第3話 アレクサンドリア。敬虔とは何か。ソクラテスはなぜ脱獄しなかったのか
コプトスでの船への積み替えは、いつでも楽しいものだった。ナイル川とコプトスの景観は郷里を連想させたし、船は私の家であるからだ。アレクサンドリアまではほぼ川任せでよく、私とシャルマンジーは川辺の風情をのんびり楽しんだが、パンディア人たちはナイルがどこまで続くのかをいぶかしみ、永遠に続くことはないという保証を何度も私に求めた。無理もないことであった。かく言う私も初めてアレクサンドリアへ行った時にはこのような思いをしたのである。
アレクサンドリアでは私は忙しく立ち回らねばならなかった。まず積荷の関税の査定を受けるが、パンディア人たちは一切頼れないのだから、役人たちの相手は全て私。関税を支払ったら、積荷をエジプト人やギリシア人たちに売る。ここでは値段の交渉ができるが、それも私の仕事。そういうわけで、できることなら毎日通いたかったのだが、ムセイオンにはあまり行くことができなかった。いかにも、私は慌てていた。白状するが、私のギリシア語は商売の必要上ギリシア商人たちから学んだものに過ぎなかった。ダルシャナ(哲学)やダルマ(真理を支持する。敬虔性)の議論など到底できるとは思えなかった。頭が裂けるなどということは迷信に過ぎないと思うようになっていた――シャルマンジーが否定してくれた――が、シャルマンジーに善くないことがあってはならないとだけ考えていたのである。
ある日、シャルマンジーが自分もムセイオンに行きたいと言い出した。私に止められるはずもない。シャルマンジーを連れてムセイオンへ行くと、ギリシア人の門衛は私とは一語も交わさず、シャルマンジーを一目見るなり、
「ブラフマネス、ムセイオンへようこそ」
とうやうやしく門を開いた。私はいつも心づけを支払っていたのだから、私のシャルマンジーへの畏敬の念はいよいよ強まった次第である。
私はシャルマンジーに読んで聞かせたい本があった。プラトンの『エウテュプロン』がそれ。私はこれを前の日に読んだのであった。司書に頼んで出してもらったが、この司書も本をうやうやしく両手で持って私でなくシャルマンジーに差し出したから驚いたことであった。
「先生、この本は面白いんですよ。ダルマとは何かについての議論です。ヤヴァナにとってのダルマがどういうものかを知ることができると思います」
「なんだって? さあ、一刻も早く儂に読んで聞かせてくれたまえ」
それで私たちは中庭に座って陽光を浴びながら、『エウテュプロン』を読んだ。読み終えるとシャルマンジーは大いに笑ったものである。
「これは愉快じゃな。いささか俗っぽいが、洒落が利いとるぶん、かろうじて品を保っておる。いやこのソグダテムという賢者の敬虔さ(ダルマニス)がこの本に宿っているからかもしれぬな」
「ソクラテスです」
「それで君はどう思うね。敬虔(ダルマ)とは、そして不敬虔(アダルマ)とは、どのようなものであると君は主張するね(*)」
*敬虔(ダルマ)とは、そして不敬虔(アダルマ)とは、どのようなものであると君は主張するね 「だから今、ゼウスに誓って、君が先ほど明確に知っていると断言してくれたことを、どうか言ってもらいたいのだ。殺人についても他のことについても、敬神(エウセベイア)とは、そして不敬神(アセベイア)とは、どのようなものであると君は主張するのか」(エウテュプロン-敬虔について. 5,C-D)
プラトンは敬神(エウセベイア)、不敬神(アセベイア、敬虔(ホシオン)、不敬虔(アノシオン)と言い分けていたが、私はこれを同義と見てダルマ、アダルマとしておいた(*)。
*ダルマ、アダルマとしておいた 今日の宗教という語には宗派の意と敬虔性の意とが混交してはなはだ不便だが、アショーカ王の碑文ではこのふたつを区別している(アショーカ王14章摩崖法勅 第12章,13章)。そしてカンダハールの二言語碑文ではダルマ(法。敬虔性)にエウセベイアの語を当てている。プラトンの『エウテュプロン』では法的な文脈では「エウセベイアeusebeia(敬神)」「アセベイアasebeia(不敬神)」を用い、より日常的な文脈では「ホシオンhosion(敬虔)」「アノシオンanosion(不敬虔)」を用いている。今日インド文化圏ではReligionの訳語にDharmaを当てる。インドにおいては日本や欧米と異なり敬虔な人が多いので、これで差し支えない。インドではダルマとは真理や正義などとも同義であり、従って宗派の違いに関わらず尊敬すべきものであり、いんちきとかそれを信じるお人良し、偽善というような意味合いを認める人が少ないからである。
「それは先生、敬虔とは真理を支持し保つこと、不敬虔とは真理を遠ざけ破壊することと私たちは教わっていますし、私もそのように主張します」
「それではいったい、敬虔なものは敬虔なものであるから真理に愛されるのか、それとも真理に愛されるから敬虔なものであるのか(*)」
(*)...敬虔なものであるのか 「いったい、敬虔なものは敬虔なものであるから神々に愛されるのか、それとも神々に愛されるから敬虔なものであるのか」(エウテュプロン-敬虔について. 10A)
「えーとですね、真理を愛するとき、その人は敬虔となるのです。内なる夜叉の声(*)に従う敬虔な人を見つけるや、真理はその人に激しく迫り来るのです。従いまして、敬虔なものは敬虔なものであるから真理に愛されるのです」
*内なる夜叉の声 ガーンディがしばしば言及した「内なる声」は「夜叉(ヤッカ)の声」としてインドに伝統的なものである。プラトンによるソクラテスが強調し、起訴の罪状のひとつにもなった「ダイモーンの声」とは何であるか、インド人には煩瑣な解説を要しない。
「私によく起こるあの予言的な声、ダイモーン的なものの声は、これまでのあらゆる時において、もし私が何かを正しくない仕方でなそうとする場合には、いつもとても頻繁に現れ、とても些細なことについても反対しました」(ソクラテスの弁明. 40A)
「きっとそうじゃな。つまり、この賢者は不敬虔の罪において無罪、ということになったのであろうな。どうやら、ヤヴァナとはなかなか話せる連中のようだ」
「それが、ソクラテスは裁判で有罪となって、毒を飲まされて死んだということです」
私はプラトンの『ソクラテスの弁明』も『クリトン』も『パイドン』も読んだのであった。
「なんだって? するとヤヴァナたちは、この賢者を無実の罪で殺したということではないか」
「ええ、そのようです」
「そのようって君、ヤヴァナはなんて野蛮で不敬虔な連中なんだ」
「ですが先生、野蛮で不敬虔な人はバーラットにだって嫌ってほどいますよ。私はヤヴァナの商人や役人たちと付き合ってきましたが、敬虔な人にもたくさん出会いましたし、彼らの習俗も学びました。私たちと共通する点がたくさんあります。例えば彼らには昔から火と動物による供犠の信仰があります。私はジャイナですから動物の供犠を承認することはできませんが」
「そうか、ヤヴァナは供犠を奉ずるか。そういうことか」
シャルマンジーはしきりに納得した様子だったが、そのとき私にはシャルマンジーが何を了解したものかわからなかったのであった。
もっとも、シャルマンジーの「野蛮で不敬虔な連中」という言葉は、私の心をさいなむのに充分であった。ローマの皇帝(*)の噂は当然聞いていた。大将軍だった大叔父の後を継いで以来地中海中をまたにかけて戦うこと十余度、一度も後れを取らず、諸人畏怖して「地中海のライオン」「獅子吼する無敵の帝王」と呼ぶ豪勇の覇王であると。ムセイオンでアラム語とギリシア語の対訳辞書を買えたし、哲学書や歴史書を多少読むこともできたが、私のような平凡な商人がそんな英傑を前にして言葉を発することなどできるのだろうか、何か悪いことが起こるのではないかと思わずにはいられなかったのである。
*ローマの皇帝 アウグストゥス(63BC–AD14)のこと。
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