③ 顔



 じいちゃんばあちゃんの家は古い住宅地の外れ、私道の突き当たりにある。自転車で15分かそこらの距離は、車だとエアコンが効く間もない。その分、ひざに抱えた保冷バッグが温かかった。

 車から降りてみれば、玄関ポーチの明かりは灯ったまま、鍵もかかっていなかった。


「ただいま」

 靴を脱ぎながら母が声をかける。返事はなく、中はしんと静かだ。廊下の床をぎしぎし鳴らしながら歩く母の後ろを、父とおれが無言で続く。

「お母さん?」

 台所の引き戸を母が横に開けると、母の肩越しにばあちゃんの丸まった背中が流しの前に立っているのが見えた。くるりと振り返った顔が、おれたちを見て小さく微笑む。

「ああ、真佐子、」

「ただいま。遅くなってごめん。何してたの?」

「お父さんにお茶でも入れようかと思って、」

「だったら私がする」

「いいの、いいの。それより洋も来てくれたんだね。ありがとう。はじめさんもこんな時間に何度もすみません」

「何を言ってるんですか、お義母さん。本当だったらぼくら皆で泊まっていくところですよ」

「何で泊まっていかないの?」

 おれの言葉に母がそっと顔を逸らせたのを目の端で捉えてしまった。

「え? もしかしておれのせい?」

「せい、って言うなよ。これでも母さん、散々考えて決めたんだから」

 取りなすように父が言う。

「だったらおれにも聞いて欲しい」

「聞かれたらおまえ、絶対に『泊まる』って言うだろ?」

「当然」

「だから母さんは悩んだんじゃないか」

 そんなことも分からないのか、という顔をされた。

「あのさ。気遣ってくれるのはありがたいよ? けど入試までまだ2週間あるんだから、一晩くらい泊まったって問題ないって。だいたい母さんだってついさっき、『気は遣わなくていい』って言ったじゃないか。それ、おれも同じだから。それよりもっとおれのこと信用してよ。できないことはできないってちゃんと言うし、無理する気もないし、それに勉強だけじゃなくって生活習慣だってちゃんとしてるつもりなんだけど」

 ぐい、と胸を張ってみせたものの、正直言うと今のはほとんどはったり。普段のおれだったらこんな芝居がかった言い方、絶対にできない。塾と学校の両方で受験の為の模擬面接をしたばかりで、その経験を生かしてみてるだけ。これ以上は無理ってくらい頑張ったんだけど、どうだろう。

「一人息子がここまで言ってるんだから、いいんじゃないか?」

 どうやら父の採点では合格水準のようだ。ホッとするおれに気付くことなく父は母の肩をひと叩きすると、ばあちゃんに向かって頭を下げた。

「すみません。やっぱり皆で泊まらせてください」

「私は嬉しいけど、治さんも洋も泊まる支度なんてしてきてないでしょう?」

「そんなの要らないよ。車なんだから乗っちゃえばいいだけなんだし」

 おれの言葉にばあちゃんが、あ、と声を上げた。

「さすがに一晩中、車を置いておくのは、」

「分かってます。近くのコインパーキングにでも停めてきます」

 何か入り用な物があればコンビニに寄って買ってきますが? と尋ねた父に、ばあちゃんは小さく首を横に振った。



*



 畳に合わせた座面の低いソファ。そこに座ったじいちゃんがお茶を飲みながらテレビを見たり将棋や碁を並べていたその同じ部屋に、今は布団が敷かれ、白い花が飾られ、見慣れない物が並べられた台が置かれ、ろうそくが灯されている。いつもはない物があるだけでも部屋は狭苦しく、落ち着かない。それなのに。

 じいちゃんらしきひとが布団に寝かされている。らしき、と断ったのは、白い布が上にかけられ顔が見えないからだ。

「お父さん。洋ですよ」

 枕元に座ったばあちゃんが、白い布をそっと外した。


 じいちゃんが目を瞑っていた。


 こんな顔をしてるのか。いや、してたのか。ひと目見て、そう思った。

 灰色の長い眉毛、くっきりと浮き出た頬骨、そのふたつの間にある閉じられたまぶた。くすんだ肌の上にシミが点々と浮いてみえる。紫がかった色した唇の間にはわずかだけれども隙間が出来ていて、それが何だか泣いているようにも笑っているようにも見えて、おれは二、三度瞬きした。

「眠ってるみたいでしょ?」

 横で母が言ったが、そもそもじいちゃんの寝顔をおれは見たことがない気がする。この家に泊まっても一緒に寝るのはばあちゃんとで、じいちゃんと布団を並べたことはなかった。

 そうでなくてもおれはひとの顔を見るのが正直、苦手だ。話す時も何となく目を逸らせてしまう。じいちゃんとはろくに喋りもしなかったから、それこそ寝顔じゃなくたってちゃんと見てた気がしなかった。こう言ったらなんだけど、死んでしまった今が、今までで一番ちゃんとじいちゃんの顔を見ていると思う。

「苦しそうじゃなくって良かった」

 ああ、そういう意味か。それで言えば確かにどこか柔らかい顔をしている。痛そうにも辛そうにも見えない。それはやっぱり「良かった」と言っていいことのようにおれにも思えた。

 おれを間に挟んで座ったばあちゃんと母が、今日起きたことをお互いに確かめ合うようにぽつぽつと話す。おれはふたりの間で黙ってそれを聞いている。その間に父は車をコインパーキングに停めに行った。父は会社から直接ここに来て、じいちゃんの顔を見てから歩いてうちまで帰り、車で母を迎えにきたのだそうだ。要するにじいちゃんにまだ会っていなかったのはおれだけだった。


 じいちゃんは急に心臓が止まってそのまま、だったそうだ。心臓マッサージをしながら救急車で病院に搬送、病院でも色々と手を尽くしてくれたけれど意識が戻ることなく、とそういう話だった。

「お昼ご飯が最後の食事になってしまって、」

 じいちゃんの顔を見ながら、誰に言うともなくばあちゃんが呟く。

「こんなことならもっと違うものを作ればよかった」

「お昼、何だったの?」

 おれの問いかけに、ばあちゃんはぽつりと言った。

「鍋焼きうどん」

「え? それ、おれ、大好き」

「でしょう? お母さんの鍋焼きうどん、お父さんも大のお気に入りだったじゃない。鍋焼きうどん用にってお父さん、わざわざどこかでひとり用の鍋、四人分買ってきたの、あれ、私が小学校の何年生くらいの時だったっけ?」

 初めて聞く話におれは驚いていた。じいちゃんが鍋を四つも抱え込んでいる姿が想像できなかったから。

「多分、3年とか4年とか? それにしてもよくそんなこと覚えてたねえ」

「だってあれ、よりによって真夏の一番暑い時期だったでしょう?」

「……そう? そうだった?」

 ばあちゃんがぼんやりと首を傾げた所で突然、ぐぅ、とおれの腹が鳴った。途端にばあちゃんの目が大きくなる。

「お腹空いてるの?」

「違うと思うよ。ね? 洋?」

「……あー。うん。でも、まだあんまん食べてない」

「わ、ほんとだ。すっかり忘れてた」

 すぐ温めてくる。ついでにさっき入れかけてたお茶も。そう言って、母が立ち上がった。ばあちゃんも一緒に立とうとするのを、「いいから」と押し止める。

「お母さんはお父さんの横にいてあげて。洋と一緒に」

 いつもの母らしい押しの強さでひと息に言うと、母は台所へと消えた。


 


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