⑦ 梅花


 少しして、今度は居間の雨戸が開いた。開けたのは多分ばあちゃんだろう。この寒いのに、雨戸と一緒に開けた窓はそのまま開きっ放し。ばあちゃんは中でどうしているのか、その後、何も動かず何の音もしてこない。おれはおれでばあちゃんがしてくれた話に気を取られているうちに、何となく家に戻るタイミングを失っていた。

 寒さに身震いしそうになった頃、ばあちゃんが居間の窓から顔を見せた。大きく身を乗り出すと、庭に立ったままのおれを見て、

「洋、」

 ばあちゃんの指が、今度は居間の正面、梅の木を指している。

「梅が咲いてるから、折ってきて」

 さっきちらっと見た時には、花なんてまだなさそうだった。ばあちゃんの見間違いじゃないか。そう思いながらも黙って梅の木の前に立った。

 わずか数輪、それでも確かに花が咲いていた。蝋燭の灯のような、小さな白。

 棘も葉もない細い茶色の枝を長めに手折り、窓辺に立つばあちゃんに渡した。黙って受け取ったばあちゃんは、おれに背を向けるとじいちゃんの枕元に座り、小さな背を丸めてじいちゃんに向かって何か話しかけているようだった。そうしてその胸の上に、今おれが渡したばかりの梅の枝をそっと乗せた。

 その姿を見ていたらどうしてだろう、おれは猛烈に腹が立ってきた。と同時に猛烈に腹が空いてきた。

「母さん」

 声を大きくして呼ぶ。

「何?」

 いつの間にか居間の入り口に母が立っている。

「お腹空いた」

「はいはい。豚汁でよければすぐ温めるけど、」

「何でもいい。だけどあの鍋で食べたい。一人用の鍋」

「ええ?」

 母の声が嫌そうに響く。それを無視して、おれは今度はばあちゃんに向かって言った。

「ばあちゃん、脚立、どこ?」

 じいちゃんの枕元でばあちゃんが顔を上げておれを見る。

「脚立、」

 おれが繰り返すと、少し考えた様子で、「家の裏。畳んで置いてある」と返してきた。

「裏だね」

 念押しした言葉に、ばあちゃんは黙って頷いた。おれはすぐに家の裏に回った。



 裏にはたしかに脚立があって、それを持っておれは柚子の木の下に戻った。広げて上に立ち、手を伸ばせば、さっきは届かなかった実に手が触れた。

 細くて青い枝が実の重みで緩くしなっている。ねじ切るようにして実を取ると、枝は空に向かって弾んだ。そうやって目に付く実は全部取った。最後のひとつを取って脚立から降り、空を仰ぐ。これでもう下に落ちる柚子はないはずだった。

 冬晴れ。雲ひとつない青空。

 最後に取った実の表面には、黒い斑点が浮いていた。

 この実をばあちゃんはどっちに使うんだろう。そう思いながら、爪で黒い斑点を引っ掻く。すぐさま柚子の香りが立ち上がり、同時にさっき棘が刺さった所に果汁が触れたようで、わずかに沁みた。

 じいちゃんのことをおれは何も知らない。

 やっぱりじいちゃんは「少し、悪いひと」だと、もう血は止まった指先を舐めながらおれは思った。



*



 今日はじいちゃんの葬式で、だから学校は休むのだが、休んでも欠席にはならない。『忌引き』というのだそうだ。もちろん忌引きなんてこれが初めてだ。

 葬式と言っても、いわゆるふつうの葬式とは違うらしい。ふつうも何も葬式自体出た記憶はないから、何がどう違うのかおれには分からない。母に尋ねると、

「式は一応神式で執り行うんだけど、そもそも葬式って仏式がほとんどで、そこからしてもう少数派になるのよね。それに今回のは正確には直葬って言うらしいんだけど、今、家族葬で、って考えていくと割とこんな形に近くなるみたいで」

「家族葬?」

「うん。一般的なお葬式は、家族以外のひとも来ることを前提にしてる。でもおじいちゃんは年も年だったから、呼ばなきゃいけないようなお付き合いはもうほとんどないみたいで。だったら私たち家族だけでおじいちゃんを送ろうって。それが家族葬。家族以外のひとたちも来るお葬式って言うのは、お通夜があって翌日がお葬式で、ふたつ合わせてお葬式。死んだひととご縁があったひとたちは、そのどちらかまたは両方に参列して、お別れをする。お葬式の後、家族で火葬場に行くのは、どういう形でも同じで、それでおしまい。仏式だとお坊さん、神式だと神主さんが来るくらいで、お葬式の内容はほとんど同じ。家族葬の今回、神主さんには火葬場に来てもらうだけで、家にはお願いしてないんだ」

 そんな風に説明した後、「ってことで、おばあちゃんとふたりでお通夜してくる」なんて、カフェでお茶でもしに行くみたいに軽く言って、母はばあちゃんちに行った。昨日のことだ。そのまま母は泊まって今日を迎えたから、朝食は父とふたり。テレビニュースをBGMにさっさと食べた。

 学校に行かないのに制服を着るのは妙な気分だった。どうせ見ないだろうと思いつつ、気休めに単語帳と熟語帳を上着の右ポケットに入れる。左側にはハンカチとマスク。スマホは尻ポケットに押し込んだ。持ち物はこれで全部。黒のスーツに黒のネクタイ姿の父の運転で、ふたりでばあちゃんちに向かった。


 ばあちゃんちのドアには、やっぱり今日も鍵がかかってなかった。

 それにしてもこういう時は何と言って上がればいいのだろう。戸惑っているおれの横で、父はさっさと靴を脱ぎ、上がり框に立った。

 居間の戸を父が開けると、エアコンがきいた室内は乾燥していて、思わず唾を飲み込んだ。中では喪服を着た母とばあちゃんが、じいちゃんの服や本などを畳の上いっぱいに広げていた。

「おはよう」

 ほぼ同時に声を上げておれたちを見るふたりの顔は、うっすらと笑みを浮かべているけど、どう見てもいつもよりまぶたが腫れぼったい。

「おはよう」と返したおれは、続けて「ご飯食べた?」と尋ねた。何でもいい、何か聞かないと、と理由もなく思ったのだ。

「食べたわよ、もちろん」

 母が苦笑する。「洋は?」

「父さんが目玉焼きとソーセージ焼いてくれたから、それとチーズ乗っけてパン食べた。あとはイチゴとヨーグルト」

「足りなければそこにお菓子があるよ」

 ばあちゃんの目が座卓の上を差し示す。

「大丈夫、大丈夫。それよりおれ、どうすればいい?」

 喋っている間に父の姿は消えていた。廊下から声がする。どうやら電話みたいだ。

 母が棺に目を向けながら言った。

「まずはおじいちゃんにあいさつね」


 おれがじいちゃんの顔を最後に見たのは亡くなった翌日、皆で泊まって家に帰る前だった。その時のじいちゃんは布団に寝かされていた。

 それが今は棺の中だ。棺を見るのも棺の中に入ったひとを見るのもおれにとってこれが初めてで、いつどうやって中に納められたのかももちろん知らない。

 棺の蓋は取り外されていて、中にじいちゃんが横たわっている。床の上の物を踏まないよう気を付けながら近寄り、座った。

 この前と同じように、ばあちゃんがじいちゃんの顔の布を外す。この前見た時と変わらないような、少し顔色が違うような、ともかくじいちゃんの形はそのままに、じいちゃんだったひとがそこにあった。

 そう。どうしてだろう。、ではなく、、と思ってしまった。

 思ってしまったことに驚くと同時に、言いようのない罪悪感を感じて、心の中で「ごめんなさい」と謝った。手を合わせて頭を下げると、逃げるようにすぐにソファに移動した。

「お棺に何入れようか、さっきからお母さんと選んでたところ」

 旅立ちにあたり、あの世でも使えるようにと身の回りの品や好きだったものなどを棺に入れて持たせるのだそうだ。じいちゃんの顔に布を戻してからばあちゃんが説明してくれた。

「これが結構難しくてね。入れられないものもあったりして」

 燃えるもの、例えば布製の服や分厚くない本、手紙や食べ物などはいいけれど、プラスチック製品や眼鏡、筆記用具、革靴などはダメらしい。

「持たせてあげられるのはこれだけだと思うと、服からしてよく着てた服にするか外出用にするか悩んじゃうのよ。囲碁将棋の本だって私たちにはどれがいいんだかさっぱりだし、和菓子はまあいいとして、お酒は缶や瓶はダメで、『入れるなら紙コップに入れてください』って言われたんだけどそれだと零れちゃいそうで、それに紙コップじゃあんまり美味しそうにも思えなくて、だったら入れなくてもいいかなとかそうやって考えだすときりがなくて。だいたい他にもまだ何か入れ忘れてるものがある気がするんだけど、そういうのに限って浮かばないし。洋、あなた何か思いつかない?」

 ばあちゃんから説明を引き継いだ母が、話しながら眉間に皺を寄せている。

「おれは、いつも着てたお気に入りの服がいいんじゃないかと思う」

「うん、それで?」

「本は、決められないんだったら、父さんに頼んじゃえば? あとは……、将棋の駒とか碁石はどうするの?」

「それはもちろん考えたんだけど、全部入れると量があるし、だからといってひとつふたつ入れるのも何かねえ」

「やっぱり駒と碁石は入れないことにする。なくてもきっと大丈夫」

 横からばあちゃんが小声だけれどはっきりと言い切った。「元々そんなに物に執着するひとじゃないから」

「うん、お母さんが言うならそれで、」

 母が頷く。

 ふいに頭に浮かんだものがあった。

「ごめん、ちょっと待ってて」

 返事も待たずに立ち上がると、おれは居間を飛び出した。


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