黄昏に薫る夢

りつか

[1]知らない人間

 どかどかと足音荒くひとりの青年が歩いていく。このウィンザール邸に住む四男坊セイルだ。眉尻はつり上がり、碧色の目には苛立ちの色が宿り、唇は真一文字に引き結ばれている。彼が不機嫌なのは誰の目にも明らかだった。

 セイルはちらりと目線を下げる。嫌悪感もあらわな視線の先には薔薇の花束がある。パステルカラーでまとめられ、〝きれい〟というよりは〝かわいい〟印象のそれ。どちらかというと愛の告白に使われるような雰囲気はない。とは言え薔薇は薔薇だし、花束は花束なのである。手にしているだけでなんとなくむず痒い。

 なぜこんなものを持ち歩くことになったのかといえば、


「今、アデレードちゃんが来ているの。薔薇が見頃よって話をしたらとても興味を持ってくれたのよ。お裾分けを用意したから、持っていってくれないかしら?」


 廊下で鉢合わせた母の言葉である。帰宅早々に出会でくわし、ウキウキ呼び止められた。


 ――なんでオレが。


 一瞬で眉間にしわが寄った。頼まれごと自体が面倒というのもある。だがそれ以上に相手が曲者だった。

 アデレードはいわゆる幼馴染というやつだ。なぜかいつも喧嘩腰で向かってくるし睨まれるし、セイルがいち言えば十返ってくるという始末であまり顔を合わせたくない。

 だが不満がセイルの口をついて出るより速く、母はふうと深い溜息をついた。


「アネッサ、怒らないかしら……」

「は、アン!? な、なな何がだよ」


 突然出てきた天敵アンの名前に脊髄反射で身構える。

 アネッサ――アンはセイルから見て父方の叔母にあたる。女性ながらに背が高く力も強く、幼少期には母代わりとしてセイルや兄の面倒を見てくれた――もとい恐ろしい相手なのだ。


 まさかこんな花束ごときにヤツが一枚噛んでいるというのか。そんな馬鹿な。

 ――いや、母の頼みを断ればアンに告げ口するぞということなら可能性はあるかもしれない。……あれ、遠回しに脅されている?

 脳内で一人百面相を繰り広げていると、母は憂鬱そうに自身の頬を片手で包みこんだ。


「深紅のこれ、とっても綺麗でしょう? アネッサの薔薇なのよ。あんまり見事だったから一輪だけ拝借してきたのだけど……やめた方が良かったかもしれないわね。了承も得ずに黙って摘むなんて、知ればきっと気を悪くするわ」


 たった一輪混ぜられた暗赤色。くっきりはっきりとした深みのある赤いそれが実はアンの所有する薔薇なのだと聞かされると、なるほど確かにと妙に納得してしまう。ふんわりと夢見るような桃色や橙色を従える勇ましい赤はまさに彼女そのものだ。まるで自分が主役と言わんばかりだなとセイルは半眼を閉じる。


「昔、とても美しい薔薇を贈られたんですって。この薔薇はそれなの。離れの脇に植えてあるのよ」

「離れ?」

「ええ。今でも帰ってきたときは必ず見にいっているようだわ。それは苦労して同じものを探し出したらしいもの。でもそうやって大事にしているのを知っておきながら、わたくしが勝手に摘んでよかったのかしらって……。やっぱりよくな――」

「んなの、言わなきゃわかんねーだろ」


 セイルは母の手から薔薇を取り上げると僅かに身体の向きを変えた。母の目から遠ざけるべく、それを死角に入れてしまう。


「花なんか勝手に咲いて勝手に枯れるんだし。いねえ間に何本咲いたかなんてわかるわけもねーし」


 母はなんでもすぐ思い詰める節がある。鬱陶しい世迷いごとをこれ以上聞かされるのは勘弁してほしかった。




 持っていけばいいんだろうと、セイルはさっさとその場を後にした。

 だがしばらく歩くうちに沸々と怒りがこみ上げてきた。


「なんでオレがこんなこと……花が見たいんならアイツらが直接見にいけばいいんじゃん」


 幼馴染のアデレードは昔から兄にくっついていた印象がある。セイルとアッシュの遊びにはあまり加わらず、それよりも兄と一緒に過ごしていることの方が多かったような気がする。

 アデレードの方が自分よりよっぽど仲の良い兄妹関係を築けていると思うし、もし彼女が一言「薔薇を見たい」と言えば兄はほいほい連れていくのではないか。身内には無駄に厳しいくせに外面だけは恐ろしく良いから。

 イライラと息を吐いた。なぜ今日に限って裏口から入るルートを選んだのだろう。多少回り道であってもちゃんと表から入ればよかった。そうすれば母にも会わず、こんな面倒臭い頼まれごとを引き受ける羽目にもならなかったのに。

 門からの距離だけをみて、ついそちらにまわってしまったのが運の尽きだった。


 むかむかと、どかどかと、不満な顔を隠しもせず歩くセイルを止める者は誰もいない。使用人は腐るほどいるはずなのに、誰かいれば代わりに渡しとけと言うことだってできるのに、こういうときに限って誰も見ないのだからある意味天晴あっぱれだった。

 気分の悪いことはさっさと終わらせるに限る。あっという間に客間に着いたセイルは、だがそこで更なる怒りに見舞われた。


「いねーじゃん!」


 突然響いた怒鳴り声に、室内にいた者たちがびくりと一様に振り返る。その中に幼馴染と兄の姿はない。

 母にお菓子作りを習いに来ているアデレードはそのあと大抵この部屋でお茶をする。出来上がったシロモノを兄が相伴するのが既に当たり前のようになっていて、だから今日もここだと思っていた。


「おふたりは、ウィルトールさまのお部屋へ向かわれました……」


 扉から一番近い場所にいた使用人の女は両手で布巾ふきんを握り締め、おそるおそる答えた。その目線がセイルの手元に落ちた途端、訝しげにすがめられる。

 セイルはあたふたと飛び出した。誰でもいいから適当に代行を頼む気でいたが、いざ面と向かうととても説明できる気がしなかった。何を言っても変に勘繰られるような気がしたし、ふたりの行き先はわかっているのだからさっさと渡しにいけばいいと思ったのだ。

 ――説明せずともそこで問答無用に投げてしまえばよかったのだと、そう気づいたのはずいぶん後になってからのこと。




 エントランスホールを突っ切って、やしきの端に位置する兄の部屋へ急いだ。

 窓から射しこむ西日が回廊を茜色に染め上げていた。外に目をやれば木々も花も何もかもが真っ赤に燃えている。季節は春真っ盛り、青々と茂る緑もこの時間帯だけはさながら紅葉しているかのようだ。

 離れの一番奥まで歩き、セイルはなんの躊躇ためらいもなく扉を開けた。


 落日の朱い光が射しこむ室内。むわっと、何のものかわからない濃密な甘い香りがセイルの鼻腔を満たした。なんだこれと思う間もなく部屋の中央付近にいた人物が振り返り、目が合った。

 いや、果たして本当に目が合っているのだろうか。こちらを向いてはいるが逆光なうえ、長く伸ばした前髪が邪魔すぎた。その双眸がどこを見ているのか、そもそも目を開けているのかどうかもよくわからない。


 ――誰だ?


 兄、ではない。だが背格好からして男性である。背の高さはセイルとそう変わらないがひょろりと痩せており、どことなく不健康な印象を受ける。何より目を引くのは朱い光をきらきら弾く銀の髪。

 確実に初対面だと思った。

 男は一概に目立つ容姿でもないが、なんとも言えない存在感があった。いくら周りに関心の薄いセイルであっても、一度目にしたら記憶の片隅には残るくらいの。


 思わず一歩後ずさり、廊下と室内を代わる代わる見やった。……確かに離れの一番奥の部屋である。室内の掃き出し窓からは見慣れた芝生の庭と、その向こうに黄色く色づいた林が見えていた。間違いなく、兄の部屋のはずである。

 兄と幼馴染がいると思っていた部屋になぜ、知らない人間がいるのだろう。


 しばしののち、沈黙を破ったのは相手の方だった。


「ええと……何かご用、かな?」


 のんびりとした穏やかな声音だ。それまでまとっていた異質な雰囲気は途端に霧散した。けれど声自体にも聞き覚えがなく、セイルはやはり困惑する。


「いや、オレが用があるのはおまえじゃなくて、ウィルと……」

「ウィル? きみ、ウィルのお友だち?」

「はぁ?」


 思いっ切り眉間にしわを寄せた。

 この邸にあって自分を知らない、まして兄との関係までをも知らない者がいようとは。兄弟の仲の悪さも、もはや周知の事実だと思っていた。

 とはいえ男の方もとても冗談を言っているようには見えなかった。ついでに言えば要人や客人の類いにも見えない。上に立つ者特有の覇気がない。


 ――新たに雇われた使用人か。


 しばらく考えて出た結論はそれだった。おそらく雇われたばかりで内情にはまだ明るくないのだろう。主人を捕まえ「ウィル」と呼び捨ててしまうあたりは違う意味で大物かもしれないが。


 兄はなんだってこんな無礼なヤツを雇ったんだか。オレだったらソッコー蹴っ飛ばしてる。

 だがそんなことはこの際どうでもよかった。彼についての考察をセイルはあっさり手放した。用があるのはこの男ではなく兄とアデレードだ。

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