第2話 コプトスへのラクダ隊商。生きることは善いことか
皆でベレニケのイシス神殿(*)にお参りし、私がラクダの隊商を手配して、コプトスに向かった。
*ベレニケのイシス神殿 ベレニケは紅海西岸の交易都市。インド洋交易のローマ側の玄関港として栄えた(『エリュトラー海周遊記』に頻発する「ベルニーケー(ベレニケの俗語形)から見て」などの記述から、この書の著者はベレニケ人と思われる)が、6世紀以降放棄され埋没した。遺構(23.54°N 35.28°E)は1818年に発見されたが、最近、考古学史上稀な大発見がなされ、遅くとも3世紀にはインド人コミュニティが存在したことが確実となった。イシス神殿から発見された仏像やサンクスリット語の碑文などについては下記を参照されたい。
スミソニアン誌の記事
https://www.smithsonianmag.com/history/hidden-ancient-egyptian-port-reveals-180984485/
PCMA Seminar: Interesting Indic Finds from Berenike by Shailendra Bhandare
https://www.youtube.com/watch?v=6ku1YH1scQ8
私はシャルマンジーがラクダから落ちないように一緒に乗って支えていた。その時シャルマンジーと話したことははっきり覚えている。私は砂塵と酷暑にうんざりしていた。
「君はジャイナなのに、こんな動物に乗っても善いのかね」
「善いと思います。先生が落ちて死んでしまうよりも、ずっと善いと思います」
ラクダの隊商については私たちジャイナ教徒の中でも議論があった。交易品をベレニケで売ってしまえば善い、という意見があったが、ラクダを使役するのが私たちではなくエジプト人になるだけではないかと言う人たちもいた。そもそも私たちは昔から牛を使役してきたではないかと言う人たちもいた。しかし実のところ問題は利潤であった。関税はアレクサンドリアで査定され徴収されるのだから、ベレニケで荷を売ると、関税の査定額は買い手の言い値となる。すなわち相当に吹っ掛けられてしまうのである。結局バールクッチャで導師を招いて議論し、ラクダの使役は非暴力の誓いに反しないということになった。ラクダの中には人間と一緒に働くことを楽しんでいる様子のものもいると私が意見したことが導師の心を多少動かしたかもしれない。私は長年の経験でラクダと信頼関係を築いている隊商業者を見抜けるようになっていた。
「これはこれは、ありがとう。しかしね君、死とは悪いことなのだろうか。いや、生きることは善いことなのだろうか」
「先生、そんな不敬なことを言ってはいけませんよ」
「なぜかね?」
「よろしい、ご説明いたしましょう。私は自分が全身で生きることを望んでいると常に感じます。腹が減れば全力で食べ物を求め、喉が渇けば全力で水を求めます。怪我をすれば全力で治療します。私に限らずおよそ全ての生き物はこのようなものであり、輪廻の輪の中ですべての命は必死に生きているのです。このような途方もない努力が善いものでないはずがありません。従って暴力は悪であると言えるのです」
「ほほ、立派な説法じゃな。すると君は魂や輪廻が存在すると信じているのかね」
「信じていますとも。私はジャイナであってチャールヴァーカ(*)なんかではないのですから」
*チャールヴァーカ 唯物論者。自然主義者。
「儂は文字通りには信じとらんがな」
「先生、あなたはチャールヴァーカだったのですか」
「いいや、儂はバラモンでありパンディットじゃ」
「おっしゃっていることがわかりません」
「バールクッチャはバラモンにとってのダルマもジャイナにとってのダルマも無我説の徒にとってのダルマもアージーヴィカにとってのダルマもチャールヴァーカにとってのダルマもヤヴァナにとってのダルマも共存する平和の町。そうではなかったかな」
「それはそうですが、そういう話ではありません」
「まあ捨て置け。それよりジャイナも無我説の徒も家を出て行乞すべきことを説いておるな」
「説いています」
「ジャイナも無我説の徒も出家者の不淫を律しておるな」
「律しております。それは先生たちバラモンも同じだと聞いています」
私は息子が生まれてから妻と導師に不淫の誓いを立てていた。いたずらに子を成すことは善いことではないとは思っていた。
「儂らは三期に分けておるがな。まあよかろう。しかし考えてみれば奇妙ではないかな? もし全ての人が家を出て行乞したら? 誰が食べ物を施すのか? 全ての人が不淫を守ったら? 儂らはただちに滅びてしまうのではないかな?」
「先生、それは極端な見解です。ある点から見ればそうですが、ある点から見ればそうではありません」
「おっと、ジャイナの多面説が出たな」
「出ましたとも。全ての人が家を出るなんてこと、ありそうにありません。だからこそ家を出ることが説かれてきたというだけです」
「不淫はどうかな? もし淫が出家であれ在家であれ悪だとすれば、やはり儂らは滅びるのが善いということになりはせんかな? どんなに気を付けようとも、儂らが大地に武器を振るい、他者に武器を振るい、およそ全ての命に武器を振るい、自分にすら武器を振るうものだとすれば」
「そんな、私は父や母の優しさを忘れることができません。妻や息子を全力で愛しています。もしもこれらが善くないことだとすると、すなわち生きることは善くないことだということになります。そんなことは絶対に信じられませんし、信じたくもありません。私は大地に武器を振るいたくありません。他者に武器を振るいたくありません。およそ全ての命に武器を振るいたくありません。自分にすら武器を振るいたくありません。そのために気を付けていたいと思います」
私がこう言うと、シャルマンジーは私を振り向いて、優しく微笑んで言ったのであった。
「ふむ、それが善いな」
それからというもの私には砂塵も、酷暑も、何ほどのものでもなかったのである。
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