② 月
いつ家に行っても、ばあちゃんは手やからだを動かして何かしら働いている。何もせずただ座っているだけの所なんて見た覚えがない。
じいちゃんは違う。
おれが知っているじいちゃんは、新聞や本を読んだり将棋や囲碁のテレビを見ながら盤に駒や石を並べたりで、居間に座って自分ひとりゆっくり過ごしている。そのくせお茶のひとつも入れない。湯呑みが空になる頃を見計らってばあちゃんが注いでも、「ありがとう」も言わない。当たり前みたいな顔して黙って飲んでいる。
小さい頃からおれは母親に、「ありがとう」はきちんと言葉にして相手に伝えるように、と言われて育ってきた。うるさいことはほとんど言わない母だが、それだけは耳にたこができるくらい言い聞かされてきた。
「助けてもらったり、ものをもらったり、とにかくひとから何かしてもらったら、すぐに『ありがとう』を言うこと。どんなに小さい声でも相手の顔を見られなくても構わない。照れ臭くても恥ずかしくても悔しくてもとにかく言うのよ。言われて嫌な気持ちになるひとはいないし、何より言った方が心が軽くなるんだから」
母に言わせると「『ありがとう』って言葉は無意識に口から出てくるくらいで丁度いい」のだそうだ。うちでは父も母と同じように「ありがとう」を頻繁に口にする。それを聞いているからか、何も言わないじいちゃんの姿を見ていると、やっぱり言った方がいいと思う。もしかしたら母はじいちゃんを反面教師にしたのかもしれないと思うくらいだ。
もちろん母が自分の親──要するにじいちゃんばあちゃんのことだ──を悪く言うことなど聞いたことはない。愚痴めいた言葉も耳にした覚えはない。
そもそも昔から母はふたりの話をほとんどしない。だからと言って仲が悪い訳ではないと思う。何しろじいちゃんばあちゃんの家からうちは、自転車で15分かそこらしか離れていない。
だから正社員としてフルタイムで働き続けている母がじいちゃんばあちゃんの家に『泊まるけれど、毎日帰って来る』ことも可能になるのだ。
*
塾には行った。じいちゃんばあちゃんの家にはまだ誰も戻ってないし、このまま家にひとりでいても意味はない。受験生は受験生らしく過ごすのが一番だ。
冷凍たこ焼きを温めてつまんでから自転車でいつも通り出かけ、いつも通り帰ってきた。一月末の夜は底冷えするような寒さで、その分、ペダルを漕ぐ足に力が入る。
帰り道の途中にあるキャベツ畑辺りは街灯もろくにない。その割に今夜は足元がやけに明るく感じられて、見上げてみれば月が丸かった。もしかしたら満月なのかもしれない。
少しの間、足を止めて眺めた。ウサギが餅をついているのがはっきり見えた。そう言えば正月、「餅を食べる時には気をつけて」とお約束のようなニュースがテレビで流れていたけれど、その声を背にじいちゃんはおれと同じ数の餅をぺろりと平らげていた。考えてみれば、あれからまだ一月も経っていない。
玄関を開けると、両親の靴が並んでいた。
「ただいま」とおれが言うより先に、母が廊下の奥のドアから顔を覗かせて「おかえり、」と口にした。
「ただいま」
「寒かったでしょ。豚汁温めてあるよ」
ということは明日か明後日はカレーだ。で、その次の日までもてば、夕食はカレーうどんになる。カレーうどん食べたいなあと思いながら手を洗う。目を上げると、鏡に映った顔は鼻の頭が赤かった。
豚汁は2回お代わりした。おかずは他に、サラダとスーパーの餃子。おれが食べ終わると、母は
寸胴をコンロの上に置いてから、母はおれを見て言った。
「あんまん買ってきたけど食べる?」
「食べる。だけど風呂入ってからがいい」
言ってから、あ、と思った。
「母さんは入った?」
「ううん、あっちで入る。じゃないと湯冷めしそうだから」
腫れぼったい顔して見える母の、本当の所は多分そういうことじゃないはずだ。
「……やっぱり今、食べる」
「もしかして何か気を遣ってる? だったらそんなことしなくても大丈夫だからね?」
「気なんか遣ってないって。それより早く温めて」
「はいはい、」
ソファで持ち帰ってきた仕事をしている父に、「あなたも食べる?」と母は声をかけた。父は黙って首を横に振るとタブレットをソファに置き、おれたちがいる食卓にまで来て座った。
「洋、」
「何?」
「この後、母さんのことを車で送っていくから、おまえも一緒に行くぞ」
「ああ、いいのよ。洋は無理しないで。疲れてたら明日でも全然、」
「何言ってんの、母さん。そんなの行くに決まってる。車に乗ってくだけなのに疲れる訳ないし」
だいたいおれが一番若いんだから。そう付け足したら、父が口元を緩ませた。
「だな。確かにおまえが一番若い」
「あー、だったらやっぱあんまん温めないで。向こうに持ってってばあちゃんと食べる」
「……食べるかしら」
母が目を伏せ、呟いた。
「ばあちゃんが食べないんだったら、じいちゃんに一口分ける。じいちゃんも甘いの好きだし」
「そうと決まれば早く行こう。支度は済んでるんだよな?」
「え? あ、ええ。タッパーをバッグに入れればそれで」
「洋は? そのままで行けるのか?」
「うん。大丈夫」
「じゃあ、おれは正面に車、回してる」
食卓に置いていた車のキーを掴むと父はすぐに立ち上がり、部屋から出て行った。母は慌ててタッパーを入れる保冷バッグを棚から出している。
「いいよ、タッパーはおれが入れて運ぶ。母さんは他にも荷物あるんでしょ。そっち持ってきなよ」
「ああ、うん、それは大丈夫。先に車に積んでおいたから。それよりあんまん、」
「だからこっちはおれに任せて。母さんはほら、エアコンとか電気とか色々」
「あなたたちはすぐ戻ってくるんだから付けっ放しでもいいかと思ったんだけど、」
「ダメだよ。消してかないと」
いつもは省エネだ何だと口うるさい母と、その母に「だらしない」と呆れられてばかりのおれとが逆転している。我ながら変な冗談みたいだと思った。
中身を零さないよう気を付けて保冷バッグを持ちながら玄関を出る。鍵をかける母を待つ間、マンション5階の外廊下から空を見上げると、月がさっきより高い位置で光っているのが目に入った。
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