第7話 ゼウス祭りの決闘。このことを説くということがない。命とは何か
アテナイに着くと、ニコラウス卿は万事抜かりなく手配した。討論の会場はゼウスの聖域。対論する哲学者はボエトゥスという名で、ニコラウス卿によれば、アリストテレス学派の正統な後継者ということであった。立ち会うのは皇帝とニコラウス卿とボエトゥス博士の弟子数名。ゼウス祭りが明日、つまり6月14日に始まるので、討論は今夜でなければならない。
「それから、もし討論でブラフマネスが負けても、自分に火をつけるなんてことはいけませんよ。今のローマでそんな野蛮なことはあってはなりません。もし彼が負けたら、通事どの、あなたは彼を説得して一緒にインドに帰らなければなりません。討論だけであれば、ゼウス祭りの一環として悪くないと思ったので、私は段取りしたのですから」
ニコラウス卿はこのように言うと、忙しいらしく私の返事も待たずに去ってしまった。私は約束をしなくて済んだことに安堵した。どうして私にシャルマンジーを説得することなどできるだろう。
「ニコラウス卿はなんと言っていたね」
シャルマンジーは食を絶ってからもう7日が経っていた。よろめきつつ寝台から起きてきて言ったのである。
「今夜討論を行うそうです。もし負けても自分に火をつけてはいけません、とのことです」
「まあ、褒められたことではないな」
「先生、教えてください。バールクッチャを出るときから、生きて帰らないおつもりだったのですか」
「いいや、何も考えてはおらんかったよ。皆に奉仕したいとは考えたがな」
「そうでしたか、すみません」
「だいたい儂はヤヴァナとの討論に勝つつもりでおるがな。皇帝は約束を破る男ではなかろう」
「ではなぜ食を絶たれたのですか」
「それは、負けた場合の備えに決まっておろう。大きな腹を抱えて焼け死ぬなど、バラモンらしくないではないか」
シャルマンジーは力なくしかし楽しげに笑った。
「先生、私笑えませんよ」
私は涙が止まらなくなった。シャルマンジーは私を抱擁して赤ん坊をあやすように背中を叩いたものである。
ゼウスの聖域はアクロポリスの丘の北側にあって、東側には牛たちが牧舎に囲われていた。ゼウス祭りでは毎年この牛を聖域で犠牲にするという。私たちが切妻屋根の美しい石門をくぐると、すでに準備は整っていた。四方にかがり火が焚かれ、夜空に煙の柱が立ち上っていた。皇帝とニコラウス卿、5人の哲学者たち。私にはシャルマンジーの討論相手が誰なのかすぐにわかった。哲学者たちのうち、ひとりシャルマンジーと同じくらい年老いた、落ち着いた様子の人がいたからである。ボエトゥス博士に違いない。
「ブラフマネス、ゼウス祭りによくぞ参加してくださいました。ローマ市民を代表してアウグストゥスがお礼を申し上げます」
いつどこで覚えたものか、皇帝はシャルマンジーを合掌して拝した。
「これはご丁寧に。私こそ、古式の祭祀に参加できて光栄です」
シャルマンジーと私は皇帝を合掌して拝した。
「若輩ながら、私が討論の裁定をさせていただきます。討論が長引いてあのかがり火が消えそうになった場合、いずれが勝者か、私が判定するのです。もちろん、いずれかが降参と宣言すればそこで終わりです。これを承認していただけますか」
「承認します」
「ありがとうございます。こちらがボエトゥス博士です」
ボエトゥス博士が進み出てシャルマンジーを合掌して拝した。シャルマンジーも同じようにしたが、互いに一言も発しない。
「それでは、どちらから質問をすることにしましょう。ブラフマネスはインドからのお客様ですから、私たちの敬意を表するために、ブラフマネスから質問していただきましょうか」
「いいえ、ボエトゥス博士から質問していただいてもよろしいですか」
「そうですか。いいですか、ボエトゥス博士」
「いいでしょう」
ようやくボエトゥス博士が言葉を発した。冷徹無比の人、と私はこの人を見た。
「それではブラフマネス、お尋ねします。インドでも存在について研究していると聞きます。宇宙は存在しているか? などと尋ねることはしません。きっと存在しているでしょう。ご覧の通り、空と星々があります。火があります。私たちがいます。ですが存在がこのようないろいろな形態を取ることについては深淵な謎があります。そもそも形態とは何なのか? 存在はいかなる仕組みと理由とによって諸々の形態を取るのか? といった謎です。そこでまず教えてください。形態とは存在の変化相のことですか?」
「そうは思いません」
「何か別のものだと思うのですか?」
「何か別のものだとは思いません」
「それでは、何であると思うのですか?」
「何であるとは思いません」
「そうすると、何であるとは思わないと思うのですね?」
「何であると思わないとは思いません」
「そうしますと、何であると思わないとは思わないと思うのですね?」
「何であると思わないとは思わないとは思いません」
皆がざわめいた。無理もない。ボエトゥス博士は白いひげをしごいた。
「いやはや、弱りましたな。ギリシアでもこの手の詭弁術を使う人がいますが、インドにも同じものがあるとは。確かにエポケー(*)を用いれば、討論に負けることはないでしょう。ですがそうすることで、私たちが何かを得ることができますかな? 何も得ることができなくてそれで善いと? もしも何も主張しないのが善いとすると、私たちは誰もが生まれてから死ぬまで沈黙しているのが善い、ということになるのですか?」
*エポケー 停止。判断の停止。同意の保留。ピュロン主義者が用いた方法。インドにおける類似の――ピュロンよりも古い――方法についてはスリランカのジャヤティリケが再構築して詳説していた(Jayatilleke1963)が、最近インドのチャクラヴァルティが再評価した(Anish Chakravarty2022)。
Ajñānavāda's influence on Mahāvīra’s Anekāntavāda | Anish Chakravarty | The BrainX Project
https://www.youtube.com/watch?v=FcUxAhZE6G8
Lecture on THE DIALECTICAL METHOD OF SAÑJAYA BELATTHIPUTTA | Dr Anish Chakravarty
https://www.youtube.com/watch?v=20QK1hG10NU
こちらは在家仏教徒(?)との質疑があり、アジュニャーナ派の今日における意義について、論文にはないチャクラヴァルティの観点が聞けるのが面白い。
「ははは」
シャルマンジーは何日も食を絶っているとは思えない快活さで笑った。
「何、戯れです。平に平に。つまりこう言いたかったのです。このことを説く、ということが私にはないのです(*)」
*このことを説く、ということが私にはないのです 「このことを説く、ということが私にはありません。事物に対する執着を見て、偏見における弊害を見て、固執せず、省察して、内心の安らぎを私は見ました」(Suttanipata.837)
「詳しく教えてください」
「わかりました。ある教師が生徒に、私は真理を知っています。これがその真理です、と言ったとしましょう。もし生徒がその場で、そうかこれが真理なのか、きっとそうなのだろうとそれを受け入れたら? これでは生徒は教師の奴隷の如きです。またその生徒は自分でよくよく考えて確かめ、納得したわけはないので、教師の説の原理にのみ固執して、他者の説の粗を探したり、攻撃したり、自説――教師の説ですが――を誇ったり、そうしたことになりがちではないですかな。では生徒は、先生はそう思われるのですね、私は私でこのことをよく考えて確かめ、納得したいので今は同意しません、と言うべきでしょうか。しかしこの教師は、自分が真理を知っている、これが真理である、と言っているわけですから、この生徒の態度を容認しないかもしれません。この生徒は他の生徒よりも劣っていると烙印し、侮辱するかもしれません。そもそも、知っていると思う人とは、高慢になりがちです。我こそは全てを知る者なるぞよ、およそなすべきこととなすべきでないことについては我が裁決に従え、と言わんばかりの人の、なんと多いことか。彼らは称賛されたくてうずうずしていますから、集会に突入します。そして他者を見るなり、自分より劣ったところがないかを探します。相手より自分が優れているところがないか懸命に探します。そして互いに相手を愚者と呼び合い、罵倒し合います。ある人が、これだ、私は優れた発見をした、と思ったとしましょう。すると今度は人に話して、称賛してもらいたいという気持ちが生じるものです。自分が他の人よりも優れていることを確かめたくて。他の人も同じような次第となったら? こうして人々は互いに罵倒し合っているのです。これらの弊害を見たので、私は見解を掴んでいた手を放しました。そうして私は内心の安らぎを見ました。ですから、このことを説く、ということが私にはないのです」
ボエトゥス博士はもうぐうの音も出ないという様子であった。ニコラウス卿をちらちら見ては反論を探しているようだったが、何も言えない。
「ですがボエトゥス博士、私はあなたが敬虔な方だということは理解しています。宇宙の姿を完璧に説明しさえすれば、私たちはすなわち宇宙なのだから、私たちが何者なのか、何をすれば善いのかがわかるはずだ、より善く生きたい、という敬虔な動機から、あなたは先の質問をされたのでは? しかし完璧さというものは難しいものです(*)」
*完璧さというものは難しいものです 「三十幾年か、マラルメは完璧という観念の証人ないし殉教者であった」ポール・ヴァレリー『私は時折マラルメに語った』
「私はマラルメがさっぱりわからない」レフ・トルストイ『芸術とは何か』
「それに、私たちについてお知りになりたいのでしたら、そんな迂遠な道を辿らずに、手っ取り早く、私たちとは、命とは何か、と問うのはいかがでしょうか。今度は私はお答えするとしましょう」
「いいでしょう、では問います。命とは何ですか」
「命とは火です」
私たちはかがり火の火を見た。火が宇宙を温め、煙が宇宙に舞い飛び、虚空に消えるのを見た。そうして宇宙が、星々が動いているのを見た。
ボエトゥス博士が口を開いた。参りました、と言うと私は思った。
「違います、火は命ではありません」
突然ニコラウス卿が言った。
「控えよ、ニコラウス」
地中海のライオンが吠えた。ニコラウス卿はびくっと怯えて身を縮めた。
「陛下、善いのです。真理を支持する人たちの間においては、誰もが思ったことを思ったように言っても善いのです。ニコラウス卿、続けてください」
シャルマンジーは促したが、ニコラウス卿は皇帝の威厳に圧倒されてもはや一語も発しえない。
「お弟子の皆さんはいかがですか。意見があればどうぞおっしゃってください」
「私は意見があります」
ひとりの青年が進み出た。
「どうぞ」
「もしも命が火だとすれば、私たちは水を浴びれば死んでしまうということになります。魚は死んでいるが泳ぎ回っていることになります。従ってあなたの主張は誤っています」
子供じみた反論であった。シャルマンジーであれば冗談を交えて子供をあやすように切り返すだろうと思った。
「なるほど、その通りですな。これはしたり。いや、参りました」
しかしシャルマンジーはこのように言ったのである。
「陛下、ご覧の通り私は敗れました。私は陛下との約束を果たさなければなりません。明日はそこの牛たちを供物として供儀を行うと聞いています。いかがですか、牛たちの代わりに、私を供物としていただけませんか。牛たちに慈悲を。私はあなた方の神を喜ばせてみせましょう」
皆絶句。しかしやがて皇帝は言った。
「わかりました。明日、私たちは牛を殺しません。明日の準備のことは私が請け負います。ブラフマネスは安らかにお休みください」
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