第3話 光の方程式
最初に失われたのは、光だった。
笠原歩は二十年前の灯台の記録を開く。気象研究所の最上階で、シンガポールの人工雨が窓を叩く。アイリスの心臓部となるスクリーンには、世界中の気象データが流れている。その片隅に、ひとつの波形が揺れていた。
二十年前、彼女が最後に見た光の痕跡。
人工的に制御された雨が、建物全体を巨大なプリズムに変える。笠原は目を閉じる。瞼の裏で、記憶が波打つ。灯台守補から研究者へ。その選択は、一瞬の閃光とともに始まった。
「村井さんの娘さんたちが、まもなく到着します」
助手の声に、笠原は静かに頷く。古地図研究者となった圭子。環境ジャーナリストの美咲。彼女たちもまた、光の方程式の一部だった。
研究室の明かりが、わずかに揺らめく。
*
最後の夜は、異常な光で始まった。
灯台の観測室で、幼い圭子が黙々と記録を取る。美咲は鋭い眼差しで質問を投げかけ続ける。村井守は、いつもの穏やかな微笑みを浮かべている。
「笠原さん、この光は何を意味するんですか?」
美咲の問いに、笠原は答えられなかった。
目の前で起きている現象は、既知の気象学では説明できないものだった。
その夜、波は予報を超えて高まり、光は物理法則を逸脱した。観測値は常識を超え、記録用紙は意味を失う。しかし、村井守は最後まで観測を続けた。
「これは記憶を守るためだ」
彼の最後の言葉を、笠原は今も覚えている。
*
「お久しぶりです」
研究室で、二十年ぶりの再会が果たされる。美咲の手には取材ノート。圭子は古びた地図を抱えている。笠原の指先は、キーボードの上で微かに震えていた。
「記憶とは何でしょうか」
笠原は問いかける。スクリーンには世界の気象データが流れ、その奥で、二十年前の灯台の映像が明滅する。
「私が追い求めてきたのは、記憶を保存する方程式です」
キーボードを叩く指が、光の軌跡を描く。
「気象現象の中に、私たちの記憶は保存される。光の屈折角、気圧の変動、それらは全て数式化できる。でも──」
言葉が宙吊りになった瞬間、警報が鳴り始める。
予期せぬ共鳴。アイリスが異常値を検知する。研究室の明かりが変調を来たし、窓の外で雨が不思議な形を作り始める。
「これは」
美咲の声が震える。
「お爺ちゃんが最後に見ていた光」
圭子が地図を広げる。
青いインクの染みが、蛍光を放ち始めた。それは海岸線の予測ではない。記憶の波紋。時間の痕跡。
「二十年前、私は選択をしました」
笠原の声が、静かに響く。
「灯台を去り、記憶を科学として追究することを」
スクリーンが七色に輝き、光の結晶が次々と生まれる。それは灯台で見た「予兆」より鮮やかで、より生命的な輝きを持っていた。
「でも、私が守ろうとした記憶は」
笠原は続ける。
「実は、私たちを守っていたのかもしれない」
研究室が、光の渦に包まれる。
そこには、三人の記憶が交錯していた。灯台での最後の夜。父の死の瞬間。地図に残された暗号。失われた時間の断片が、光となって結晶化していく。
美咲の取材ノートが、風に舞う。
圭子の地図が、新たな青さを帯びる。
笠原のキーボードが、最後の数式を刻む。
『記憶=光×永遠÷刹那』
二十年の研究が、一つの式に収束する。
「光は二度、形を変える」
笠原は、灯台守だった頃の声で語り始める。
「一度目は警告として。二度目は──」
窓の外で、シンガポールの夜が静かに変容していく。人工の雨が、制御を逸脱した光の結晶を描く。それは未来への警告でも、過去の記録でもない。
永遠の現在。
記憶という名の光。
三人は沈黙の中に佇む。それぞれの時間が、光となって空を舞う。失われたものは、確かにここにある。記録できなかったものも、永遠にここにある。
スクリーンの数値が、ゆっくりと収束していく。
しかし光は、まだ新しい形を求めていた。
それは方程式の先にある何か。
記憶と記録の境界。
科学と詩の交差点。
笠原は、最後のキーを押す。二十年の研究が、一瞬の光となって解き放たれる。
アイリスのスクリーンに、最後の言葉が浮かび上がる。
『私たちは記憶を守ろうとしたが、実は記憶に守られていた』
その瞬間、研究室の窓一面が巨大なプリズムとなり、三人の記憶が万華鏡となって光を屈折させる。
それは科学で説明できない奇跡であり、同時に、最も自然な帰結でもあった。
笠原は、ようやく理解した。
村井守が遺した真実を。
記憶が光となる理由を。
そして、自分が二十年をかけて追い求めてきたものの正体を。
窓の外で、シンガポールの夜空が北海道の光で満ちていく。
それは終わりではなく、新たな記憶の始まりだった。
『光の方程式』 ~記憶を守る最後の灯台 ソコニ @mi33x
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