⑥ 棘
父とおれの分の布団を敷いたのはじいちゃんの部屋だった。母はばあちゃんの部屋でばあちゃんとふたりで寝るそうだ。
じいちゃんの部屋にはほとんど入ったことがなかったから、母とふたりで布団を敷くだけでも「お邪魔します」って感じで妙な緊張感があった。しかも昨夜までこの部屋で寝ていた部屋の主は今、冷たくなって居間に横たわっている。
主を失ったその部屋に今夜ひとりで寝るのは怖いとか怖くないとかそういった話ではなく、もっと全然違った自分でもよく分からない感情が湧いてきてさすがに色々と無理だった気がする。父とふたりで寝ることなんてまずないけれど、今回は一緒で良かったと思った。
歯磨きを済ませ、「おやすみなさい」と挨拶を交わして、ひとりでじいちゃんの部屋に行った。父は「もう少しだけ母さんと話があるから」と言って、まだ居間にいる。
じいちゃんの部屋は玄関横の和室だ。入るとエアコンが効いて暖かくなっていた。部屋の中は見慣れないものだらけで、正直気になるし、ちゃんと見てみたい。だけど今夜見て回るのはじいちゃんに対して何か失礼な気がして、布団の横に眼鏡とスマートフォンを置いてから、敢えて何も目に入れないよう布団の上に大の字になった。
コンタクトを外したおれの目は、眼鏡無しではろくに何も見えない。寝転んだまま出来るストレッチでもしながら今日あったことを頭の中で整理してそれで父を待っていようと思っていたのが、あっという間に寝てしまっていた。
真っ暗だ。右も左も分からないくらい真っ暗だった。自分がどこにいてどうしているのか、一瞬、何も分からなかった。分かったのは、横からいびきが聞こえてきたからだ。隣りで父が寝ている。
そうだった。ここはばあちゃんとじいちゃんの家だった。うちはマンションの5階だから、遮光カーテンを引いていても朝になればそれなりに光が入ってくるけど、一軒家のこの家は雨戸を閉めていると真っ暗だ。
布団の脇に手を伸ばし、眼鏡とスマートフォンを取った。父を起こさないようそろりと部屋を出る。
玄関の明かり取りから朝の光が差し込んでいた。振り返った廊下の奥は、しんと静かで薄暗い。ばあちゃんと母もまだ寝ているようだった。
玄関脇にかけていたダウンジャケットを掴むと鍵を開け、静かに外に出る。
いい天気だった。息を吸い込むと冷たい空気が肺を満たし、からだの隅々にまで流れていく。息を吐きながら伸びをした。完全に目が覚めた。その勢いで庭に出る。
小学生の一頃、それもかなり長い間、毎日のようにこの家の庭にいた時期がある。今となっては家に来ること自体、久しぶり。たまに顔を出しても、生け垣の隙間から覗き込むか家の中から窓越しに眺めるくらいで、庭にまで出ることはすっかりなくなっていた。
玄関脇から庭に回ると、道路に沿ってギンモクセイと他にいくつかの木が生け垣として植えられている。そこから少し中に入った所、じいちゃんの部屋の正面にサルスベリが見える。庭の真ん中には梅。こちらは居間からちょうどよく見える位置だ。一番奥、ばあちゃんの部屋の前では柚子が大きく枝を伸ばしていた。背が高い木はそれくらいで、あとはもう少し低い木が間を埋めるように並んでいる。
おれがこの庭でいつでも確実に名前を言えるのは、この4本だけだ。梅と柚子は実を拾っていたし、サルスベリは幹が正に名前の通りでひと目で分かる。ギンモクセイは、オレンジ色のあのキンモクセイではなく、ギンで白い花というのが珍しくて覚えられた。
他の、例えば花がきれいな木は、咲いている時は分かっても、花が終わった途端、何の木だったか分からなくなる。花が目立たない木は言わずもがなだ。
1月末、木々が葉を落とし花も見えないこの時期、ちょっと考えてみたけれど、やっぱり他の植物の名前は記憶に自信がない。
生け垣を背にして庭を眺める。緑らしい緑は背後のギンモクセイと奥の柚子くらい。昨晩お世話になった柚子の木には、上の方の葉の間に黄色い丸がまだいくつも見え隠れしている。ばあちゃんが脚立に乗っても絶対に届かない、そういう高さだ。
こうやって見ると、柚子の木はずいぶん立派だった。おれだってこの庭にいた頃よりよっぽど背が伸びているが、それは柚子も同じらしい。
音を立てないよう静かに庭を横切り、柚子の木の前に立つ。腕をまっすぐに伸ばしただけで、いくつかの実に手が届いた。手当たり次第もぎ取り、ポケットに押し込む。見上げれば今取ったよりもう少し上に、まだいくつか黄色が見える。これくらいなら脚立に乗らなくても何とか届きそうに思えた。
背伸びして思いっきり腕を伸ばした。思いっきり過ぎて、少しバランスを崩した。からだが前のめりになり、伸ばした腕がガサガサと音を立てながら枝の間に突っ込んでいく。咄嗟に枝を掴んだ瞬間、指先に尖った痛みが走った。
声が出そうになるのを飲み込み、手を離す。慌てたせいで服に枝葉がひっかかり、更に大きな音がした。
ばあちゃんの部屋の前だ。中のふたりを起こしてしまったのではと身を竦めながら見た指先に、血が丸く零れていた。
驚いて木に近寄り、よく見てみれば、そこかしこから棘が出ている。それもかなり立派な棘。
今の今まで柚子の木に棘があることを、おれは知らなかった。血が滲む指先を呆けたようにくわえて舐めていて、ふいに思い出した。昔、柚子の実を「代わりに取ろうか?」とおれが言った時、ばあちゃんが顔をしかめて「考えるだけで怖いからいい」と断ったことを。
断ったのはこの棘のせいだったのかもしれない。いや、きっとそうだ。
実を取ろうとして棘が刺さり、痛みと驚きで体勢を崩した挙げ句、脚立から落ちたらと、そんなことを即座に考えたに違いない。実際、脚立に乗ってもいなかったのに中3にしてこのザマだ。かなり情けない。誰にも見られなくて良かった。
背後でがたがたと音が響いた。
振り返ると、雨戸が開いている。中からばあちゃんが顔を出した。
「おはよう」
見られていた訳でもないのに照れ臭くてつい大きめになったおれの声に、口元をほころばせながら「おはよう」と返してきた。声は小さいが、昨夜より元気そうに見える。ちゃんと寝られたのだろうか。
ばあちゃんの横から顔を覗かせた母が目を丸くしている。
「早く起きたんだね、」
「そうでもないよ、今さっきだよ」
ポケットから柚子を取り出し、開いたばかりの掃き出し窓の縁にひとつひとつ並べて置いた。
「もっと上まで届くと思って手を伸ばしたら棘が刺さって、それで音、立てちゃった。ごめん、起こしたよね?」
顔を上げるとふたり共笑っている。笑いながら母が言う。
「何言ってるの、それより前に起きてたに決まってるでしょう」
「洋、」
笑顔のまま、ばあちゃんはおれの少し後ろの地面を指差している。
「そこ、そこに柚子があるから、拾って」
指の先が示しているのは柚子の木の根元あたり。少し離れた場所にふたつ、実が落ちていた。そう言えば上ばかり見ていて下はちっとも見ていなかった。昔のおれだったらあり得ないことだ。
屈んで拾う。落ちて間もないのか、どちらも傷ひとつなかった。軽く手でこすって土を落としてから、ふたつともばあちゃんに手渡した。
「これだけきれいなら、ゆず茶用だね」
と言って。おれの言葉を聞いたばあちゃんは、ゆっくりと首を横に振った。
「落ちていた実は今年は全部、風呂用」
「え? 何で?」
「おじいちゃんが、そう言ったから」
意味が分からなくて首を傾げた。おれが知っている限り、木から取ろうが拾おうが関係なく、ばあちゃんはきれいな実だったら全てゆず茶にしていた。
「下に落ちたのは縁起が悪いって思ったんだろうね」
何それ。縁起って。ますます意味が分からなくなって、狐につままれたようにばあちゃんの顔を見返すと、ばあちゃんの目が糸のように細くなり、その分、目尻のしわが深くなっていた。
「……受験だから、『落ちる』は」
思わず耳を疑った。だってじいちゃんがおれの受験のことについて何か言ったなんて話は一度だって聞いたことはない。正月に来た時だってじいちゃんはおれに何ひとつ言うでもなく尋ねるでもなかった。いつものようにばあちゃんに何か聞かれた時だけ「ああ、」とか「いや、」だとか言って返すくらいで、後はずっと黙ったままだった。おれのことを気にしてるなんて、それもあのじいちゃんが受験生でもしないようなそんな縁起担ぎみたいなことをしてるだなんて、だから夢にも思っていなかった。
呆気に取られているおれに、ばあちゃんは言った。
「だから、そんなに悪いひとじゃあないんだって」
そうしてばあちゃんは部屋の奥へと姿を消した。
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