第2話 迷惑男が愛を叫ぶ
気がつけば蝉の鳴き声が消えていた。あれほど暑かった夏も、いつの間にか終わりを迎えていたのだ。
会社の帰路、俺はコンビニに寄った後、駅前の花壇に腰を下ろしてただボーッとしていた。ビジネスリュックを背負い、手首に捻じれたレジ袋を置いたまま、しばらくそのまま動かなかった。ふと、リュックから眼鏡ケースを取り出し、眼鏡拭きで黙々と眼鏡を拭く。拭き終わった後、レジ袋からホットコーヒーを取り出し、ちまちまと飲みながら、何も考えずに遠くを見つめる。
ここ最近、仕事が終わると直帰せずにぶらぶらするようになった。帰る場所に、どうしても足が向かない。
自分でも理由がわからない。ただ、心の中にぽっかりと穴が開いているようで、家に帰ることにどうしても抵抗がある。帰っても、待っているのは静かな部屋と、無音の生活だけだからだろうか。自分の心が、少しずつ外の世界と切り離されていくような気がして、吐く息が無意識にため息になってしまう。
足元で小さな蟻が行き交うのをぼんやりと見つめたり、変わりゆく信号をただただ見ているだけ。その間にも、時間だけがただ流れていく。まるで何かをしているつもりで、実際はただ立ち尽くしているような、そんな感覚にとらわれている。
そのとき、突如として耳に入ってきたのは、リズムもメロディも不安定な奇妙な歌声だった。何度も何度も繰り返される同じ歌詞。その歌詞は意味不明で、ちょっと耳障りな音程だったけれど、気づくと俺はその男の方を見ていた。自然に、視線が彼に引き寄せられていた。
背丈はおそらく百八十センチくらいだろう。色あせた金髪が風になびき、虹色に点滅する奇妙な眼鏡をかけている。白いタンクトップとダメージジーンズを身にまとい、足元は汚れたスニーカー。意外にも年齢はわからない。三十代から四十代の間かもしれないが、肌に刻まれたシワやたるみは、むしろ彼の荒々しい個性を際立たせているようにも見える。
彼は赤いアコースティックギターを肩にかけ、駅の出入り口で歌い始めた。歌声はやけに力強く、時折音程が不安定になりながらも、体を震わせ、無我夢中で歌っている。
「俺のスウィートハニー!俺の、俺のスウィートハニー!」
ビブラートを効かせ、コブシが強い。英語のアクセントも独特で、語尾を引きずるような発音。
ギターは、荒々しくも情熱的に弾かれていた。
そして、同じ歌詞を繰り返す。
「俺の!スウィートハニー!俺のぉ俺のぉスウィートハニー!」
彼の愛おしい人が誰で、その愛おしい人が何を意味するのか、俺には全くわからない。歌詞は同じことの繰り返しのように思える。発音やビブラートの位置をわずかに変えているだけで、ただ気持ちの悪いメロディが響くだけだ。
何を伝えたいのか、まったく理解できない。にもかかわらず、なぜか僕は彼を見続けてしまう。
駅前の通行人たちは彼からできるだけ距離を取り、彼を避けるようにして駅へと向かっていく。一方、若者たちは彼の姿を撮影しては、笑っている。正直なところ、彼の歌は迷惑でしかない。みんな仕事を終えて疲れているだろうに。そんな人々に、あの大声で不愉快な音楽を無造作に聞かせるなんて、酷だと思う。彼は、ただただ迷惑だ。
しかし、なぜか僕は、不愉快な感情よりも、彼に対して好奇心を抱いていた。
なぜあの男は、あんな格好をしているのか。どうして、帰宅する人々がいる時間帯に駅前であんなふうに熱唱しようと思ったのか。あのクオリティをどうして人前に晒すことができるのか。あの歌詞の意味は一体何なのか。彼が伝えたいことは、いったい何なんだろう。
俺は彼の生態を解き明かそうとしていた。
彼は独身なのか、それとも今までに彼女はいたのか。どこの出身で、どんな学校に通っていたのか。仕事はしているのか、兄弟はいるのか。年中タンクトップを着ている理由は何か、歌手を目指しているのか…。
しばらくして、警察官が二人、歌っている彼の方に向かって歩いていった。おそらく、駅前の交番に通報が入ったのだろう。
その彼はというと…完全に自分の世界に没頭していた。目を閉じて、ギターを大きく振るわせ、声量も増していく。言葉には力がこもっているのが分かる。その証拠に、目の前に立つ警察官の存在に、彼はまったく気づいていない。
「すみません。ここに書かれているような行為はご遠慮ください」
「俺のスウィートハニー!!俺のスウィーーートハニー」
警察官の一人が、注意事項が書かれたチラシを彼に見せながら、穏やかに注意をしている。しかし、彼は依然として気づいていない。警察官二人は何度も耳元で訴えかけ、ようやく彼は驚いたようにして、自分の世界から戻ってきた。
「なっ、なんだ、きみらは!」
「すみません。先ほど交番の方にですね、路上ライブをしている人がいて迷惑だという苦情が入っていまして…」
「苦情?!なんでだ!?」
「あのですね、えー…」
話が通じなさそうな人だと思った。
もう一人の警察官が話に割って入った。
「道路使用許可は取られたんですか?」
「なんだ!そんなもん!」
「路上ライブという行為が道路交通法に違反します。ですので…」
「道路交通? ここが迷惑だって? 交通って、車も通るような場所じゃないぞ?」
彼の声は感情的になり、所々で裏返っている。
やはり、彼は話が通じない人間らしい。
「日本の法律でそう決まっております。ですので、」
「日本の法律って、俺を馬鹿にしてるんですか!」
彼の顔を見て、血圧が上がっていることがわかる。
「俺は日本男児だ! あなたたちにそれを否定される筋合いはない!」
激昂した彼を、警察官たちは優しくなだめている。
「そもそも、僕は歌なんて歌ってない! 日本を救っているんだ!」
「はい、わかりました。一旦、周りに迷惑がかかっているので、」
「あなたたち、信じていないんだな! 俺は日本を愛してるんだ! だから、俺が救うんだ!」
警察官たちは丁寧に対応している一方で、彼はその言葉の節々に憤慨し、反論を繰り返していた。僕は彼の暴論を耳にしながら、最近の警察官たちの大変さを実感し、強い感謝の気持ちを抱かずにはいられなかった。
しばらくして、場所を譲らない彼に対して、警察官二人は埒が明かないと判断したのか、胸元の通信機で応援を要請していた。
「お兄さんは日本人で、お兄さんが日本のことを大切に思っているのは十分に伝わっています。ですので、少しだけあっちの方に移動していただけますか?」
彼が口を開く前に、もう一人の警察官がすかさず加勢して言った。
「ここは、他の人の邪魔になっています。一緒にあっちの方に行ってもらえますか?」
加勢に入った警察官は、この手の対応に慣れているのだろうか。彼に対して、まるで何度も繰り返し警告をしてきたかのように、はっきりとした口調で言葉をかけている。
彼はイライラした様子で、大きなため息をついた。
「だからさ、俺は日本を救いたいだけなんだよ?」
「日本を救いたいって、どういう意味ですか? 他の人に迷惑をかけてます」
「迷惑って、誰が言った? 俺は、誰からも言われてない」
「私たちのところに、お兄さんが迷惑だという苦情が届いています。今、この場で話すことも迷惑です」
「その証拠は?」
彼は警察官を煽るような表情を浮かべ、手のひらをひらひらと動かしながら反論していた。警察官二人と口論を続ける彼のもとに、応援に駆けつけた体格の良い警察官二人が向かってきた。
「え、でどうしたの?」
いかにも柔道が強そうな見た目だ。応援に来た二人が事情を確認している。
「お兄さん、一回あっち行こうか」
すると、彼は突然、警察官たちに向かって指を差し、大きく横に振った。
「お、お前ら、危機感持てよ!」
「落ち着きなさい。ね?」
「お前らのせいで、日本がダメになるんだよ!!」
彼はさっきの口論の時よりも、声が大きく、感情があふれ出している。まるで、小型犬が大型犬に向かって吠えるかのようだ。
「何がどうダメになるんですか?」
「お兄さん、大きな声を出さないでください」
「俺は、し、知っているんだぞ!!」
「すみませんが、これ以上ここに留まらないようですと、処罰の対象となります」
「処罰?!」
「はい」
処罰の対象になると聞いた途端、彼は一瞬だけ冷静さを取り戻したように見えた。
「なんだと?!それが、この国に勤める者の所業か!!」
「すみませんが、それが仕事なので」
「処罰」という言葉を聞いて、素直になったわけではないだろうが、苛立ちを抑えきれずに、警察官の誘導に従って仕方なく場所を移動した。
彼と警察官が移動した場所は、花壇を挟んで僕の真後ろだった。通行人からは、花壇に植えられた木々によって、彼と警察官が話している様子が見えなくなっている。
「お兄さん、何か身分を証明できるものはありますか?」
「見ればわかるだろ、日本人だ」
「お名前とご住所を教えていただけますか?」
「なんでそれをきみらに言う必要がある?!」
彼の声が再び荒くなっているのがわかる。花壇を挟んでいても、その声ははっきりと聞こえてくる。彼は警察官に向かって怒鳴り続けている。
「身分証明書の提示は法律で求められる場合があります」
「だから、なんの法律で、誰のための法律なのよ?」
「お兄さん、落ち着いてください」
警察官二人が彼を説得している一方、もう一方の警察官たちの会話が耳に入ってきた。彼への対応をどうするべきか、頭を悩ませている様子が伝わってくる。
「黒川さん、どうします?」
「とりあえず、彼の身元がわからないから、交番でゆっくり話を聞くしかないんじゃないか?」
「あの様子で交番に連れて行くことはできますか?」
「えぇー、これ以上あのままだと、公務執行で連れて行くしかないだろ…」
おそらく、黒川さんの判断で、彼は強制的に連行されることになるだろう。警察官の言う通りにすれば、注意だけで済んだかもしれないのに、彼は自分の正義を貫こうとしているのだろう。
「そうなりますかね?」
「だって、そんなもんねぇ、注意してもあの場所から退かんでしょ?道路交通法もそうだし、身分証明の提示も拒否してるし」
「そうなりますよねぇ…」
しばらくして、警察官の説得を受け入れ、彼はようやく警察官たちと交番に向かうことに合意した。公務執行妨害という名目ではなく、おそらく彼が感情的になりすぎて疲れたからだろう。警察官の一人が「交番で少し飲み物でもどうですか?」と声をかけると、彼は不本意そうにしながらもその提案に乗せられた。さっきまでのやりとりがまるで無駄だったかのようだ。
ギターを背負い、腹を立てながらも交番に向かって歩き出す彼の後ろ姿は、どこか寂しげで、ただの反抗心だけではない感情が見え隠れしていた。
彼は最後まで謎のままだった。
警察官とのやりとりで彼が言っていた言葉、「俺は日本を救う」という言葉。その意味は、そして、交番に向かう前に彼が続けて言った言葉、「愛を伝えることで日本を救う」「少子化なんてものは愛がないからだ」という言葉は、いまだに頭から離れない。
これはあくまで俺の見解だが、彼の歌は、愛する人がいることの素晴らしさ、愛する人がいることへの儚さや美しさ、そしてその尊さを説いていたに違いない。晩婚化と少子化が進む現代日本に対する危惧、さらにはその日本で生きる若者たちへのエールを送っていたのだろうか。紀元前であれば、彼は愛の預言者として語られていたかもしれない。少し言い過ぎかもしれないが、彼の愛国心、行動力、そしてその表現力から、そう思わせるような人物だった。
彼と警察官との一悶着を見届けた後、俺は背筋を伸ばし、左右に腰を捻らせた。血の巡りが良くなっているのがなんとなく分かる。二度三度、引っ付いていた筋肉を引き剥がすように背伸びをしていると、ふと気づいた。
左手首に、重みのないレジ袋がぶら下がっていた。
俺の夜ご飯はもう済んでいた。
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