洋(中学3年)

① 電話


 

 誰もいない家に帰ってきてものの10分かそこらで、ルルルルル、と音がした。

 電話だ。家の電話が鳴ってる。


 おれも含めて家族3人、使うのは皆スマートフォンばかりで、家電なんて今時めったに鳴らない。だから一瞬、何の音か分からなかった。

 すぐに思い出して慌てて電話機の前まで行ったはいいけど、そう言えばまず最初、何と言って出ればいいのか、そんなことから戸惑ってしまうと受話器に手を伸ばせなくなる。コール音が10もいくつか過ぎた所で、おそるおそる電話口に出た。


「……はい、」

「ああ、良かった。ひろし、帰って来たのね、」

 受話器から聞こえてきたのは母親の声だった。良かった、と思ったのは、だからおれも同じだった。ほっとして、「うん」と頷く。

「いつ帰ってきたの?」

「今さっき」

「そう、」


 ほーーっと長いため息がかすかに聞こえて、その後、言葉も音も途切れた。どうしたのだろうと耳をそばだてた所に、

ひろし、ごめんね。ちょっといきなりな話で悪いんだけど。落ち着いて聞いて欲しいの、」

 母と話しているはずが、どこか改まったような聞き慣れない声に変わっている。妙にまどろっこしい話し方も、日頃てきぱきと話す母らしくない。どうにも不思議な感じがして、黙って続きを待っていると、


「おじいちゃんが亡くなったの」


 耳に飛び込んできた言葉の意味が理解できなかった。頭の中で呪文か何かのように繰り返す。『なくなる』。『無くなる』。『亡くなる』。そこでようやく頭の配線が繋がった。


「……どうしたの?」


 口にしながら、間抜けなことを言っていると自分でも分かっていた。それでもそんな言葉しか咄嗟に出てこなかった。自分の知っている誰かが死ぬだなんてこれがおれにとって初めてのことだったのだ。

「急なことだったから、」

 おれの言葉など耳に入ってもいないように母は続ける。

「お昼を食べた後しばらくして、具合が悪くなったらしくて。おばあちゃんから電話が入ったの。『おじいちゃんの様子が変だから救急車呼んだ』って。搬送先の病院が分かってから急いで行ったんだけど、意識が戻らないまま、」


 続く言葉を待って息を詰める。唾を飲み込むことも躊躇われた。


「……もう少ししたらおじいちゃん連れて、おばあちゃんと家に帰るから」

 少しあって聞こえてきた母の言葉はひとり言みたいだった。おれは思わず問い返していた。

「家って?」

「……ああ、ごめん。おじいちゃんち、ね」

 我に返ったような母の声。

「洋はいつも通り塾に行って大丈夫。塾から帰ってくるまでにパパが家に戻ってくることになってる。行く気になれなかったらもちろん休んでも構わない」

 聞き慣れた声が少し早口になって説明を続ける。

「これからしばらくの間、私は向こうに泊まるけど、毎日必ず家には帰るし」

「そんな心配要らないって。こっちは男ふたりなんだから。それよりばあちゃんの方がよっぽど心配だよ」

「男ふたり、か。そうね、ほんとね」

 少しだけ、母の話す口調がゆっくりになって聞こえた。

「ありがとう。今の洋の言葉、おばあちゃんに伝えておく」





 受話器を置いた途端、からだから力が抜けた。気付かないうちに受話器を握りしめていたらしい。強く押し当てていたようで、右耳も少し痺れている。ふぅ、と息を吐く。それで気が付いた。のどがからからだった。


 学校から帰ってくるとまずは手洗いとうがいを欠かさないのは、高校受験を目前に控えているからだ。その後に冷蔵庫の麦茶を飲むことも習慣にしている。今日ももちろんいつも通りそうしていた。

 ともかく台所に戻って2杯目の麦茶を注ぎ、ひと息に飲み干す。さっきはたしかに焦げ茶っぽい味がしてたはずが、今は何の味もしない。冷たいということしか分からない。それでも少し人心地ついた。


 今日、帰ってきてからしたことは他に、荷物を置いてトイレに行き、服を着替えて片付けたまで。まだ自分のスマートフォンは手にしていなかった。

 見ると、2件の着信履歴があった。どちらも母からだ。メッセージアプリにも電話で話したのと同じことが記されていた。アプリ上の文字が、事実を目に見える形にしておれに突き付けてくる。


 ──おじいちゃんが亡くなりました


 じいちゃんはたしか80歳。持病もなく頭もしっかりしていて、食事にも運動にも気を配り健康そのもの、周囲はもとより当人だって「死ぬ」だなんて思ってもいなかっただろう。母が電話口で繰り返した通り、急なことだった。


 じいちゃんとばあちゃんの娘がおれの母だ。子供はもうひとり、息子──母にとっては弟、おれにとっては叔父に当たるひと──がいるが、ずっと海外暮らしとかでほぼ音信不通、会った記憶もおれにはない。結婚もしていないらしい。ということは一人っ子のおれがふたりにとって唯一の孫ということになる。父方の祖父母はおれが物心つく前に亡くなっているので、おれにとっても祖父母はふたりだけだ。


 ばあちゃんのことは好きだ。ばあちゃんもおれのことを可愛がってくれている。ただそれは、ふつうのひとが考えるような『孫を可愛がる』と言うのとはちょっと違うように思う。

 例えば祖父母と一緒にテーマパークや温泉に行ったなんて話は休み明けの学校で耳にするけれど、そういうのには行きたがらないし、それが映画や観劇、コンサートの類いであっても同じことだ。ばあちゃんとそういう外出をしたことはほとんどなく、ばあちゃんと会うのはいつだってばあちゃんちで、うちにすらめったに来ない。


 もちろんばあちゃんはひとりしかいないから他の誰かと比べられる訳ではないし、世間一般的な『孫を可愛がる』がどんなものかおれがよく知っている訳でもない。あくまで自分の周囲で見聞きしたことから考えての話だ。

 それでも何と言えばいいのだろう、黙って隣りにいても気詰まりにならない、いや、黙って隣りにいるのが当たり前、そういう仲、と言えば少しは分かってもらえるだろうか。ひとと話をするのがあまり得意じゃないおれにとって、自然体で黙っていられるのはそれだけで特別というか安心できるというか、ともかくおれにとってそんなひとはばあちゃんの他にいない。


 だからといって、ばあちゃんもおれと同じように口が重い訳ではない。口が重いのはじいちゃんの方だ。ばあちゃんが話しかけても、大抵、「うん」とか「ああ」とか「いや、」とか、とにかく短い言葉しか返ってこない。横で聞いていて、よくあれでじいちゃんのことが分かるなあと感心するくらいだ。


「そういう所は少し似てるのかも」


 ばあちゃんに笑って言われたことがあった。たしか小学校の2年だか3年だったか。結構ショックだった。


「そんなに悪いひとじゃあないよ?」


 おれの顔を見て、目を細めてそう付け足したから、よっぽど嫌そうな顔してたんだろう。


「……悪いひとだと思った訳じゃないけど、」


 ばつが悪くて下を向いて小声でぼそぼそと言ったら、頭を撫ぜられた。ゆっくりと何度も何度も撫ぜるその手が温かったことを覚えている。それで余計、顔を上げられなくなってしまったことも。

 本当は、少しだけ「悪いひと」だと思っていた。



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