第5話 アンティオキア。王とは天愛喜見たるべし
私たちがセレウキアの港に着いて埠頭に降りると、ローマ人たちの兵隊が音楽を鳴らして出迎えてくれた。皇帝の使者だという品の良い中年の男が、ニコラウスと名乗った。この人がユダヤの顧問で皇帝の古い友人だということは、アレクサンドリアではよく知られていた。
「インドの皆さま、ローマへようこそ。皇帝から歓迎の気持ちを伝えるよう承って参りました」
「ありがとうございます。ローマの皆さんの壮健をお祝いいたします」
これはブータジーの言葉を私が訳して言ったものである。
「皇帝がお待ちです。さあ、私たちについてきてください」
ニコラウス卿は牛車を用意してくれていたので、私たちは皇帝への贈答品を船から積み替え、パンディア人たちも牛車に乗った。ニコラウス卿は馬も一頭用意していた。
「代表の方はこれに乗ってください」
私たちの代表とは、すなわちバラモンのシャルマンジーのことである。しかしシャルマンジーはひとりで馬になど乗れないから、またも私が同乗することとなった。アンティオキアまでの道中、シャルマンジーが私に言った。
「君、ひとつ誓いを立ててくれないかね」
「どんな誓いですか」
「ヤヴァナたちの前では、君は自分の言葉を発さない、という誓いだ」
私がそのような立場にないことは承知していた。誓いを立てたが、後で私はこのことを後悔することになったのである。
アンティオキアのフォルム(集会広場)に着くと、兵団の音楽とともに儀礼が始まって、ニコラウス卿に先導されて皇帝が騎馬でやって来た。
威風凛々とはこの人のことを言うのだと私は思った。ヴァースデーヴァさながらという姿であった。皇帝はシャルマンジーの姿を見るとその前で下馬して言った。
「ローマ皇帝アウグストゥスがインドの皆さんを祝福します。ようこそおいでくださいました」
シャルマンジーは皇帝に合掌して言った(言うまでもないが以下実際には私がギリシア語に訳して言ったのである)。
「陛下、お会いできて光栄です。私はこの使節の代表ですが、ご覧のとおり私は聖職者」
シャルマンジーは首に巻いた聖糸に目をやった。果たしてこれで伝わるものかと思ったが、あにはからんや皇帝はうなづいたものである。
「言わばお飾りです。ですから実務のことはこちらのブータとお話しいただきたい。よろしいですかな」
「ええ、構いませんとも、ブラフマネス」
それでブータジーが進み出て、挨拶、贈り物の目録の読み上げ...綿布、胡椒、シナモン、とっておきのシーナイ産の絹織物...王の親書の読み上げ...それから砦のような建物に場所を移して交易の取り決めという話になったが、ここでニコラウス卿がブータジーと話し合う形になった。皇帝も同席していたが、彼は沈黙して聞いているだけであった。
「それでは以上ですので、私たちはそろそろ失礼しようと思います」
私は安堵の気持ちでブータジーのこの言葉を訳したが、そのときシャルマンジーが突然次のことを言ったのである。
「陛下、パルティアは、どうされるおつもりですかな」
私は誓いを立てていたので、ただギリシア語でそれを言うほかない。
「なんですって?」
ローマのヴァースデーヴァはさっと顔色を変えて言った。ニコラス卿が表情を一変させてシャルマンジーを睨みつけたのも私ははっきり見た。
「陛下がここに来られたのは、パルティアを攻める準備のためと聞きました。陛下はアルメニアを平定したので、次はパルティアと戦うのだと。本当ですか」
私は恐れおののきつつそれを言った。皇帝はついに椅子から立ち上がった。
「ブラフマネス、慎みなさい。あなた方には関係のないことです」
地中海のライオンは吠えた。ブータジーはもはや凍りついていた。
「いいえ」
「どうした通事どの、よく聞き取れぬ。さあ気張ってブラフマネスが言ったことを教えてください」
獅子吼する無敵の帝王は私を励ました。
「それはですね」
しかしそのせいで私の声はますます小さくなったのだった。私は思わず横のシャルマンジーを見た。すると彼はにんまり笑って私の心に勇気の息吹を吹き込んだ。
「私たちは全ての命が相互に繋がっていると考えています。これが私たちの敬虔性です。ですからパルティア人たちやローマ人たちが戦争で苦しむことは私たちと関係があるのです。陛下がパルティアを平定したら次はインドに戦争を仕掛けることを心配しているとは考えないでください。私は暴力について論じているのです。陛下はすでにシリアとユダヤ、アルメニアを平定されました。パルティア人たちの方からレヴァントを越えてローマに攻め込むことはもうないと思います」
「陛下、ここは私が」
ニコラウス卿が皇帝を座らせて話し始めた。
「ブラフマネス、あなたが敬虔な方であることはわかりました。ですがパルティア人はローマの鷲を奪い多くのローマ人を捕えて奴隷にしました。陛下はローマの皇帝として汚辱をすすがなければなりません。これが陛下の国家への敬虔なのです」
ローマがパルティアに敗れ鷲印の軍旗を奪われたことは聞いていた。ローマ人たちが軍旗をほとんど神聖なものと考えていることも。
「ニコラウス卿、あなたがユダヤの顧問ということは知っています。ユダヤが自国の利益のためにローマとパルティアの戦争を望み、そうなるように働くことが卿にとっての国家への敬虔だということも」
これらのことは私がシャルマンジーに吹き込んだことであった。アレクサンドリアの抜け目ない商人は政治情勢に耳を澄ませているものである。ニコラウス卿はと言えば、いまや顔を赤くして怒っていた。
「滅相もない。ユダヤはローマであり私は僭越ながら陛下の友です」
「そうでしたか。これは失礼。いずれにしても、私の論点とは関係のないことでした。いま言ったことは取り消させてください。私の論点は、暴力とその果報なのでした。ニコラウス卿、陛下と話してもいいでしょうかな」
シャルマンジーはと言えば、変わらずにこやかに話していた。
「どうぞ」
しぶしぶといった調子でニコラウス卿は譲った。
「陛下、軍旗を返してもらったらどうですか。陛下はパルティアの王子を虜にしているでしょう。このことはパルティア人にとっても汚辱なのでは? 軍旗と交換にパルティアの王子を返してはいかがか」
「そんなことはできません。そんなことをしては私の皇帝としての威信は地に落ちてしまいます」
「ローマでは戦争で多くの人を殺し苦しめる王は、威信が高まるのですか? それが王の国家への敬虔なのですか? そうだとすると、王の国家への敬虔とは、命への不敬虔ということになります。インドでは戦争を慎み慈しみの心を以て人々に奉仕する王は、威信が高まります。インドではこのような王はデーヴァナンプリヤ・プリヤダルシ(*)と呼ばれて尊敬されます。ですからインドでは王の国家への敬虔は命への敬虔と同じものです。そして私は敬虔とはローマにおいてもインドにおいても世界のいずこにおいても同じものであると主張します」
*デーヴァナンプリヤ・プリヤダルシ Devãnampriya(神々に愛される) Priyadarshi(慈悲の目で見る人).
「デーヴァナンプリヤ・プリヤダルシ王の灌頂8年に、カリンガが征服されました。15万の人々が移送され、10万の人々が殺され、さらに幾倍かの人々が死にました。それからデーヴァナンプリヤは熱心な法の実修、法に対する愛慕、法の啓蒙を行いました。これはデーヴァナンプリヤのカリンガ征服についての悔恨によるものです」(アショーカ王14章摩崖法勅第13章)
「ブラフマネス、これは哲学の問題ではありません。政治の問題なのです」
「そうかもしれませんが、そうでないかもしれません。パルティアを平定すれば人々が陛下を称賛するかもしれません。ローマの富と栄光は増大するかもしれません。しかしこの思惟によれば次はゲルマニアと戦争するということになるのではないですか。ゲルマニアを平定したら、次はバクトリアでしょうか。インドでしょうか。いったい地の果てまで征服すると、人々はようやくそこで至福を得るのでしょうか。いったい私たちが至福を得るのは、富と栄光に依ってなのでしょうか。政治とは富と栄光を得る方法であり、私たちの至福とはまさにそれによって得られると陛下は主張するのですか」
「ですからブラフマネス、私は哲学者ではありません。あなたと討論することはできません。パンディアとの交易のことは好く図らうと約束します。さあ、インドへ帰る支度をしてください」
「いいえ、私はこの使節団の代表でありインドの代表です。インドでは全ての命に奉仕する人がバラモンと呼ばれます。ですから私は陛下がパルティアと和睦すると約束してくださるまで帰ることができません」
「ブラフマネス、発言してもいいですか」
ニコラウス卿が言った。
「もちろんです、どうぞ」
「続きはギリシアの哲学者と討論していただくのはどうですか。あなたは哲学者ですが、私たちはそうではないのです。ローマであなたと討論できるのは、アテナイの哲学者だけだと思います」
「それは私の望むところです。陛下はこれを承認されますか」
「いいでしょう」
「ですが陛下、約束してください。もし私がギリシアの哲学者と討論して勝ったなら、パルティアと和睦すると」
「ではあなたが討論に敗れたら、あなたはどうすると約束されるのですか」
「私が敗れたなら、私は自分の体に火をつけて焼きましょう」
一堂沈黙した。しばらくして皇帝が言った。
「わかりました。そこまでのお覚悟なのでしたら、あなたが討論に勝ったならパルティアと和睦すると私は約束します」
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