第三話


 目の前の小早川さんは状況を飲み込むように、びしょ濡れになった制服を見下ろしてから、クワッと眉間に皺を寄せて目付きの悪い三白眼で怖い程に私を睨み付ける。


「あぁ!?何すんだてめぇ!」


「ごっ、ごめんなさいぃ!」


 オラオラと迫力のある顔が迫り、恐怖のあまりに後退れば直ぐに校舎の壁まで追い詰められた。


 小早川さんに倣うように他の不良の先輩たちも、私を責めるように周囲を囲む。


 まさかの小早川さんに水を掛けてしまい、なんで私はジョウロなんか持っているんだと一瞬パニックになったけれど、過去もこの不良の先輩たちに私が水を掛けてしまった事がきっかけで七星さんに出逢うのだ。


 高校二年生になり、新学期が始まって美化委員になった私は委員会の仕事の一つとして放課後に花壇の花に水やりをしてた。


 その時に、花にあげていた水を誤って花壇の横を歩いていたこの不良の先輩たちにぶっ掛けてしまったのだ。


 注意力散漫で花の水やりをしていた私も悪いのだけど、学校でも有名な問題児である小早川さんは特に気が短くて、現在のように怒鳴られながら面倒な事にも絡まれてしまう。


 私を囲む不良の先輩たちを眺めながら、その既視感を感じる光景に酷く焦っていた。


 先程、眺めていた記憶をなぞるようにあの頃の出来事をもう一度体験しているようで、心臓が激しく動いている。


 背中に冷たい汗が流れるのを感じていれば、鬼の形相の小早川さんの手が容赦無く私に向かって伸ばされた。


「おい、何やってんの?」


 小早川さんの手が私に届く前に、過去の記憶と同じように酷く懐かしい声が聞えて思わず顔を上げる。


 私を囲む脇役の不良たちの中から、現れたのは何度も心の中に思い浮かべていた眩しい金色の髪。


 ぱっちりとした二重の目が、顔を上げた私の目と合ってなんだか泣きたいような気持ちになる。


 高校二年生の春に私が恋に落ちた人、高野七星たかのななせ


 ずっと、忘れられなかった七星さんがそこに居た。


 七星さんは形の良い眉を寄せて、呆れたような表情で私達を見ると溜め息を一つ吐いて「小早川」と目の前のガラの悪い赤髪を呼んだ。

 

「お前さ、こんな後輩虐めて恥ずかしくねぇの?」


「あぁ!?コイツがいきなり水ぶっ掛けてきたんだよ!」


「別にわざとじゃねぇなら、怒る事でもねぇじゃん。」


「てめぇに指図される筋合いはねぇよ!」


「お前はそうやって余裕がねぇからモテねぇんだよ。だから、ユミちゃんにも振られたんだ。」


「今アイツの事は関係ねぇだろうが!喧嘩売ってんのかよ!?殺すぞ!?」


 七星さんの飄々とした物言いに、小早川さんは髪だけでなく顔を真っ赤にしながら怒りを露わにする。


 他の二人の不良の先輩は、そんな小早川さんに対して「ちょっと、落ち着けよ」と必死に宥めていた。


「高野!お前、ちょっとモテるからって調子乗ってんじゃねぇぞ!?」


「いちいち調子になんか乗ってねぇよ。ただの事実だろ。」


「殺す!」


 怒りがどんどんヒートアップした小早川さんが、七星さんの言葉にとうとう痺れを切らして殴りかかる。


 七星さんはそんな小早川さんの行動を読めていたのか、向けられた拳をさらりと交わすと前のめりになった小早川さんの鳩尾目掛けて膝蹴りをお見舞いした。


「グハッ!」


 七星さんの膝蹴りを受けて、鳩尾を押さえて地面に蹲る小早川さんに、他の二人の不良の先輩もオロオロと小早川さんを気遣うようにしゃがみ込んで介抱する。


 一撃で沈んだ小早川さんは鳩尾を抱え込んだ何とも情けない状態で、直ぐに他の二人の不良の先輩に何処かへと連れて行かれた。


 逃げるように走り去っていく不良の先輩たちの背中を眺めながら、七星さんはフッと鼻で笑っている。


 嵐が過ぎ去ったように、静かになった校舎裏で七星さんと二人きりになった。


 満開の桜が春風に揺れて、花弁がひらひらと私達の上からの舞い落ちる。


 大型トラックに撥ねられて走馬灯を眺めていた筈なのに、何故いきなりこんな事になっているのか分からない。


 これはあの頃に、戻ってしまったという事なのか。


 俗に言う、タイムリープってやつなんだろうか。


 非現実的すぎる出来事に、全く頭が追い付かない。頭の悪い私には、到底理解出来る範疇を越えていた。


 何も考えられなくなる程の衝撃を受けている筈なのに、私は目の前に佇む七星さんの姿にただただ目を奪われていた。


 心の奥に大切に仕舞い込んでいた光り輝く記憶が、現実に蘇って心臓が激しく鳴っている。


 七星さんの金髪がキラキラと春風に靡いて、不意にその視線が私に向けられた。


「大丈夫か?」


 此方を伺うように首を傾げながら、七星さんは私にそう聞いた。


 もう何年もの間、ずっと忘れられなかった七星さんが目の前に居る。そして、私に声を掛けているという事実に、胸が締め付けられるような気持ちになった。


「…は、はい。大丈夫です。」


 溢れそうになる想いを抑えて情けなく震える声で何とかそう告げれば、七星さんはそんな私の反応をどう解釈したのか分からないが、少し困ったように眉を下げて笑う。


「アイツら馬鹿だからさ、さっきの事全然気にしなくて良いから。次なんかあったら、俺に言って。」


 不良の先輩たちから助けてくれただけでなく、こんな優しい言葉をかけてくれた七星さんに過去の私は秒速で落ちた。


 そして、今回も優しい過去の七星さんに私は音速で落ちた。


「あ、ああありがとうございます…!」


 あり得ないことが連続で起こって、数年ぶりの七星さんを前にして自分の様子が可笑しくなっているのを感じる。


 必要以上に吃りながらお礼を言う私に、七星さんはパチパチと瞬きをすると直ぐに「ハハッ」と表情をクシャッと崩して爽やかに笑った。


 あぁ、これ夢かな。


 走馬灯も見えて、死ぬ前のご褒美か何かかな。


 死ぬかもしれないとか、過去に戻ってしまったとか正直どうでも良いと思えるくらいに、七星さんが格好良くて仕方ない。


 この人が笑っているならばもう何でもいいやと、酷く短絡的な思考になれる私はやはり馬鹿なんだろうか。


「七星」


 目の前の七星さんに見惚れていれば、やけに聞き覚えのある低い声が背後から掛けられた。


 その声に振り向けば、艶のある黒髪を靡かせて此方に近付く一人の男子生徒が居た。


すばる、どした?」


 七星さんが昴と呼んだその男子生徒は、強く私の記憶に残っている。


 七星さんの友人である彼、逢沢昴あいざわすばる


 学校で七星さんはいつも昴さんと一緒に居る事が多く、私の中では七星さんにとって昴さんは一番の友人なのだろうと記憶している。


 過去に私が七星さんを好きになって追いかけていた頃、昴さんは七星さんに付き纏う私を見ると眉間に皺を寄せてやたらと煩わしそうにしていた。


 会う度に優しい七星さんとは違って、昴さんが私に投げかける言葉は毎回何処か冷たいもので、私は昴さんの事が密かに苦手だった。


 そして今も、七星さんに声を掛けた昴さんは私にその鋭い視線を向けると、「誰こいつ?」と言ったような表情で顔を顰めている。


 そんな昴さんの表情を直ぐに読み取った七星さんは、私を見ながら少し笑って言った。


「あー、なんか小早川に後輩が絡まれてたから助けたところ。で、何か用でもあったか?」


「何か用でもあったか?じゃねぇよ。お前、今日バイトだって言ってたろ。もう忘れたか?」


「うわぁ!やべぇ、これバイト遅刻だわ!」


 昴さんの言葉に「忘れてた!」と言わんばかりに顔を青くしながら、七星さんは慌てたようにスマホ画面を開いた。


 スマホ画面で時間を確認するや否や、七星さんはその勢いのまま「ちょっと、俺もう行くわ!」と私と昴さんに声を掛けて校門へ向かって走り出す。


 忙しない様子の七星さんに、昴さんは呆れたような顔をして溜め息を吐いた。


 桜が散る校舎裏を、どんどん離れていく七星さんの背中に私は堪らなく気持ちが焦った。


 何年も想っていた七星さんとせっかく出逢えたのに、こんな簡単に離れていってしまう事がどうにも歯痒くて仕方ない。


 過去に戻ってしまったのか、私の都合の良い夢なのかよく分からないこの状況だけど、私はまだ七星さんと一緒に居る時間を噛み締めていたかった。


「あっ、あのっ!」


 衝動的に声を上げたのにも関わらず、七星さんは数メートル先で「ん?どうした?」律儀にも急いでいた足を止めて、わざわざ此方を振り返ってくれた。


 どうしたと聞かれても、ただ離れていく七星さんを引き止めたい一心だったので何を言ったら良いのか分からず、どこまでも考え無しの自分に嫌気が差した。


「えっと、その…」


「ちょっ、時間ねぇから早めに頼む!」


 七星さんは焦ったように声を上げるので、私も意味もなく焦って考えが全く纏まらない。


 そもそもこんな事で、私を助けてくれた七星さんに迷惑を掛けて良い訳がなく、何で私はこうも色々な事に配慮する事が出来ないのだと頭を抱えたくなる。


 それでも、待っていてくれている七星さんに何か伝えなければと焦りに焦った私はもう何も考えられなくなって叫んだ。


「すっ、好きです!」


「…は?」


 放課後の校舎裏に私の告白が響き渡り、七星さんは素っ頓狂な声を上げて固まった。


 大きく目を見開いた七星さんの視線が、真っ直ぐに私へと向けられる。


 怖いくらいに静まり返った校舎裏では、桜の木々の間を飛び交う小鳥たちの囀りしか聞えてこない。


 ひらひらと桜が舞い落ちる中で、パチパチと状況を飲み込むように瞬きをした七星さんの表情が、何処か引き攣って見えた。


「それ、今言うか?」


 近くに居た昴さんの心底呆れた声に、私はハッとして思わず口を押さえた。


 ヤバい、完全にミスった。


 昴さんの言った通り、どう考えてもこれは今じゃない。

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