第6話「出会いたくなかった人物」
凛の朝は早い。
6時半にあくびをしながら起き上がると、ソファに横たわる見慣れない男の姿が目に入って、一瞬どきっとする。
そういえば、昨夜いきなりお兄ちゃんがやってきたんだった。しばらく泊めてほしいってお願いされたんだっけ。
15年ぶりに会うというだけでもぎこちないのに、凛の方は画面を通して彼を一方的に知っているというのは、とても気まずい。
俊を起こさないよう、物音をできるだけ抑えながら朝の支度をする。着替えて、メイクまですませても、俊はまだ起きている様子はなかった。
今夜は仕事終わりに予定があるから、家に帰るのは22時を過ぎるだろう。
彼にそのようにメッセージを送ろうと思って、ふと気づく。凛は、俊の連絡先を知らないのだ。
15年前に別れたとき、凛と俊は連絡先を交換しなかった。当時はまだスマートフォンを持つ時代でもなかったのだ。
俊がL国に渡った後、さみしくて連絡を取りたいと思ったことは何度もあった。けれど、連絡先を突き止めるすべもなく、なにもできないうちに彼は華々しくデビューを果たした。
彼個人のSNSも開設されたが、そこにダイレクトメッセージを送りつけるほど無遠慮なファンには思われたくない。そんなわけで、いまだに凛は俊の連絡先を知らないのだった。
仕方ない。連絡先は今夜交換することにして、今朝は置き手紙でもするか。
メモ用紙に用件を書き、静かに鍵をかけて、凛は家を出た。
◇
オフィスのエントランスを抜け、降りてきたエレベーターに乗ろうとしたとき、ちょうど中から一人出てきた。
目が合った瞬間、凛はその人物と鉢合わせたことを後悔した。
「相変わらず背が高くて目ざわりなやつだな」
出てきた人物は凛を見上げ、にやにやといやな笑いを浮かべた。隣の部署の圭吾だ。入社同期であり、凛と同じ小学校の出身。
そして、かつての凛のいじめっ子でもある。
10年以上会っていない彼と思いがけない再会を果たしたのは、約2年前の内定式のときだった。小学生のときと変わらないにやにやとした笑いを浮かべる彼に話しかけられたとき、凛はショックで卒倒するかと思った。
その夜、凛は咲紀の家に押しかけて強い度数のチューハイを3本空けた。小学校時代の圭吾を知る咲紀も、さすがに凛の悪運を嘆いた。
「目に障るなら見なければいいじゃない」
冷え切った声で言い捨て、凛は頭一つ下の圭吾の前を横切ってエレベーターに入ろうとする。
「へえ、背もプライドも高いなあ。そのせいでこれまで彼氏もできなかったんだろ?」
「誰がそんなこと言ってたの?」
思わず反応すると、圭吾はしてやったりという顔をした。
「ほう、図星か。清水さんから聞いたって、田中が飲み会で言いふらしてたよ。おまえが友達だと思ってた同期の清水さん、案外口が軽いみたいだな。尻も軽いんだろうな」
下品な言葉に顔をしかめる。
圭吾は凛の表情を見て、不愉快な笑みをさらに深めた。
「おまえもそろそろ彼氏がほしい年齢なんじゃない? そんだけ長い間彼氏いないと、欲求不満じゃねえのか?」
「いいかげんにしてちょうだい。私にもう関わらないでって何度も言ってるでしょ」
そろそろ自分の怒りが沸点に到達しそうなのを感じ、凛は立ち去ろうとする。
しかし、続く圭吾の言葉に一瞬気を取られ、去るタイミングを逃した。
「もう小学生じゃないし、おまえの大好きなお兄ちゃんには守ってもらえないから残念だったな。一人でせいぜいがんばれよ」
お兄ちゃんという単語に、凛の肩がびくりとはねた。
しかし、圭吾はそれに気づかない。自分の言葉に引っかかったようで、独り言のように続けた。
「そういや、おまえの兄ちゃん、中学校で転校したって聞いたけどどこに行ったんだっけ? 小6の時点であんなにイケメンで成績優秀とくれば、今ごろ勝ち組の人生なんだろうな」
幸いなことに、それ以上の追及はなかった。ほっと安心しつつも、どんよりした気分でエレベーターに乗り、凛はオフィスフロアに向かった。
凛は、国内大手のマーケティング会社に勤めている。怒涛の新卒一年目をなんとか無事に終えて、今は二年目だ。
激しい競争を好まない凛は、自社の穏やかな社風を気に入っていた。
ただ、就活の前からこの業界を目指していたわけではなかった。
凛は大学で理系の学部に進学し、生物の研究をしていた。しかし、家庭の事情により研究者の道を進むわけにはいかないので、大学院には進学せず、学部卒で就職するつもりだった。
論理的思考に長けている、分析力がある、など、理系学生ならではの強みを生かせそうだと考えて、凛はマーケティング業界を志望することにした。数社から内定をもらい、その中でいちばん凛の性格に合いそうだったのが、この会社だったというわけだ。
正直、この会社にほとんどなんの不満も抱いていない。
圭吾がいなかったら最高だったのに。その点だけがあまりにも惜しかった。
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