第2話
夏休みが始まってすぐ養母と一緒にT山郷に発った。
T山郷に着いて予約しておいた民宿に荷物を置くと、あたしは早々にフィールドワーク、というより場所の記憶読みに出かけた。
というのも、T山郷に着いていきなりこの民宿が『T山物語』に出て来る釣り名人の関係筋だと知ったからだった。
もちろん玄関口に束ねるようにあった記憶の糸を失礼を承知で、チョロっと読んで分かったことだ。
「ミユキちゃんは疲れ知らずね。お母さん休ませてもらうね」
という養母の言葉を背に、あたしはT山郷の記憶の世界に飛び込んで行った。
T山郷は斜面ばかりかと思ったら中心地は普通の田舎町だった。
実際『T山物語』の登場人物たちも、町の中に記憶の糸を残していたのであたしは、ほとんどの時間を街中で過ごすことになった。
初めの一週間は町の辻々に立ってひたすら記憶の糸をたぐる日々を過ごしたのだ。
そうして読んだ場所の記憶を、民宿に帰ってから国土地理院の2万5000分の一の地形図を拡大コピーしたものにプロットする。
誰に見せるつもりもなかったけれど、それがとても楽しかった。
養母はそんなあたしを不思議そうに見ていたけれど、これまでどおり何も口出しすることなく静かに見守ってくれていた。
ところがさすがに一週間ずっと街中にいると採取できるトピックスも限られてきた。
それでようやく斜面の多い郊外に足をのばしてみることにした。
週開けの朝、斜面の道を歩いているといきなり気になる糸に出くわした。
その人の記憶の糸は、あたしのように外からやって来てあるお婆さんの家を訪問し、しばらくするとまた戻って行くというのを数年の間くりかえしていた。
最後にはお婆さんがその家からいなくなってしまい、それに連れてその人の糸も消えてしまうのだが。
初めは自分の祖母を見舞いにきている孫なのかと思った。
でもそうではなかった。
訪問するときは必ず野帳と筆記用具、記録するカメラやICレコーダーを携え、そのお婆さんから思い出を聞き出していたからだ。
インタビューをしていたのだ。
それに加え、あたしと同じくらいの年齢の男子だったので気になってしまって『T山物語』そっちのけで、その男子の記憶の糸ばかり追いかけるようになった。
そのお婆さんの家は斜面に引っかかるように建っていた。
主がいなくなった家は、何年も放置されていたせいで廃屋になっていて、屋根が落ちそうな危ない感じがしていたので、あたしはそこをお化け屋敷と名前を付けた。
失礼とは思ったが、実際近所の方もそう呼んでいたし。
他に立ち寄る人もないということも、場所の記憶を終始放心状態で読み込むあたしにとっては好都合だったわけだ。
あたしはそこを毎朝早く訪れては、暗くなるまで一日中その男子のことを眺めて過ごした。
その男子は、お婆さんが名前を呼んでいたのでわかったのだが、ユウイチという名前だった。
あたしは朝に目が覚めると朝食を早々に済ませて、お化け屋敷に直行する。
そして、そのほの暗い居間にある沢山の記憶の糸の中からユウイチのものだけを縒り出し終わると、一日中ユウイチの作業を細かく読み取っていった。
そこで見るユウイチの調査はあたしのとは違っていた。
もちろんあたしの読むのとユウイチの聞くとの違いはある。
それだけではなく、ユウイチの調査は何かのルールに従って一つ一つ積み重ねるような慎重さがあったのだ。
今ならそれが「質的研究手法」を勉強して臨んだものだと分かるが、当時のあたしにはどこか遠くの世界の調査方法のように感じたのだった。
あたしは、ユウイチの記憶の糸を辿りながら、助手のような気分でインタビューを見守っていた。
「そっちの糸で同じ事聞いてた」
とか、
「大切な話が聞けたね」
とか、聞こえもしない記憶の糸の中のユウイチに話しかけながら。
あたしはずっと一人ぼっちだった。
大勢の人の記憶の糸を読みながら、いつも孤独を感じていた。
それは断崖の向こう側にいる人たちを反対側から見ているような感覚だった。
寂しかった。
でもユウイチは違った。
少なくともこっち側の人だった。
それはヴァーチャルな関係だったけれども、あたしにとっては初めて出会うフィールドワーク仲間だったのだ。
それがとても嬉しくて、あたしはいられる限りユウイチの側に居続けた。
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