第一章 アイザックの懇篤①
クレアは自室の窓辺にある、猫のような脚の肘付きチェアに腰掛けていた。
窓の外にはゲイリーが、ディアナのために作らせた庭園が広がっている。中央の噴水には彼女が好きだったバラの彫刻が施され、水しぶきがキラキラと舞って、えも言われぬ美しさだ。すぐそこの森には泉もあるけれど、花々が咲き誇る噴水庭園の美麗さには遠く及ばない。
何時間でも眺めていられるほど、クレアはこの場所が大好きなのだが、今日ばかりは多彩な色の花々もその甘い芳香も、小鳥たちのさえずりさえ、彼女の心を和ませてはくれなかった。
「私は一体、誰なの……」
もう何度目かのため息をもらしたクレアは、壁に掛けられたディアナの肖像画を眺めた。優美なプラチナブロンドと洗練された微笑み。クレアとは何もかもが違っていて、今思えばなぜ疑問に思わなかったのか不思議なくらいだ。
こんなに似ていない母娘など、いるはずがないのに。
しかしクレアがほんの少しも疑念を抱かなかったのは、ひとえにディアナの愛情が真なるものだったからだ。四人の子どもたちを分け隔てなく、それどころか娘であるクレアには、特別に優しく温かく接してくれた。
「まぁクレア、どうしたの?」
暗い顔でうつむいていると、真っ先に声を掛けてくれたのは、いつもディアナだった。クレアは涙で潤んだ瞳で母親を見上げる。
「おにいさまたちが、ことりをつかまえちゃったの。かわいそうだからにがしてあげたら、クレアのためにつかまえたのに、って」
「クレアは優しいのね」
ディアナはクレアを抱き上げ、目尻に溜まった涙にキスをして続ける。
「お兄様たちは、クレアが喜んでくれると思ったのよ。どうか許してあげて」
「いじわるしたんじゃないの?」
「もちろん。お兄様達は、みーんなクレアが大好きなんだから」
にっこり笑うディアナにつられて、クレアもやっと笑顔を見せた。母親の耳に唇を寄せ、恥じらうような声で尋ねる。
「どうやったら、おにいさまたちとなかよくできる?」
「簡単よ。お兄様達が悲しんでいたり、困っていたりしたら、慰めてあげたり、お手伝いしてあげたりすればいいの」
クレアは困ってしばらく黙り込む。それはいつも、彼女がしていることだったからだ。
「ほんとに、それだけでいいの?」
ディアナは「えぇ」と微笑み、クレアの頭をそっと撫でた。
「クレアは良い子だから、もうできているわ。お兄様達のほうが、クレアと仲良くする方法を知らないのよ。ちゃんと言っておきますから、安心してね」
「ありがとう、おかあさま」
クレアはディアナの頬にキスをしたときの、瑞々しいバラのような香りを思い出して、懐かしさで胸が締め付けられる。これまではその感情も決して不快ではなかった。切なくはあっても、素晴らしい記憶の数々は心地よいものばかりだったからだ。
でもディアナと血のつながりがないと知ってしまった今は、幸せな思い出に浸ることはできない。エドワーズ家とは縁もゆかりもないなら、クレアにはもうノスタルジ
ーを感じる資格なんてないのだ。ゲイリーは実の娘のように思っていると言ってくれたけれど、彼の好意に甘えていいのかもわからない。
オークレントを、出たほうがいいのだろうか?
クレアは自分への問いかけに身震いした。緑豊かな森、青々と広がる丘陵、澄んできらめく湖、その全てを彼女は愛していたし、この地に住む人々をも大切に思ってきたからだ。
良い領主でありたいなら、領民の声に耳を傾けるべき――。
ゲイリーは侯爵とは思えないほど、庶民的な人物だ。しょっちゅう子ども達を連れだし、下町を散歩しては、道行く人や売り子に声を掛け、時には酒を酌み交わすことまであった。
ディアナもそんな夫の教育方針に賛同し、子ども達の礼儀にもうるさくなく、何かを禁止するということもほとんどなかった。
普通の家庭の子どものように、温かく見守られながら自由に育ったクレアが、どこへも嫁がずここで暮らしたいと願うのは、ごく自然な感情だろう。縁談の話もあるにはあったが、全て断ってしまい、一生独身でも構わないとさえ思っていた。
クレアが結婚に否定的だったのは、オークレントを出たくないというだけではない。もうひとつの理由は、お互いを理解し、深く愛し合う両親を間近で見ていたからだ。
「今日はブドウ摘みに行こうか」
唐突に誘いを掛けるのは、大抵ゲイリーだった。ディアナはまるでその言葉を予見していたかのように微笑む。
「爽やかに澄み切った、良い天気ですものね。あなたがそうおっしゃると思って、お弁当の手配はしておきましたわ」
「さすがディアナだ」
ゲイリーは周囲の目も憚らず、公然とディアナに口づけをする。
「昨日は子ども達にねだられて、遅くまでオークレントに代々伝わる、古い昔話をしてあげていただろう? いつの間に準備していたんだい?」
「子ども達とあなたが寝てしまってから、厨房に行ったのですわ。先日新調したばかりの、旅行用ティーセットも持って行きましょう」
「あぁ、それは良いね。せっかくだから、ワインも持って行こう」
酒好きのゲイリーがポンと手を打ち、ディアナは眉をひそめる。
「まぁブドウ摘みをするのに、ワインを飲むんですの?」
「もぎたてのブドウを肴に、ワインを飲むなんて最高だろう? きっとぴったりの組み合わせだ、私たちみたいにね」
ゲイリーが再びディアナの頬にキスをして、彼女も照れながら彼をハグする。
政略結婚が多い中、相思相愛で結ばれたふたりはクレアの憧れだったし、そんな両親が彼女の誇りでもあった。エドワーズ家の娘だということが彼女の存在意義だったからこそ、大きな支柱が無惨に折れたかのような、崩壊と喪失を感じているのだ。
我慢していた涙が、ついに零れそうになったところで、ヒソヒソ声が聞こえてきた。
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末の妹として大切にされてきましたが、 妻として溺愛されることになりました 水十草 @mizu10kusa
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