⑤ 風呂


 

 父はなかなか戻ってこなかった。その間に母とおれとで部屋を片付け、布団を敷き、寝る支度をした。

 ばあちゃんは湯呑みを片付けてから風呂に入った。

 本来ばあちゃんは結構な長風呂派だったはずだ。それが今夜はいつになく早く上がってきた。髪を洗う気にもならなかったのか、パジャマ姿に乾いた髪だった。

 入れ替わりでおれが入る。

 洗面所で服を脱ぎ風呂場に入ると、ばあちゃんが出たばかりのはずなのにびっくりするくらい寒い。こんなに寒い風呂だったっけと思いながら、かけ湯もそこそこに湯船に飛び込んだ。

 湯船の中には柚子がふたつ浮いていた。どちらも丸のまま。両方共皮に傷が付いていて、少し剥けていて、柑橘特有の香りがした。

 庭の柚子だ。柚子の木には毎年たくさんの実がなり、その実を使ってばあちゃんがゆず茶を手作りしている。作ったゆず茶はいつもおすそ分けしてくれ、冬の我が家に欠かせない飲み物になっている。

 それとは別に、冬至前になると、傷のないきれいな柚子を風呂用にと分けてくれる。柚子の木があるこの家では冬至に限らず、傷などが付いていてゆず茶には使わないような実を、時に風呂に入れていた。

 おれにとっては一ヶ月ほど前の冬至に家のユニットバスで入って以来の柚子湯だった。手に持って匂いを嗅いでいるうちに、少しずつからだが温まってくる。

 考えてみればずいぶん長いことこの家で風呂に入っていなかった。何せ家が近いので、中学生になってからは顔は出しても泊まらなくなっていた。泊まって風呂に入ったのは小学生まで。それも高学年になる頃には家でひとりで留守番もできるようになっていたから、この風呂に最後に入ったのがいつだったかすぐには思い出せない。

 鮮やかな黄色の柚子は、無機質なユニットバスより、天井以外壁から床まで全てタイル貼りのこの風呂場の方が断然似合ってみえる。それにしてもタイルが冷たい。芯から温まってからでないと、湯船から出て洗い場でからだを洗っているだけですぐに冷えてくる。木造平屋のこの家の風呂は、給湯器とカラン以外は50年近く前に建てられた当時と変わっていないはずだった。

 寒くならないうちにと急いでからだを洗って湯船に入り直す。少し温まってから、波立つ湯に上下する柚子ふたつを残して風呂から出た。



 見慣れたパジャマと下着が洗面所の棚の上に置いてあった。コインパーキングに停めてくると出ていったはずの父だが、家まで取りに戻ってくれたらしい。着替えて廊下に出ると、廊下も寒くて慌てて居間に戻る。

 居間ではおれと同じくパジャマ姿の父が、じいちゃんの傍らでグラスを手にしていた。

「父さん、風呂は?」

「家で入ってきた。後はおじいちゃんと酒を飲んで寝るだけだ」

 道理でなかなか戻ってこなかった訳だ。

「何、飲んでるの?」と聞いたら、「おばあちゃんが漬けた梅酒だよ」と返ってきた。


 この家の庭には梅の木もある。柚子と同じくらい実が採れる木だ。その実をばあちゃんがこちらはお酒にし、それをじいちゃんが飲んでいたのだった。ばあちゃんは作るけれど味見程度しか飲まない。お酒が飲めない訳ではないけれど、梅酒を飲むのはもっぱらじいちゃんだった。

 付け加えると、梅の実をばあちゃんはわざわざもいだりはしない。落ちてきた実を拾って梅酒を作っている。なんでそんなことを知っているかというと、ばあちゃんと一緒に梅の実を拾っていたからだ。

 落ちているのは木の下だけかと思っていると意外とそうでもなく、結構遠くに落ちていることもある。離れた所できれいな実を見つけた時はやたらと嬉しくなるし、逆に近くでも穴が開いているのを拾うとハズレを引いたみたいで悔しい。と言いつつ、ふたりで下草をかき分けながら拾うだけでも宝探しみたいで楽しかった。それでも不思議だったから、ばあちゃんに言ったことがある。

「じいちゃんが飲むんだから、じいちゃんに木から取ってもらえばいいのに」と。

 ばあちゃんは笑いながら答えた。

「いいんだよ。木から取るとまだ熟れていないことも多いけど、落ちてきた実はまず大抵が熟れているから。そういう実はすぐに漬かって美味しいお酒になるんだよ」

 全然答えになってないと思ったけど、それ以上は何も言わずに黙っていた。

 事情は柚子も同じで、じいちゃんは実を取るのを手伝ったりはしなかった。柚子は梅と違ってたまにしか落ちてこないから、小柄なばあちゃんは必要になった時だけ小さな脚立を出してきては上って取っていた。それでも届かない分は、落ちるに任せている。

「ばあちゃんの代わりにおれが取ろうか?」と尋ねたことがある。小学校の4年生くらいの時だったと思う。

 ばあちゃんは眉間にしわを寄せながら、「洋が脚立の上で手を伸ばしてる姿を考えるだけで怖くなってくる」と言って、首を大きく横に振った。それからはおれの前では脚立を使わなくなってしまった。

 これだけ何から何までばあちゃんがひとりでしているのに、じいちゃんは何一つ手伝わない。梅の木は居間の前にあって、じいちゃんが居間でテレビを付けている間、おれたちが窓の向こう側で拾ってたって知らん顔だ。

 飲む所を何度か見たことがあるけれど、その時もひとりで黙って飲んでいた。「美味しい」くらい言えばいいと思うのに、それだって聞いたことがない。そういう所もおれがじいちゃんのことを「少し、悪いひと」と思っていた理由のひとつだった。

 グラスを空にした父は、「そろそろ寝ようか、」とおれの顔を見て言った。







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