかと職員室前を通り過ぎたところで、そういえば今日の授業で数学教師に双眼鏡を没収されてしまった事を思い出す。
廊下からこっそりと職員室内を見渡すと教師たちは疎らで、あの神経質な数学教師の姿は何処にも見えなかった。
これはチャンスなんじゃないかと、なるべく気配を消して職員室内に入り込む。
教師たちの席を観察しながらウロウロしていれば、几帳面に整頓された一つの机の上に私ものと思われるコンパクトな黒い双眼鏡が置かれていた。
「やった!」と思い、双眼鏡にそっと手を伸ばして取り返す。誰かに見つかる前に素早く職員室を出ようと、急ぎ足で教師たちの席の間を通り抜ければ、私が起こした風で机の上に置かれていた一枚のプリントがふわりと舞い落ちた。
ヤバいと慌ててそのプリントを拾って、元の場所へ戻そうとしたところで私は思わず動きを止めた。
「…
そのプリントは所謂、転校する際に必要な書類の一つなのだろう。
書類に書かれていた『
七星さんと距離を縮めていく美人の転校生が、まさしく彼女、倉田紗希だ。
そして、何年か先の未来で二人は結婚する。
七星さんの結婚を教えてくれたハナちゃんからのメッセージには、結婚相手である彼女の名前が書かれていた。それを見て「あぁ、やっぱりそうなのか」と何処か納得してしまった自分がいる。
この書類があるという事は、もうすぐ彼女が転校してくるという事だろう。いずれそうなると分かっていても、紗希さんの存在に焦りを感じずにはいられない。
私は手に持っていた書類を元の場所へと戻すと、足早に職員室を後にした。
取り返した双眼鏡を手に持ちながら、動揺する気持ちを必死に落ち着けようと廊下を歩く。
過去の記憶を思い返して、紗希さんが転校してくるのはいつ頃だっただろうかと考える。確か時期的にも凄く中途半端な転校だなという印象が強く、五月のゴールデンウィーク後くらいだったような気がする。
現在は四月の終わりで、紗希さんがこの学校に転校してくるのもあっという間だろう。なんだか夢から冷めてしまったような気持ちになって、一気に気分が重くなる。
俯きがちに歩いていれば、不意にドンッと身体に衝撃が走った。
「うわっ!?」
驚いて視線を上げれば、不機嫌そうに眉間に皺を寄せて私を睨む昴さんが居た。
「何だ、お前かよ。」
「すっ、すいません…」
昴さんは学ランのポケットに手を突っ込んだまま、鬱陶しそうに吐き捨てる。昴さんの態度は毎回こんな感じなので、会うのは居心地が悪い。七星さんが居ないと尚更だ。
「お前さ…」
「はい?」
「いや、何でもねぇ。」
昴さんはその切れ長の目を私に向けながら、何かを言おうとして言い淀む。昴さんらしくないその様子を不思議に思いながら首を傾げれば、昴さんは直ぐに素っ気なく背を向けてその場を去っていく。
廊下の窓から入り込んだ風が、昴さんの艶かな黒髪をさらりと揺らした。
それを眺めながら、胸に沸き起こっていた不安をどうにか抑え込む。二週間前に昴さんに誓った事を再度心の中で思い出して、これから先に起こる未来に溜め息が出そうになるのを必死に耐えた。
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