第8話「違和感」

 結局、この日の帰宅は22時半近くになった。


 玄関を開けると、部屋の電気はついていなかった。そして玄関に俊の靴はない。


 どこかに夕食を食べに行ったにしても、さすがに遅くないか。どこに行ったのだろう。


 不思議に思いながらシャワーを浴び、ソファでゆっくりしていたところで、ようやく玄関のドアが開く音がした。


「おかえり、どこ行ってたの?」


 部屋に入ってきた俊の頭に目が留まった。髪色が変わっている。


「髪の毛、染めてきたんだね」


「うん、あの髪色だと目立つからな」


 俊が昨夜来たときは、髪色は真っ白に近いハイトーンカラーだった。Lポップ界ではハイトーンに染めるメンバーが多く、俊も来週予定されていた新曲リリースに合わせてハイトーンにしていた。


 しかし、と凛は引っかかる。美容院の用事だけで帰ってくるのがこんなに遅くなるわけがない。


 いぶかしく思う凛を横目に、俊がソファにバッグを放り投げる。ぼん、と荒い音がした。


 軽くため息をつきながら凛のそばを通ったとき、ふっと酒の匂いを感じた。


「お兄ちゃん、もしかしてお酒飲んできた?」


「よくわかったな。そんなに飲んだつもりはなかったんだけど」


「私、昔から鼻がいいみたいで。それで、誰といたの?」


「まあ、知り合いと」


 知り合い? 誰だろう。凛以外にこの国で頼れる人はいないと言っていたはずだけれど。


 疑わしく思ったのが顔に出ていたようで、凛の方を向いた俊が付け加えた。


「L国に行ってからも連絡を取ってる地元の友達が、数は少ないけどいるにはいるんだ。そいつと東坂で飲んできた」


 挙げられた地名は、この都市最大の繁華街だった。居酒屋やバーが多く、歓楽街とも隣り合わせ。人が多い場所だから、俊が、世間を騒がせるあのアイドルのSHUNだと気づかれるおそれもある。


「そっか。あまり危ないことしないでね」


 凛の忠告が気に入らなかったのか、俊の顔がしかめられた。慌てて補足する。


「こっちの国でもメディアに居場所がばれたら、大変なことになりそうだから」


「それはおれもわかってる。外では帽子とマスクはしてるけど、気をつけるよ」


 俊から出たのは投げやりな返事。それ以上凛と話すつもりはないらしく、俊は着替えの服をボストンバッグからごそごそと出した。


「じゃ、シャワー借りるよ」


 凛の方を見ることなく洗面所に向かう背中に、ごゆっくり、と声をかけて、凛はソファの上で目を閉じた。


 その次の日も、また次の日も、俊の帰りは遅かった。連日22時を超える帰宅に、さすがに凛も違和感を覚えるようになった。


 俊も子どもではない。いちいち帰宅時間をとがめるのもいかがなものかと思い、口を出さないようにしているけれど、この遅さはどうしても気になる。というか、心配だった。


 この家を訪ねてきた俊は、はじめは憔悴しきった様子だった。L国ではメディアの目もあり、ストレスもあっただろうから、十分に食べることができていなかったようだ。この国に来てからはちゃんと食べているようで、初日のやつれた様子は少しずつ改善されてきた。


 しかし、毎回酒を飲む必要はあるだろうか。


 俊は酒に強いようで、帰宅したとき酔っ払っているようには見えない。けれど、これだけ毎晩酒を飲んでいると、酒におぼれているようにも見える。


 別に、いいのだ。酒でストレス解消というのは、ある意味当たり前のようにも思える。だって、あれだけの非難にさらされ、世間からバッシングを受け、メディアの目をかいくぐって生活しなければいけなかったのだ。


 そんなプレッシャーから解放された今、L国で溜まったストレスを解消したい気持ちはわかる。


 けれど、それにしても飲みすぎではないか。


 凛に対する態度も気になっていた。


 小学生までの俊しか知らないから、大人になってからの俊を知っているわけではない。


 でも、記憶の中の俊は凛に対して優しく、おもしろい話をしてくれて、よく面倒を見てくれた。今日のように凛の目の前でかばんを放り投げたり、投げやりな答えをしたりするような人ではないはずだ。


 俊に対して、丁重に接してくれと言いたいわけではない。ただ、俊がいつもの俊ではないような気がしてならない。


 いったい彼は、どうしたんだろうか。


 凛の中で、心配な気持ちが日に日に大きくなっていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る