走馬灯に星

透野 紺

第一章 私の一等星

第一話


「ねぇ、七星ななせさん結婚するって。」


  金曜日の仕事終わり、身体に纏わりつく重たい疲労感を感じながらいつものように気怠い操作でスマホ画面を開くと、長年の友人からそう書かれたメッセージが届いていた。


 その短い文章を読み込むだけなのに、私の馬鹿な頭は理解するのに数分間の時間が必要だった。


 幾らかの空白の時が流れてから、真っ白になった頭をなんとか動かして光を放つ画面の文章を飲み込む。


「…そう、なんだ。」


 吐き出した小さな呟きは、私しか居ない職場の静かなロッカールームに転がっていく。それが、やけに虚しく感じた。


 心にポッカリと穴が空いてしまったような感覚になって、そんなどうしよもない感覚を誤魔化すように帰り支度を終える。


 その途中で付け足されるように届いた友人からのメッセージには、私の予想した通りの人の名前が七星さんの結婚相手として書かれて、やはり何とも言えない気持ちになった。


 友人からのメッセージに返信する事なく、私は急ぎ足で職場を出て、夜の街の忙しない人混みの中に飛び込むように紛れる。


 星明かりを掻き消す程に強いネオンが輝く街は、相変わらず多くの人々が行き交っていて少しの窮屈さを感じた。


 その中で、何か言いようの出来ない感情が激流のように胸のうちから溢れて来るのを必死に堪えていた。暴れ出したいような虚しいような自分では、どうにも処理出来ない感情が渦巻いてただただ苦しい。


 この感情をどうにかしたくて、頭の悪い私は目に止まったコンビニに入って飲めもしない缶チューハイを二本買った。


 二十歳を遠に越えても、今だに酒は飲めず苦手だった。

 

 飲んだ事のない種類の酒を選んだのは、単純に缶のデザインが可愛いかったから。


 店員のやる気ない声を聞きながらコンビニを出ると、私はその場で直ぐに缶チューハイを一つ開けて一気に煽る。


 ゴクゴクとまるで水のように飲み干したそれは、今まで飲むことが苦手だったのに嘘のように喉を通り越していく。


 けれど、やはり苦手なアルコールを感じて思いっきり顔を顰めた。


 何、やってんだかなと思う。私は自分でも何がしたいのか、よく分からなかった。


 空になった缶をコンビニのゴミ箱に捨て、もう一つの缶チューハイも開ける。その液体をじわじわと飲みながら、無意識にメッセージに届いた結婚する彼の事を思い浮かべた。


 「七星さん!」と私が呼べば、いつも眉間に皺を寄せて「またお前かよ。」って呆れたように言う彼の表情が、今でも私の脳裏に焼き付いている。


 金色に染めた髪を掻き上げる仕草も、やる気なく腕を組んで佇む姿も、ぶっきらぼうな言葉遣いも。もう数年も前の事なのに、今でも馬鹿みたいに全部覚えている。


 ぼんやりと彼の記憶を追っていれば、次から次へとコンビニに出入りする客に不審な目で見られていることに気付いた。


 ハッとして、持っていた缶チューハイに視線を落とす。


 夜も更けた時間にコンビニ前で一人、酒を煽っている女なんて確かに気になるだろう。


 そんな事にも気付かなかった馬鹿な私は、慌てて残っている缶チューハイを全て飲み干して、空になった缶を再度ゴミ箱へ捨てる。


 その勢いのまま、逃げるようにコンビニを後にした。


 人から変な目で見られた羞恥だけじゃなく、慣れないアルコールで顔が熱くなる。


 血管がドクドクと脈打ち、思考がぼんやりとしていくのに私の記憶に住み着いた彼は全く薄れなかった。


 ふらふらと危なっかしい足取りで、夜の街を彷徨うように歩きながら、今だどうにも治まらない感情が胸の奥で蠢いているのを感じる。


 安易な発想で、衝動的に酒を飲んでもまるで無意味。そんな自分の馬鹿さ加減に、ほとほと呆れた。


 辿り着いた街の交差点は、人々が行き交うざわめきに溢れている。目の前の青い信号機が存在を主張するように、チカチカと点滅して赤に変わった。


 その人工的な光を眺めながら、なんだか星の瞬きみたいなんて全く似ていないそれを、大袈裟にロマンチックに心の中で例えてみる。


 多分、私はそんな事を一ミリも思っていないのに、それくらい馬鹿げた事でも考えないとこの激流のように襲ってくる感情を抑えられないのだ。


 安定しない思考が自分でも煩わしく感じて、それを振り払うように視線を頭上へと向ける。


 見上げた夜空には、本物の星は何処にも見えなくてただただ果てしない暗闇が広がっていた。それはまるで私の胸のうちを反映させたかのように、一つの光も存在させない暗さだ。


 なんだか遣る瀬無い気持ちなって、視線をゆっくりと正面の信号機に戻す。


 アルコールで熱くなった頬を撫でる風は、まだ少し夏の匂いを残していてやけに生温い。視界の先で主張する赤い人工的な光に従って、目の前を走る車たちが通り過ぎるのを待った。


 あぁ、なんかもうダメかもしれない。


 それはメッセージを見た精神的なものなのか、身体に合わないアルコールのものなのか馬鹿な私はよく分からなかった。


 けれど、多分どちらも混ざり合って、身体の中で弾き合ってぐるぐると気持ちが悪いものになっている。


 なんでかよく分からないけど、目の前の並べられた何本かの白線に向かって衝動的に足を踏み出した。


 小さい頃、この白線だけを踏んで道路の向こう側へ行くのが好きだった事を思い出す。


 トン、トン、とぐちゃぐちゃな思考から逃げるかのように、小さい頃に戻った気持ちになって白線を踏んでいく。


「おい!何やってんだ!?」


「危ねぇって!」


 ざわめく人混みの中から、そんな声が上がるのを何処か他人事のように聞いていた。


 この時、私は本当に正気を失っていたのだ。


 別に自殺願望があったわけじゃないし、もともと頭の悪い私でも流石にこんな危なっかしい事はした事がない。


 けれど、七星先輩が結婚してしまう事は、私がこんな奇行に走ってしまうくらいにショックな出来事だったのだ。


 まだ横断歩道は赤信号のままで、多くの車が横切っていく道路を呑気に白線を踏みながらよたよたと歩く。そんな私にブッー!とクラクションが偶に鳴らされて、「危ねぇだろうが!クソ!」と暴言が飛んでくる。


 普通の頭だったったら、この意味の分からない奇行が相当イカれている事は私にも分かっている。


 けれど、今は七星さんが結婚する事がショックで、慣れないアルコールが身体を這い回っていて通常の判断が出来なくなっていた。


 多分、私は相当酔っ払っている。


 摂取したアルコールに侵されて、もともと馬鹿な私の頭は普段より一層馬鹿になっている。


 ふわふわとした頭で、横断歩道の後半あたりまで差し掛かった所でパァーーッと耳を痛めそうな程に大きなクラクションが真横から聞こえた。


「…え、」


 車通りの多い交差点で、赤信号機にも関わらず横断歩道をよたよた歩いていれば、当然危ないに決まっている。


 それなのに、私はそんな事も分からないくらい頭が馬鹿になっているらしい。


 悲鳴のようなクラクションを鳴らした大型トラックは、もう目の前に迫っている。


 当てられたヘッドライトが眩しくて、目がチカチカした。一気に酔いが覚めるような恐怖に、怯えて全く身体が動かせない。


千夏ちなつっ!」


 そんな馬鹿な私の名前を、懐かしい声が呼んだ。


 見開いた視界の端で、此方に伸ばされた誰かの指先がスローモーションに見える。


 その伸ばされた右手の中指には、遠い昔に何処で見た事があるようなシルバーリングが嵌まっていた。


 それがキラリと光るのを見た瞬間、ドンッと今まで感じた事のないような強い衝撃が身体に走る。

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