第5話 紫色の霧

 イーリスが昏睡するユリアーナに処置をして小一時間が過ぎた。

 相変わらずユリアーナは眠り続けているが、魔力が少しずつ回復しているので目覚めるまでそれほどかからないだろう。

 イーリスはそのときをベッドサイドでじっと待っている。


「…………?」


 ふ、とユリアーナが目を覚まし、ぱちくりと二度まばたきをした。少々鼻をつく薬草の匂いに眉根を寄せ、視線を横に向ける。その先には安堵したように笑むイーリスがいた。


「おはよう、ユーナ」

「……イーリス……?」

「うん。わたしだよ」

「ここ……私の部屋……? どうして……」

「ああ、まだ動かないで。魔力切れの症状はまだ続いてるはずだから」


 起き上がろうとするユリアーナの肩に手をやり、ゆっくり寝かせてイーリスは水晶色の髪を撫でた。


「ごめんね、ユーナ。魔力用の回復薬ポーション、全部使っちゃったから今はユーナに使う分がないんだ。自然回復に任せて体調が戻るまで横になってて」

「全部……ですか。私、イーリスの迷惑になるようなことをしたんですね……」


 聡明なユリアーナは自分の状態から瞬時にその考えに至り、申し訳ないと表情を曇らせた。

 そんな彼女にイーリスは首を振って見せる。


「違うよ。ユーナは何も悪くない。むしろ、謝るのはわたしのほうだよ」

「どうしてイーリスが謝るんですか」

「ユーナに薬草採取……というか、この時期の森で特に気をつけなきゃいけないことを伝え忘れていたから。それは完全にわたしの落ち度だよ。そのせいでユーナを危険な目にわせてしまったんだ。本当にごめんなさい」


 深々と頭を下げて、イーリスは震える声を絞り出す。

 それをやめさせようとユリアーナは起き上がろうとしたが、強烈な倦怠感けんたいかんで上手く体が動かなかった。魔力がほとんど残っていないことを嫌でも自覚してしまう。


「どうして私の魔力がカラになっているんでしょう……」

「ユーナ。湖のほとりで『紫色の霧』を見なかった?」

「霧……ですか? ああ、そういえば……」


 森のほうで物音がして、野ウサギが飛び出して逃げていった直後にそれを見たことを思い出す。そこでふっつりと記憶が途切れて、気がつくとなぜか自室の天井を見ることになった。


「お弁当を食べているときに森のほうで物音がして、野ウサギの親子が飛び出してきました。そのすぐあとに紫色の霧が広がって……甘い匂いがしたかと思うと、急に睡魔に襲われて……。あれはいったい何だったんでしょう? 魔法でしょうか? それとも魔物?」

「どちらも違う。だよ」

「……キノコ?」


 予想外の返答にユリアーナは思わずおうむ返ししてしまった。それにイーリスは一つうなずく。


「正式名はわからないけど、わたしは『ムラサキヤマキジタケ』って教わった。魔物が多く生息する森に生えるすごく珍しいキノコで、魔力を養分にして成長するんだ。ある程度大きくなると傘の部分がふくろじょうになって、刺激を受けると袋が割れて中のほうを飛ばすんだけど、それが紫色をしているから空気中に飛散したら紫色の霧のように見えるってわけ」

「…………」

「で、厄介なのがその胞子で、生き物がそれを吸い込むと肺の中で体内の魔力を吸収してしまうんだよ。その吸収量も速度も異常で、人間がいっぱい吸い込むと一瞬で魔力欠乏症を起こして昏倒してしまう」

「では、私はそれを吸い込んでしまったので倒れたんですね……」

「うん。……このキノコの面倒なところは、体内で生成される魔力もかたぱしから吸い取ってしまうから、ずっと魔力欠乏状態が続いて眠り続けてしまうところ。魔力用回復薬ポーションを処方したらそれも全部吸収してしまうし、解毒魔法をかけるとその魔力が体に作用する前に吸い取っちゃう。胞子を除去する薬も治療法もないとされていて、このキノコの胞子を吸い込んでしまったら、その人の免疫力が奇跡的に胞子をちくするか、そのまま眠り続けて衰弱死するしかないんだよ」

「……恐ろしいキノコですね」


 説明を聞き、ユリアーナは背筋が凍るような思いに体が震えた。それを察したイーリスがその手を取ってぎゅっと握る。


「多分、ユーナが見たウサギがキノコに触っちゃったんだね。それで胞子を飛ばしたんだと思う。見た目はそこそこ大きくてあからさまに毒々しい感じだから、ユーナがうっかりとか好奇心とかで触ったりするとは思えない。そもそも、コイツ自体が森のどこかに落としたコイン一枚を探すより目にする機会が低いようなキノコだし、胞子を飛ばすのは今くらいの季節のほんのわずかな期間だけなんだ。だからユーナはちょっと不運だっただけで、何も悪くないんだよ」

「ですが、結果的にはイーリスに迷惑をかけました。それに回復薬ポーションを全部使わせてしまったのでしょう? また、私のために無茶なことをしたのでは……いえ、したんですよね?」


 半ば確信的に問うユリアーナ。

 致死率が高いという胞子を吸い込んで無事でいられたのは、ユリアーナ自身の免疫が勝ったと考えるよりイーリスが何かをしたと考えるほうが現実的だった。

 加えて、その気になれば『禁呪』と呼ばれる人間には扱えない危険な大魔法ですら術式改変で使用できてしまうイーリスが、文字通りあった魔力用回復薬ポーションを使い切ってしまったということを考えると、禁呪を使うことと同じレベルの常識外れなことをしたのだろうと予測するのは難しくない。

 その断定的な問いかけに誤魔化しは無駄だろうと、イーリスはあっさり口を割った。


「いやあ、無茶というほどでは。ちょっと空を飛んだだけで」

「は……? え……? 今、何と……?」

「空をぴゅーんと飛んだ」

「…………?」


 イーリスが奇想天外で予測不能なことをするとわかっているユリアーナであったが、さすがにその発言には思考停止するしかなかった。


「ええと……? 確か『飛行魔法』は人間には使えないのですよね? 恐ろしく精密な魔力操作と膨大な魔力で風魔法を発動し続けなければならなくて、それは人間の処理能力では実現できないとと記憶しているのですが」

「うん。魔力消費量は術式をいじればなんとかできるかもって感じだったけど、コントロールはどうにもできなかったから、こりゃ無理ダナ、とさじを投げたよ」

「では、どうやって……?」

「ユーナも掃除や片付けのときに使ってる『浮遊魔法』を改変して宙に浮かび上がって、風魔法で自分を弾き飛ばして移動した。それだけ」

「それだけ、って……」


 事もなげに言い放って笑うイーリスに、ユリアーナはめまいがするような思いだった。

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