⑧ 紙コップ
人のいない台所。暖房は当然切ってある。それでも中に入ると石油ストーブ特有の柔らかい暖かさが残っていて、ほっとしながら一番に見たのが流し台の上。小さなカゴの中に早速目当てのひとつが見つかった。
柚子だ。
柚子が木になっているうちは、ばあちゃんはいつもひとつふたつ手元近くに置いておき、毎日のように料理に使っている。台所に長く置くと傷むのが早いからと言って、多く取った時は残りは玄関の隅に置いていたはずだったが、今日入って来た時は見当たらなかった。
次に床下収納を見る。床下収納はふたつあり、どちらも梅干しや果実酒の瓶でいっぱいだ。いちいち瓶を取り出さなくても分かるよう、中身と作った日付が記されたシールが蓋に貼ってある。
おかげですぐ去年の日付の梅酒を探し出せた。まだ飲んでいないのか、結構重い。やや薄めの琥珀色の液体が入った瓶底に、シワの寄った梅の山。持ち上げた勢いで中でごろりごろりと転がった。
後は紙コップがあればいいのだが、この家で見た覚えがない。流し台の上の棚と食器棚を覗いてみたけれど見つけられず、すぐ諦めた。代わりに小皿を出してきて、梅の実をお玉で瓶からいくつかすくい、皿に乗せようとしたところで、
「何してるの?」
突然の声。ぎょっとしてお玉から梅の実を落としそうになった。振り返ると台所の入り口に母が立っている。
「……これ、入れたらどうかと思って、」
平静を装いながら、まずは柚子を掴んで見せた。
「おれのこと気にしてくれてたみたいだし」
「……ああ、」
ため息のような声と共に母が頷く。「灯台下暗し」
このひと何言い出すんだか、と若干引きつつ、
「それからこれ」
梅の入ったお玉を持ち直して、母に向かって突き出した。
「液体じゃなければ零れないでしょ」
「……ああ、」
母の目がでかでかと見開かれたと同時に、
「さすが受験生」
って、その言い草はどうかと思う。うっかり笑ってしまった。笑ったまま言った。
「でも、紙コップは見つけられなかった」
「それはなさそうな気がするけど、なければ買ってくればいいだけだし」
とにかく早くおばあちゃんに見せて、あるか聞いてみよう、きっと喜ぶよ。そう言って、母も笑った。
*
「あるよ」
ばあちゃんの言葉におれと母は目を丸くした。
「ちょっと待ってて」
おれと同じ言葉を口にしたばあちゃんは、「よっこらしょ」と言いながら立ち上がり、入れ替わりで部屋を出て行った。
小皿に乗せた梅酒の梅から甘い匂いがうっすら漂う。おかげで少しだけ空気が潤った気になる。とは言え喉はカラカラ、何か飲もうと立ち上がりかけた所にばあちゃんが戻ってきた。その手にはたしかに紙コップ。おれに差し出しながらばあちゃんが言った。
「これ、洋が使うって言うんで、じいちゃんが買ってきた残り」
「え? 何それ」
受け取るもまるで覚えがない。焦る。
「保育園の時に糸電話作って遊んだの、覚えてない?」
「……ああ、そう言えばあったあった」
しばらくして、ぱちんと音を立てて母が手を合わせた。
「庭にばあちゃんがいてもじいちゃんは家の中にいたままで話ができるよ、やり方教えてあげるから紙コップ持ってきて、ってあなたに言われたって。後でお父さんから聞かされて、笑ってたんだった」
「なんで笑うんだよ」
何と言うか、よく分からないけど不本意だ。
「だって、ねぇ?」
母がばあちゃんの顔を見る。
「お父さん、そもそもろくに話なんてしないのに」
……そうだった。口の重いじいちゃんに糸電話。それは。
「なのに、そんなひとが『洋に言われた』って、表情も変えずに淡々と説明するんだもの。それだけだって十分珍しいのに、わざわざスーパーまでひとりで紙コップ買いに行って、それであなたが糸電話作って、『はい、使って』って渡してきたから、とにかく話はしたって言うんだけど、それがまた、」
ね? と言ってばあちゃんの顔を見る母の目尻はすっかり下がりきっている。
「その時って今くらいだったのかな、覚えてないけどとにかく冬で、それも凄く寒かったのだけは確かで、」
そんな寒い日にじいちゃんは、おれに言われるまま窓を開けて、庭にいるばあちゃんと糸電話で話をしたのだそうだ。
「台所みたいに石油ストーブ使ってると、どっちにしたって定期的に換気しなきゃならないでしょう? だからまあ窓を開けるのは仕方がないんだけど、この部屋はエアコンだけだからそもそも換気の必要はないし、石油ストーブと違って側にいれば暖かいなんてことなくて、窓開けたら即冷えてくるのに、あなたが言ったからってあのお父さんが、ふつうに喋っても聞こえる距離をわざわざ糸電話でお母さんと喋ってるって、それもう想像しただけで」
母の声がわずかに震えた。ちらっと見ると、下がりきった目尻を指で拭っている。笑っているのか泣いているのか、それともどっちもなのか。
「それでお父さん、糸電話で何て言ったんだっけ?」
妙に明るい声で「覚えてる?」と尋ねる母に、ばあちゃんは頷いた。
「柚子。柚子が落ちてるぞ、って」
話を聞いていても、おれは何ひとつ思い出せなかった。黙って視線を手元に落とせば、白かっただろう紙コップは手の中でうっすらと黄ばんで見える。
何個も重なった紙コップをそのまま耳に当てた。半分ほど残っていた包装のセロファンが、耳元でかさかさと乾いた音を立てる。耳から離してひとつ取り外し、ペットボトルのオレンジジュースを注いだ。飲もうとしていたのを思い出したのだ。
注いだジュースをひと息に飲み干すと、乾ききっていた喉が少しだけ潤い、空になった紙コップが手の中に残った。もう一杯飲もうかと思ったが、やっぱり止めた。使った紙コップは捨てずにペットボトルの横に並べておいた。
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