第二話
あ、これ死んだわ。
そんな事を思う間もなく、強い衝撃が当たり歪んだ視界でパチパチと火花が弾ける。
一瞬、自分が何処を見ているのか分からなくて、目の前が真っ白になった。
そして突然、その真っ白な世界に自分の中にある一番古い記憶が映し出された。
あれは三歳くらいだろうか、転んで泣き喚く私を慌てて母が抱き起こしていた。大した怪我もしていないのに、この世の終わりかというくらいにわあーわぁーと声を上げて泣く私の背中を母の華奢な掌が擦っている。
そんな記憶の映像はあっという間に移り変わり、次に映し出された記憶は五歳くらいに成長した私の姿だった。
先程の私と同様に、この記憶の中の私もうわぁぁんと声を上げてボロボロと涙を溢している。
園服を着て小さな鞄を持った私は、どうやら幼稚園に行くのを嫌がって号泣しているらしい。嫌だ嫌だと泣き喚く私を、母はとても困ったような表情で宥めていた。
泣いてばかりの幼少期の自分に呆れながら、次から次へと移り変わる記憶の映像をひたすらに眺める。
過去の自分が目の前に映し出されてはあっという間に消えていき、記憶の中の私は小学生、中学生とどんどん成長していく。
なんというか、これって噂に聞く走馬灯っていうやつではないのか。
次々に移り変わる映像を眺めながら、今更ながらにそんな事を思う私はやはり頭が相当悪いんだと思う。
あの大型トラックに撥ねられて、死を直前にした私に見えているこの人生の記憶の映像は、きっと世間では走馬灯と呼ばれるやつなのだろう。
そんなものが見えてしまったなんて、私は本当にこのまま死んでしまうのだろうか。そう思ったら、ゾッとした。
この記憶の映像は、一体いつまで流れているのだろうか。
もし私の命が尽きてしまった時は、この記憶の映像が突如プツンとテレビの電源を落としたかのように、目の前が真っ暗になって消えてしまうのかもしれない。
もう二度と目覚めないかもしれないという恐怖が、私を一気に襲う。そんなのは絶対に嫌だ。
そもそも、ここまで生きてきた最期が酔っ払って車道に飛び出て終わるなんて馬鹿にも程がある。いくら馬鹿な私でも、そんな馬鹿げた死に方は流石に御免だ。
そんな事を思っていれば、今だに続いている記憶の映像が突然キラキラと輝き出した。
目の前から溢れて来る光の眩しさに、思わず目を細める。その輝く光の中には、高校生の頃の私の姿が映し出されていた。
あぁ、これは…
何処か鈍臭くて泣いてばかりの平凡過ぎる私の人生の中で、まるで一等星のように圧倒的な光を放つ瞬間があった。
高校二年生の春、七星さんと出逢った日。
あの日の出来事は、今でも昨日の事のように鮮明に覚えている。
昔から頭の出来が悪く勉強が全く出来なかった私は、地元でも一番学力の低い学校に通っていた。
その学校は学力の低い事でも有名だったけれど、同時にガラの悪い生徒たちも多く入学していて、あまり治安が良くない学校だった。
一応高校に入学する事は出来たものの、平凡で地味な存在の私はなかなかクラスメイトたちに馴染む事が出来ずに、ひっそりと学校生活を送っていた。
そんな私が、高校二年生になったばかりの春の事。
学校でも有名な不良の先輩たちに、絡まれていたところを颯爽と現れた七星さんが助けてくれたのだ。
まるで何かの目印のように煌々と光を放つ、私の人生の瞬間。
何の代わり映えもない平凡に流れて来た人生の中でも、彼に出逢ったこの瞬間が最も意味を持つような気がした。
だからこそ、私は決して色褪せてしまわないように脳裏に焼き付けて、ずっと大切に閉まっていたのだろう。そして今、この走馬灯の中でその瞬間が圧倒的な輝きを放っている。
記憶の映像から溢れて来る光の眩しさが、段々と強くなって思わず目を瞑った瞬間。
突如、強い風が吹き付けた。
今まで記憶の映像を眺めているだけだった私は、いきなり全身に当てられた突風に衝撃を受ける。
驚きのあまりに直ぐに目を開けば、先程の記憶で見た景色の中に私は居た。
晴れ渡った青空の下で暖かな日差しが降り注ぐのは、数年前に卒業した懐かしい校舎裏の花壇。
その反対側には学校の敷地を沿うように沢山の桜の木が植えられていて、薄紅色の花が満開に咲いている。
柔らかな春風に着ていた制服のスカートがふわりと揺れて、甘い花の匂いが微かに鼻を掠めた。
すぐ隣の校舎からは、キャハハッと笑い合う生徒たちの声が聞えてきてゴクリと息を呑む。
「…嘘、でしょ?」
情けなく震えた声が、静かな校舎裏に溢れ落ちる。
これは一体、どうゆう事なのだろか。
ぼんやりと眺めていた筈の記憶の映像が、目の前に現実として広がっている。視界は大きく開けて五感が感じ取る全てが、私がこの世界に存在している事を告げてくる。
懐かしい校舎の窓ガラスに映った自分は、見覚えのある制服を着ていて、数年若返った学生の頃の姿だった。
片手には水の入ったジョウロを持ち、情報が追いつかないのかポカンと口を開けて何とも間抜けな姿で私は突っ立っている。
片手に持ったジョウロには目一杯の水が入っていて、これは現実だと私に告げてくるように重い。
一体これは何が起こっているのかと内心焦っていれば、私の立ち尽くしていた花壇の横をゾロゾロと派手な髪色をした三人の男子生徒が通り掛かった。
「うわっ!?」
その派手な髪色をした三人の男子生徒には、とても見覚えがあった。
何故なら、先程見ていた圧倒的な光を放つ記憶の中の脇役として彼等が登場していたからだ。
七星さんに助けてもらうきっかけが、目の前を制服をだらしなく着崩してゾロゾロと歩く彼等に絡まれた事から始まる。
この三人の男子生徒は学校でも有名な不良の先輩たちで、特に真ん中を歩く赤髪の男子生徒は、小早川さんと言って喧嘩っ早くガラが悪い印象で、この学校で一番の問題児と噂されていた。
そんな記憶の中に居た不良の先輩たちが目の前に現れて、驚きのあまりに声を上げる。
すると、直ぐにその情けない声に反応した不良の先輩たちのギロリとした鋭い視線が向けられた。
「ひぃっ!?」
向けられた視線に、動揺した私は持っていたジョウロの事も忘れて、ビクリと身体が大袈裟に跳ねる。
その瞬間、ジャバーッとジョウロから溢れた大量の水が目の前に居た不良の先輩たちに思いっ切り掛かった。
「うわ!冷たっ!?」
そして、運が悪い事にジョウロに入った冷たい水は、赤髪の小早川さんに全てぶつけられる。
小早川さんの哀れな声が響いてから、私達の居る校舎裏は異様な静けさに包まれた。
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