第3話 紅葉の見え方
ノートパソコンをゆっくりと閉じ、目を擦る。課長のデスクの頭上にある時計を見ると、十七時五四分。あわや面倒臭いことになるところだった。俺が勤めている会社では、定時退勤は十七時四五分。退勤後、休憩十五分があり、十八時以降に仕事をする場合は、上長に事前申請が必要だ。
机を常にきれいにしているおかげで、慌てることなく退勤準備を終えることができた。
駅に向かう帰り道。コンビニに寄ってサラダチキンとホットコーヒーを買った。家からはおにぎりを二つ持ってきているので、余分なものは買わずに済んだ。
この前の男がきっかけで、最近の俺は家に帰らず、駅前で夜ご飯を食べるようになった。理由は明白だ。ただ、美味しかったからだ。あの時、俺は自分が夜ご飯を食べていることすら気づかなかったけれど、振り返ると、あの時食べたご飯は、間違いなく絶品だった。なぜ、美味しかったのか、その理由は未だ不明であるが、あの男の人生を思い巡らせたとき、俺の心に少しの変化があったように感じた。
そして、それ以来、俺は駅前で人間観察をし、その人たちの人生や出来事をおかずにして食べることに、少しの幸せを感じるようになっていた。
コンビニを出ると、駅へ向かって歩き始めた。道中、ふと公園に目を向けると、紅葉の木が目に入った。その瞬間、冷たい強い風が吹き、紅葉の葉が舞い散りながら俺の足元に落ちてきた。俺は足元に落ちた紅葉を拾い上げ、その葉を見つめた。
気づくと、俺は無意識に、まるで引き寄せられるようにして公園に足を踏み入れていた。
街灯に照らされた紅葉の木々が、なんとも風情を感じさせる。
公園のベンチに腰掛け、しばらく秋のイルミネーションのような景色を堪能していた。
大学の頃、彼女と一緒に訪れた清水寺のことを思い出す。
あの時の紅葉は、今でも鮮明に目に焼き付いている。自然と人工物が織りなす絶妙な調和。その調和が生み出す風景は、まるで山火事のように、目の前で炎を上げるかのようだった。
ふと大学の頃を思い出していると、懐かしさと切なさが胸に押し寄せてきた。しばらくその感情に浸っていたが、気持ちを切り替えようとレジ袋に手を伸ばし、ホットコーヒーを取ろうとした。しかし、手を引っ込めてしまう。公園の入り口から、ひと組の男女が腕を組んでゆっくりと歩いて入ってきたのだ。その二人の雰囲気を見る限り、おそらくカップルだろう。
「うわぁー、すっごく綺麗」
「まぁ、京都には敵わないけどな」
「ちょっと、冷めるんだけど…」
どうやら、この男女も紅葉に惹かれてこの公園に入ってきたようだ。金髪で長髪の二十代女性は、紅葉を見上げながら何度もカメラのシャッターを押している。一方で、茶髪で刈り上げた髪、サングラスを後頭部に掛けている男性は紅葉を眺めることなく、彼女の周りをうろついている。おそらく、彼氏の方はすでに飽きてしまったのだろう。所作からそれが感じ取れる。ただ、彼女の方はまだ紅葉に目を輝かせている。
「ちょっと、あそこのベンチに座って紅葉少し見ようよ」
「え、でも、あそこの人いるし」
「別にいいじゃん。もう一つベンチあるし」
「いや、そうだけど…」
「いいじゃん。あの人も紅葉見ているだけだし」
彼氏は、彼女に言われるままに、俺の隣のベンチに腰を下ろした。彼女はその姿を見て、顔をほころばせると、嬉しそうに彼氏の隣に座った。
しばらくの間、二人の間には沈黙が続いた。その間に、俺はレジ袋を静かに扱い、音を立てないようにそっと手を伸ばしてホットコーヒーを取り出した。秋の風と街の音が交じり合い、紅葉を眺めながら、ちまちまとホットコーヒーを飲むその時間が、何とも言えず格別だった
「ねぇ」
彼女が優しい声で彼氏に問いかけ、沈黙を破った。
「帰る?」
「帰りたいの?」
「いや、別に…セラはまだ紅葉見たい?」
「うん…」
彼氏の態度から、早く家に帰りたいという気持ちが伝わってきたことに、俺は再び気づいた。同じように彼女もその気配を感じ取ったのだろう、彼氏に再び問いかけていた。
「なんか今日、用事あるの?」
「いや、別に、何もないけど?」
少し間が開き、彼女はゆっくりと言った。
「帰りたいの?」
「別に?セラは紅葉見たいんでしょ?」
彼氏の口調が少し強くなったのを感じた。
「別に、って何?」
「良いよ、全然。俺は気にしなくて」
その瞬間、空気が変わったのを感じた。雲行きが怪しくなり、秋の冷たい風が二人の間に漂っていった。
「嫌だったら、嫌って言っても良いんだよ?」
「別に嫌じゃないって」
「だから、別に、ってなんなの?」
俺も正直、「別に」って言われるとイライラしてしまう。無駄な一言が、なんだか余計に感じた。
「俺は気にしていないよ、って意味。セラが紅葉見たいなら、見ればいいじゃん、って意味」
「だってさっきから、カズマ帰りたそうにしているし、興味なさそうじゃん」
「うん。興味ないし、この葉っぱを見る意味もわからない」
飲みかけのホットコーヒーを、無意識のうちに強く握りしめた。その手に力がこもるのを感じ、俺も彼女と同じ気持ちを抱いているのだと気づいた。
「は?だから、私、言っているじゃん。嫌なら嫌って言ってよって!」
彼女の口調も強くなっている。
「でも、セラはこの葉っぱ見たいんでしょ?」
「なに、葉っぱって、馬鹿にしてるの?」
「いや、別に?セラがこういうのが好きだって知ってるし」
彼氏が「別に」という言葉を繰り返すことで、会話がうまく成立しないことに、どんどん苛立ちが募る。それに、彼女が紅葉という風情を楽しむのが好きだと知っているくせに、あえてそれを否定するような言い方をするのはどうかと思う。
「私が好きだってことを知ってるなら、そんな言い方しないでよ」
「そう言われても、俺からしたら葉っぱだし、そもそも京都の方が凄かったじゃん」
「何がどう凄かったの?」
「え、そんなこともわからんの?普通に京都の方が凄いでしょ」
「だから、京都の紅葉がどう凄かったのか聞いているの?」
「人も多かったし、赤だったじゃん?全体的に」
この男の良いところを知りたくてたまらない。正直、なぜ彼女がこんな男と付き合っているのかが気になって仕方がない。景色や風景に優劣がつくなんて思えない。俺の持論だが、景色や風景はその時の季節や天候、温度、湿度、そしてこれが一番大切なことなんだけど、感情によって見え方が変わるんだよ。だから、こんな公園に植えられている紅葉だって、見る人の感情次第で、もっと鮮やかで美しく見えることだってあるんじゃないか。
俺は心の中で、彼氏を諭していた。実際には、ただ黙って二人の会話を聞いているしかできない。もしその会話に割って入ったところで、余計にややこしくなるだけだろう。
「…」
彼女が言葉を発さない、発そうとしない気持ちが、痛いほど伝わってきた。
「だって、京都の景色を見て、この紅葉がいいとは思えなくね?一回、凄いの見てるんだよ?二週間前のセラだって京都の景色を見て感動してたじゃん」
「…」
「そもそも、俺はセラの要望に付き合ってるんだよ?わざわざ、こんな寒い公園に連れてこられて、何かと思えば、紅葉を見たいって。どこでも見れるでしょ。てか、前も見たし。俺がこういうのに興味ないことわかる?」
彼女の沈黙が、彼氏の本性を明らかにする言葉となった。
彼氏の長いため息がはっきりと聞こえる。それが、彼女をさらに遠くに追いやる音に感じられた。
「…別れよ」
「は?なんで?」
彼女の声は、冷たく、決然したようだった。
彼女の言葉に、思わず俺は見ないようにしていた二人を見てしまった。
「価値観が合わなすぎる」
「たかが、紅葉で別れる?聞いたことないわ、そんなの。しかも、付き合って三ヶ月も経ってないじゃん」
次第に、二人の会話はあの紅葉のように色づき、熱を帯びてきた。
「私は、否定されたことに対しても言っているの!」
「俺がいつ否定した?」
「さっきの会話や、それ以前も!」
「は?意味わからん。別に否定してなくね?そもそも、嫌だったら嫌って言え、って言ったのはセラの方だろ?」
「嫌だったら、嫌、って言ってもいいよ。それは人それぞれだし。でも、それ以外が余計なの!」
「は?マジで何言ってんの?」
あの彼氏に何を言っているのと言いたいのは、俺の方だ。『別に』だの『ただの葉っぱ』だの、余計なことを言っていたのは、あの彼氏だ。おそらく、彼女の反応を見る限り、普段から彼はそういう言葉や態度を何気なく繰り返しているのだろう。少なくとも、これまでの会話を見ていれば、その余計な一言一言が、彼女にどれだけ積もり積もっていたかは容易に想像できる。
「紅葉のことを『ただの葉っぱ』って言ったり、京都の方が凄かったとか」
「事実を言っているだけだろ?」
「それが事実だとしても、それを言う必要はないでしょ?」
彼女の言葉に、心から同意する。事実であっても、それを言うことで傷つく人がいることを、彼氏は全く理解していない。彼女の心情を一切汲み取れず、彼は自分の「正しさ」に固執している。彼女の顔を見ると、その無自覚さにどれほど失望しているかが伝わってくる。
「なんで、事実を言っちゃダメなの?事実だよ?」
「私は、カズマが言った言葉で、私の考えを頭ごなしに否定されたって感じたの」
「…頭ごなしってなに?意味わからん日本語使うなよ。語彙力低すぎな」
「…」
俺も彼女と同じ気持ちだ。言い返す価値がない。彼女がどれだけ傷ついているか、あの男には理解できないだろう。何か言い返すだけ無駄だと思った。
「俺が京都にも連れてったし、長野にも、山梨だって連れていったんだよ?セラが景色見るの好きだって言うから、わざわざ行ったんだよ?」
彼氏が彼女に一方的に訴えているが、彼女は何も言い返さない。
「俺のことが好きって言ってたのは嘘だったんだね。自分が遠出したいだけで、俺のことタクシーだと思ってたんでしょ?図星?別に、セラが本当に別れたいなら、それでいいよ。俺、結構女子と仲いいし」
彼氏の言葉がどれだけ無神経か。
「セラは大丈夫?運転手がいなくなったけど」
「…大丈夫、別れよ」
少しの間が空いた後、彼氏はようやく吹っ切れたように言った。
「わかった、わかった!別れてあげるよ」
彼女は何も言わない。ただじっとしている。その表情から、彼女の心がどれだけ深く傷ついているのか、痛いほど感じる。涙を堪えているのが目に見える。
「…」
「時間の無駄でした。大学でも、話かけてくんなよ。じゃあな」
無神経な男は、最後まで無神経だった。余計な一言を残し、何事もなかったかのように公園を去っていった。彼女はその背中を見送ることなく、ただ静かに彼氏が座っていた場所を見つめていた。
吹く風がさらに冷たくなっているのを感じた。
長居し過ぎたかもしれない。鼻水が少し垂れていることに気づくと、無意識に顔を拭った。この気まずく重い雰囲気の公園から早く離れたかった。荷物をまとめて立ち上がろうとしたその瞬間、隣のベンチで悲しみに沈んでいる彼女がどうしても気になってしまった。
以前の自分なら無視していたはずだが、今の自分にはそれができなかった。
俺は公園を出る前に、静かに泣いている彼女隣に、缶カフェオレを置いた。上司からいただいたホットのカフェオレであるが、コンビニで買ったホットコーヒーの隣に置いていたため、少しだけ暖かさが残っていた。
「美しい変化…」
悲しむ彼女を見て咄嗟に漏れた言葉が、静かな空気に響いた。
俺の言葉を聞いて、彼女の泣いている顔がよく見えた。そんな彼女を見て俺はただ、無意識に続けて言った。
「紅葉の花言葉」
紅葉を横目に見ながら、公園を出た。
紅葉の花言葉には「大切な思い出」や「美しい変化」といった意味がある。実際のところ、紅葉の花言葉に込められた「美しい変化」は、葉が緑から赤や黄色に色づく様子を指している。だから、決して「美しい変化が起こりますように」という意味が込められているわけではない。
それでも、俺はそう願いたかった。
片手には重みのないレジ袋がぶら下がっている。
今日のおかずは、懐かしい味と不快な味が混じったような、不思議な味がした。
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