第2話 夜空のかけら

 十八歳の誕生日の一ヶ月前、再びプラネタリウムの日がやってきた。アリーナの前でレモン色のチュニックを着たミオの手を取り、分厚い扉をくぐると、いつも通り母が待っていた。母は座席から立ち上がると、

「今日は三人でオルタナのナビゲートを聴くことになっています。イタリアの風景と星空を散歩するのよ」と、言って席に着いた。僕たちの住んでいるクレモナ島はイタリアのクレモナという小さな町にちなんで名付けられている。

 没入モードに切り替わった。僕たちは地球が近くに見える宇宙空間に浮いていた。そして、いきなり地球の大気圏に突入した。北半球のイタリア半島に急降下し、気がつくと夕暮れの石畳の上にいた。

「ここはフィレンツェのドゥオモ広場です」と、オルタナの解説が始まった。

 夕暮れの中、どこを向いても沢山の観光客が広場を行き交っている。陽が落ち、人影が無くなると星空が広がっている。建物の黒い影で星空がくっきりと切り取られている。星座はこの島で見るのと変わらないが、星の輝きがまるで宝石のように強い。

「古代の人々は、地球の大地は真っ平らな平面で空には太陽や月や星が動き回る大きな天蓋がかかっていると信じていました。平らな大地の果てからは海の水が流れ落ち、大地の下を三頭の巨象が支え、その下には巨大な亀が支えているというのが代表的な地球平面説です」

地球平面説のイラストが映し出されると、ミオがクスクス笑った。

「何で象と亀なの?」ミオが訊いた。

「昔の人の想像力の賜です」と、オルタナが答えた。再び、フィレンツェの星空が現れる。「それでは、大聖堂の中に入ってみましょう」

僕たちは大聖堂の壁をすり抜けて中に入った。そして三人で天井に向かって昇っていく。

「天井に描かれているフレスコ画は、最後の審判です」描かれている人の数に圧倒されて、僕とミオは溜息をついた。

「フィレンツェの天文学者トスカネッリはカトリック教会の教義に反して、地球球体説を唱えました。地球上の緯度によって星の高さが異なること等から、地球球体説は古代ギリシャ時代から考えられていましたが、誰もが認める決定的な証拠は有りませんでした。そして、トスカネッリの説を信じたコロンブスが大西洋を西回りに航海してみたら、辿り着いたのはインドではなく、アメリカ大陸だったのです。トスカネッリは地球の直径を小さく見積もるという計算ミスをしていたのです」と、オルタナが解説した。

「へー、計算ミスで……」僕は驚いた。

急に無数の流れ星が縦横無尽に夜空を走り始めた。

「その後、マゼランの地球一周航海で、地球球体説は完全に証明されましたが……」

突然、オルタナの声がぷっつりと切れて、サイレンの警報音が鳴り響いた。

「地震です! 地震です!」強い口調でオルタナが叫んだ。

「何、何?」ミオが僕にしがみ付いた。

クレモナ島は地震が起きても揺れない筈だが……。

「没入モード解除します」と、オルタナが言うとアリーナの床と座席、壁と入り口が現れた。

 突然、クラッとした感覚の後、僕とミオは座席から空中に放り出され、直ぐに床に叩きつけられた。痛みをこらえて立ち上がろうとした途端に激しい横揺れが襲ってきた。

「キャー」と、ミオの悲鳴。突然、辺りは真っ暗になり、何も見えなくなった。揺れはまだ続いている。

「カイ、どこ?」ミオの声がした。

「ここだよ、ミオ」僕はそう答えると、ミオの声がした方向に手を伸ばした。柔らかい温かい体が手に触れた。

「お母さんは?」ミオが震える声で言った。

「母さんー」僕は声を張り上げたが、返事は無かった。

「お母さん、怪我したんじゃ? どこかにいる筈」ミオが泣きそうな声で言った。

真っ暗でどこを見ても母を探す手がかりは無かった。

「何が起きたの?」暗闇の中、ミオが震えながら僕に聞いた。

「地震だよ。でも、クレモナ島がこんなに揺れるのは大きな津波が起きたに違いない。震源は近くだったのかも」

「津波? 島は大丈夫かしら? 沈まない?」とミオが聞いた。

「大丈夫。アルキメデスの原理で絶対に沈まない」と、僕は答えた。

「お母さんー」ミオが叫ぶと同時に、辺りが薄ぼんやりと見えてきた。やっと、非常灯が点いたようだった。僕らは立ち上がると、アリーナの座席を眺めた。端から端まで見ても、誰もいない。通路をくまなく歩いて回り、座席の影も調べたが何も見つからなかった。

「お母さんー」ミオが再び叫んだが、誰もいなかった。足下がまだ揺れているのが判った。「緊急プロセスが稼働中です。必要な医療が最優先で提供されます。電力はあと五分後に完全復旧します」と、オルタナの声が響いた。

「母さんは?」僕はオルタナに聞いてみた。

「無事です」僕とミオは、薄暗いアリーナの座席に座りながら、ほっと胸をなで下ろした。

「お怪我はありませんか?」と、オルタナの声。

「ないと思う」僕は少々痛む右肘を、ミオはお尻をさすった。

照明がパッと点いて明るくなった。

「電力が復活しました。プラネタリウム再起動します」と、オルタナが告げた。

一旦、照明が暗くなりプラネタリウムのスタートアップ画面が動き出した。僕とミオは、母がどこに行ったのか心配しながら、座席に座った。スタートアップ画面が頭上に広がっていく。これから登場する色々な星座が早回しで目の前を通り過ぎていく。

 パチッ。何かが切れるような音がした。

 音のした頭上を見ると、夜空の一角に細く光る亀裂が入った。そして、亀裂から黒い小さなかけらが下に落ちて行く。それは、夜空のかけらだった。

「何だ、これは?」僕はオルタナに訊いたつもりだったが、返事は無かった。卵の殻がパラパラと零れ落ちるように次々とかけらが落ちて行き、どんどん周囲に押し寄せる津波のように天空に広がり……。夜空のかけらが剥がれ落ちたその下から、別の星空が広がっていく。そして、頭上の真中に、強く輝く黄色い大きな星が見えてきた。

「あれは何?」ミオが指さして聞いた。

「知らない星だな。星の配列も見たことがないな」僕は、訝しんだ。知らない星座だけど、後でオルタナから説明があるのか? それにしても、母はどこに行ったのか?

 突然、頭上の星空が真っ暗になった。

「えっ、何故、消えたの?」ミオが不安そうに訊いたが、オルタナは答えない。非常灯の明かりの下、沈黙が続いた。

「再起動しています。暫くお待ちください」と、やっとオルタナの声が聞こえた。

 再びプラネタリウムのスタートアップ画面が出現した。現れては過ぎ去る星座の数々。

「私はここよ」急に母の声が後ろから聞こえた。

僕とミオは後ろを振り返った。母が通路に立っていた。いつもの空色のドレスを着て、何事も無かったかのように微笑んでいる。ミオが母に駆け寄り抱きついた。

「お母さん、どこに行ってたの?」と、ミオが訊いた。

「地震で大地の果てから落ちてしまったの」母が笑って答えた。

「えっ、もしかして象が居た?」ミオが訊いた。

「ううん、象も亀も居ませんでした」と、母が笑う。

「だよね」ミオが笑った。

「二人とも無事で良かったわ」母はそう言うと、僕たちの前列の席に座った。僕は母がどこに行っていたかだいたい見当は付いていたが、ミオには言わないことにした。

プラネタリウムが再び始まると、僕とミオはいつものように眠りに落ちていた。

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