④ あんまん



 

 部屋の中が急に静かになった。

 今、おれの耳に聞こえてくるのは、おれとばあちゃんのかすかな息遣いとたまにする身動き、その衣擦れの音、あとは壁にかけられた古い時計が時を刻む音だけだ。

 じいちゃんからは何も聞こえてこない。当たり前のことだろうけれど、死んでるひとは喋らないし動かない。咳もため息も、もちろん腹の音もしない。それどころか息もしていない心臓も動いていない、だから正真正銘、何の音もしない。

 そういうひとを今、おれは生まれて初めて目の前にしている。

「もうすぐ受験だっていうのに、ごめんね」

 じいちゃんからおれに目を移したばあちゃんが、申し訳なさそうな顔をした。

「だから。どうしてばあちゃんが謝るんだよ。だいたいそんなことで受験の結果なんか変わんないし」

 言ってから、今の言い方じゃじいちゃんが死んだことを『そんなこと』呼ばわりしてることに気付いて慌てる。

「そんなこと、って、そんなんじゃないから」

 何言ってるんだか自分でもよく分からなくなって焦っていると、ばあちゃんが目を細めて笑った。

「お母さんから聞いたよ。『こっちは男ふたりだから心配要らない』って言ってたって。それで私の心配してくれてたって。ありがとうね」

 ばあちゃんは笑ったまま手を伸ばし、おれの頭をそっと撫ぜた。それはどう考えても小さい子供にするような仕草だったけれど、おれは黙ってされるがままでいた。

 本当は、おれが今、ばあちゃんにされていることを、おれがばあちゃんにした方がいい気がしてた。でなければ代わりの何か。肩を叩くとか、背中を撫ぜるとか、手を繋ぐとか、とにかくそういったこと。

 何一つできなかった。してあげられたらいいと思っているのに、できる気さえしなかった。

 なんでだろう。これが逆にうんと小さい時だったらできてたかもしれない。ばあちゃんに飛びついて胸元に顔をこすりつける。座っているばあちゃんの背中にのしかかかる。手を伸ばす。──いや、小さくてもやっぱりできないか。

 何でできないんだろう。そう思いながら、おれは頭を撫ぜられ続けていた。ばあちゃんは黙ったまま、何度も何度もおれの頭を撫ぜる。


 そう言えば、うちの親はふたり共、あまりからだに触れてこないひとたちだった。手を繋いで出かけたとか、抱きしめられながら褒められたとか、おんぶに抱っこといったような記憶が幼少時から今に至るまでろくにない。そういうことをして欲しいとせがんだ覚えもない。親がしないだけでなく、おれにもからだに触れたい触れられたいという思いが薄いのかもしれない。それともされたことが少ないとそういう思いも浮かばなくなるのだろうか。仕事が忙しいひとたちだから、そもそも一緒に過ごす時間が短いというのもあると思うけど。

 ばあちゃんもそうだった。母がずっと働いている分、おれがばあちゃんと過ごしてきた時間は長い。下手したら親とより長く一緒にいる。それでもやはり触れられた記憶は薄かった。

 入学当初だけ行った学童保育にお迎えに来てくれた帰り道、ふたりで見た二重の虹。庭でばあちゃんの横で土いじりしてたら出てきたデカくて白い何かの幼虫。『お手伝い』とは名ばかりの、ただのつまみ食いだったコロッケ種の味。そういう記憶はたくさんあるのに。


 だからおれが今、ばあちゃんにされていることは、こんな年齢だということを差し引いても、かなり珍しい。でも、不思議と違和感はない。珍しいと思いつつ、それでもごくしぜんに受け入れている自分がいる。あとは、おれがしてあげられたら、とただそれだけだった。

 おれを撫ぜ続けていた手が突然ぴたりと止まった。その手はひざの上に力なく落ちている。目を上げると、そうでなくても小さい肩が一層小さくすぼめられ、顔は俯いていた。ところどころ灰色が混じった白髪が、白っぽい照明の下、余計に白く見える。「ばあちゃん、」と声をかけそうになったおれの後ろで、音を立てて戸が開いた。

「お待たせ」

 お盆を手に、母が戻ってきた。膝をついて畳の上にお盆を置き、おれの横に座る。お盆の上には湯呑みが4つとあんまんがひとつ。湯呑みからは白い湯気が立ち上っている。

 手を伸ばしてあんまんを取った。温かい。半分に割ると、黒い断面からかすかに湯気が上がった。それだけでない。ぷん、と甘く匂う。あんこの匂いだ。

 割った半分を皿の上に戻すと、手元の半分を更に半分にする。その片方を「はい、」とばあちゃんの手に押し付けた。

 俯いていたばあちゃんの顔が上がり、おれを見る。

「甘いの食べたら元気が出るってチビの時のおれに教えてくれたの、ばあちゃんだったよね?」

 ばあちゃんがぎゅっと目を瞑った。瞑った目をぱっと開いて何度か瞬きしてから、両手で包むようにしてあんまんを受け取った。

「……温かいねえ」

「温かいうちに食べなきゃ」

 有言実行、すぐに口へと放り込む。じんわりと温かい甘みが口の中に広がった。つられたようにばあちゃんも頬張る。

「私も、」

 声と共に、母の手が皿の上に伸びる。おれと同じようにあんまんを半分に割って片手分を皿に戻し、残り半分を自分の口に運ぼうとして、母は途中でその手を止めた。

「お父さん、」

 いつも以上によく通る、それこそうたた寝していてもその声を聞いたら慌てて飛び起きてきそうな、そういう声だった。

 呼びかけてからややあって、母は止めていた手をじいちゃんの口元へと動かした。薄く開いたままの口が白い4分の1を飲み込みそうな気がして、おれは目を凝らして見守った。

 もちろんそんなことは起きなかった。じいちゃんの薄く開いた口は動かないまま、しばらくしてあんまんは母の口の中へと消えた。

 そうして、4分の1のあんまんが皿の上に残された。

 残されたあんまんを見て、おれは唐突に思った。


 これが『死』だ。

 

 4人の人間がいる。ひとつのあんまんを4等分して全員で分ける。

 母が口元に運んだのに、じいちゃんは食べない。食べられない。だって死んでるから。

 食べて、とおれが渡して、ばあちゃんは食べた。食べられた。だって生きてるから。


 残された4分の1のあんまんをおれは掴み、自分の口に押し込んだ。空になった手で今度は湯呑みを持ち、お茶を流し込む。お茶の温度は少しは下がったようだけれど、それでも一気に飲み干すにはまだ少しばかり熱くて、おれの口の中でお茶とあんまんとが入り交じりながら暴れる。

 おれが湯呑みを手にしたのを見て、母は思い出したようにばあちゃんに湯呑みを手渡した。それからじいちゃんの横にひとつ置き、残ったひとつを自分の手に収めた。


 ──ばあちゃんが食べないんだったら甘いもの好きだったじいちゃんに分ける。

 おれは家でそう言ってきたけれど、じいちゃんは母にあんまんを口元まで運んでもらっても、横にお茶を置かれても、動かないままだ。それが『死』なのだと、おれは初めての『死』を前にして、そう思った。

 そうしておれは今になってようやく、じいちゃんに手を伸ばした。

 おれの指先に触れたじいちゃんの頬は、まだ少し熱めのお茶よりも最後に残ったあんまんよりも温かくなく、というよりは、冷たかった。きっと夜の帰り道の空気と同じくらい冷たかった。

 そして固かった。




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