[2]すみれの栞

「なあ、ウィルは?」

「ウィルなら庭園に行ってるよ。もう戻ってくるとは思うけど……、急ぎの用なら呼んでこようか?」

「……信じらんねえ」


 花束を投げ捨てたい衝動に駆られた。せっかく持ってきてやったというのに兄たちは薔薇の到着を待ち切れなかったらしい。とんだ骨折り損だ。この仕打ちはあまりに酷い。

 ――いや、アデレードが我儘を言ったのかもしれない。待っているより実際に見にいく方が早いのだ。わざわざ母が摘んで用意するまでもなく。

 苛立ち紛れにがりがり頭を掻く。途端に大きなくしゃみが出て、セイルは眉間のしわを深くした。もしかして兄たちに好き勝手言われているのでは。


「あ、ごめん。この匂いダメだった? 試用を頼まれたお香なんだけどさ、俺もちょっと匂いが強すぎるなあって思ってたところなんだよ。参るよねこれ」

「……はぁ?」


 苛ついた顔のまま振り返る。男の指した箇所に小さな香皿が見えた。部屋に入ったときから漂っていた匂いの正体が意外な形で判明した。

 自らの審美眼に絶大な自信を持っているあの兄がこんなお香を選ぶとは思えなかった。だからこれはこの男のセンスなのだろう。使用人としてあるまじき失態だと思う一方で、兄には「ざまあみろ」と胸がすいた。


 やおら窓辺に寄った男は掃き出し窓を開けていく。紗のカーテンがふわりと舞い、冷たい風が入りこんできた。清々しい空気に吹かれながらなんとなく肌寒さを感じ、セイルは片手で反対の腕をさすった。


「綺麗だね、それ」

「あ?」


 彼がセイルの手元――花束を指差していた。むう、とセイルは唇を尖らせる。


「頼まれたんだよ。持っていけって」

「ウィルに? この時期にこんなに立派な薔薇があるなんてすごいね。温室咲きかな」

「……庭園だろ」


 この男、自分で「ウィルは庭園に」と言っておきながら一体兄が何をしにいったと思っているのだろう。おそらく今の庭園の王は薔薇だ。母と長々話す気もなかったのでちゃんと確かめてはいないが、庭園の脇を通ったときあちこちに華やかな色を見かけた気がするし。

 まあ、何が咲いているかだの、薔薇の出処が庭園か温室かだの、なんでもいいしどうでもいいのだけども。


 セイルは部屋の中央にある丸テーブルに歩いた。花束を置こうとしたところでふと、卓上のものに目が止まった。古めかしい辞典が数冊、それにたくさんの花の絵がテーブルの半分以上を占拠し散らばっていた。花のひとつを摘み上げれば透けるほどに薄く、手触りは上等な絹布のごとく。精緻に色を塗られ、形に沿って綺麗に切り取られたそれはまるで本物のようだ。


「押し花に興味ある?」

「オシバナ?」

「それ。分厚い本に挟んで作るんだ」


 ゆるりと歩み寄ってきた男は、そばに置いてあった長方形の紙片を手に取った。


「これは春に摘んだすみれ。薄紙に包んで、そのまま本に挟んで置いておくだけ。簡単だろう? こんなふうに紙に貼ればあっという間に栞の出来上がり」


 はいと差し出してきたその男の顔をセイルは凝視していた。間近に寄ってようやく面持ちを確かめられた。のほほんと笑んではいるが十人並みのぼんやりした顔つきだ。それがゆるりと不思議そうに傾いて、セイルは仕方なく紙片を受け取った。本物みたい、ではなく本当に本物の花だったのか。

 形だけはためつすがめつ観察したあと栞を男に返した――返そうとした。が、片手で止められてしまった。


「あげるよ。使って」


 セイルは耳を疑った。聞き間違いかと思った。けれど目の前にはなんとも毒気を抜かれるような朗らかな笑みがある。コイツ、本気か。

 待て待てと首を横に振った。


「オレ、本読まねえし」

「じゃあ尚更いいんじゃないかな。本好きな人よりも苦手に思う人の方が栞を活用する機会は多いと思うよ。だって読むのをやめるときに使うものだからね」


 何がそんなに楽しいのか、呆れるほどに呑気な笑みが男の口許に漂っている。

 セイルは眉を顰めてうーんと唸る。男の言には一理ある、ような気もする。けれどセイルの場合は苦手というよりそもそも興味がない。始めから本を開くことがないのに、活用する機会も何もないと思うのだが――。


「あ、戻ってきたよ」


 壁掛け燭台に火をつけていた男がホッとしたように顔を綻ばせた。その視線は窓の外に向けられている。

 栞を凝視していたセイルはハッと我に返るとそそくさと扉の方に向かった。用があるんじゃなかったの、と背中に声が飛んできたが返事はせずに外に出る。

 顔を合わせれば決まって小言が飛んでくる兄など誰が会いたいものか。会わずに済むならそれに越したことはない。

 問題の薔薇はテーブルに置いてきた。見えるところにさえあればいずれ兄たちが気づくだろう。




 回廊に戻ってきた。日も落ちて薄青い静寂が横たわるそこをセイルは無心に歩いていく。

 ホール手前の階段を上がりながらふと手の中に目を落とした。成り行きで持ってきてしまった小さな長方形には紫色の小花が咲いていた。少女趣味とでも言うのか、いかにも可愛らしいそれは自分よりむしろアデレードが持つ方がふさわしい気がした。


 待てよ、とセイルの足が完全に止まる。先ほどにこやかに、つ有無を言わせず渡されたがそもそもこれは誰のものだろう。使というのはさすがに考えにくいが。


 ――次の瞬間舌打ちした。

 しまった、罠だ。


 可憐な小花にさっきの能天気な顔が重なる。おかしなヤツとは思ったのだ。終始へらへら笑っていたし。セイルを対等な者のように扱い、話し方も偉そうだったし。

 あの分だとおそらく兄のことも友だち程度に考えているのだろう。だから触ってしまえる。

 全くわかっていない。使用人としての立場というものを全然理解できていない。そんな未熟者の雰囲気に流され、つい口車に乗せられ、栞を持たされてしまった。不覚としか言いようがなかった。


「絶対、ウィルのだよな……これ」


 ただの紙が急に重く感じられた。兄はもう事の顛末を知っただろうか。使用人は自業自得としても一緒に自分まで叱られるのは甚だ納得がいかなかった。こちらはただ渡されるままに受け取っただけなのだ。言うなれば被害者である。




 セイルは再び兄の部屋へ足を向けた。このまま放置しておくのは兄の怒りが膨らむばかりであまり良いとは思えなかった。面倒なことはさっさと終わらせるに限る。

 怒られる前に返してしまえば向こうだって何も言えないだろう。あの男に無理やり押しつけられたことも主張すべきだ。


「……あれ?」


 セイルが閉めたはずの兄の部屋の扉は普通に開いていた。中央の丸テーブルのところにいたアデレードがきょとんと顔を上げた。


「セイルじゃない。どうしたの?」

「ちょっと、な。……おまえこそ」


 栞を握る手をそれとなく背後に隠す。内心冷や汗をかきながら彼女の手元をあごでしゃくれば、「ウィルトールに本を貸してもらうのよ」と澄ました答えが返ってきた。

 セイルは平静を装い部屋の中ほどまで歩いた。室内のあちこちに目を向けるが幼馴染と兄の他には誰もいない。

 本棚を物色していたらしい兄が「なんの用だ」と訝しむ。それに負けず劣らずの渋い面持ちでセイルは腕を組んだ。わけがわからない。

 さっき退室してからまだほんの数分しか経っていない。なのにあの分厚い辞典や大量の押し花はすっかり片づけられて見当たらない。慌ててどこかに押しこんだような形跡もない。


「……アイツは?」


 声を潜めて兄に一歩近寄った。

 男の姿がないのがどうにも不可解だ。エントランスホールからここまでは一本道。途中誰とも会っていないし隠れるような場所もないはずである。


「あいつ、とは?」

「だから背の高いヤツだよ。新しい使用人。なんか胡散臭いの雇っただろ? ひょろっとしてて髪型も鬱陶しくて……」


 兄の瞳がすうっと剣呑な光を帯びる。言外に何をわけのわからないことを、と言っているのがわかる。


「さっぱり身に覚えがないが……怪しいやつでもいたか?」

「は!? アイツ、知り合いじゃねーのかよ。おまえのこと呼び捨てにして、すげえ仲良さそうだったぜ? ……あ、でもオレとおまえが友だちかって聞かれたけど」

「友だちのわけがないだろう」

「オレに言うなよ」


 む、と膨れつつセイルの頭上にたくさんの疑問符が浮かんでいた。やっぱりわけがわからない。

 「用件はそれだけか」と、兄が呆れたように溜息をついた。思い出したように例の栞を差し出そうとしたセイルは、そこでもうひとつの重要なことに気づいた。ハッと丸テーブルに視線を投げる。

 熱心にページをめくるアデレードが目に入る。卓上には彼女のそばに数冊の本が積まれているだけだった。あるべきはずのものが見当たらない。


「薔薇は!?」

「バラ?」

「花束。持ってけって言われたから持ってきた。あそこに、あっただろ?」


 テーブルを指差し、振り返る。眉を顰めていた兄からすぐに返事を貰い、セイルは頭を抱える羽目になった。すなわち「花など見ていない」と。

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