第2話  予報官の瞳



真実は、ときに目を逸らすことでしか見えない。


村井美咲はそう悟った時、ペンを置いた。取材ノートには、二十年分の記事が収められている。環境ジャーナリストとして彼女が追い続けた気候変動の記録。そして、その端に残された一行。父の死亡記事の下書き。


シンガポールの気象研究所は、巨大なプリズムのように雨を屈折させていた。人工的に制御された熱帯性気候の中で、建物全体が虹色の光を放つ。美咲は首から下げた取材許可証を握り締める。気圧の変化か、それとも記憶の重さか。耳の奥で、微かな鳴動が続いていた。


開発中の気象制御システム「アイリス」。完全なる予測を約束するその技術の裏に、彼女は別の真実を直感していた。取材ノートの余白に、走り書きが残されている。


『これは予測ではなく、記憶の再現ではないか』


妹の圭子から送られてきた祖父の地図。青く滲むインクの下に、未来と過去が同時に記録されているような不思議な暗号。そして、その地図に関わった人物──二十年前の灯台の最後の助手、笠原歩が、この建物の中にいる。


エレベーターの中で、美咲は取材ノートを開く。そこには、これまで書き記してきた数々の環境破壊の記録。客観的事実の積み重ねの中に、一枚の新聞の切り抜きが挟まれていた。


『防波堤決壊 作業員一名死亡』


父の事故を報じた記事。美咲自身が書いたその五百字の中に、感情は一切含まれていない。だが今でも、インクの匂いを嗅ぐと、吐き気が込み上げる。


「村井さん」


振り返ると、そこに笠原歩が立っていた。写真で見るより若く、むしろ二十年前の面影のままだった。


「お待ちしていました」


その声が、封印した記憶の扉を開く。



研究室の壁一面がモニターとなり、世界中の気象データが流れている。その片隅に、美咲は見覚えのある映像を見つけた。


灯台。

津波で崩壊する前の姿。

最後の観測を手伝った日の光景。


圭子が黙々と記録を取り、美咲が祖父に問いを投げかけ続けた午後。そこには、まだ父の影も映り込んでいた。


「記録と記憶は、本質的に同じものかもしれません」


笠原の言葉に、美咲は眉をひそめた。環境ジャーナリストとして、彼女は常に客観的な事実を追い求めてきた。感情を記事に漏らすことは、真実を歪めることだと信じて。しかし。


「私たちの研究は、記憶を気象として再現することです」


笠原の声が、何処か遠くから響く。


「気象現象は、私たちの記憶を保存する媒体となる。それを発見したのは、あなたの祖父です」


取材ノートが床に落ち、ページが開く。父の死亡記事の下書きが、蛍光灯に照らされる。インクの染みは、どこか地図の青い模様に似ていた。


「記録することは、時として記憶を裏切る」


笠原の瞳が、光を帯びる。


「でも、記憶は決して消えない。それは気象の中に保存され、光となって還ってくる」


その瞬間、警報が鳴り響いた。


モニターが異常な数値を示し、気圧データが急激に変動する。研究室の窓一面に、巨大な光の結晶が出現する。それは灯台で見た光よりも鮮やかで、より生命的な動きを持っていた。


美咲は、光の中に沈み込んでいく。


父の事故を記事に書こうとした夜。祖父との最後の観測。圭子が黙って記録を取り続けた午後。そして、笠原が灯台から姿を消した日。それらの記憶が、光の結晶となって彼女を包み込む。


研究室の空気が、微かに潮の香りを帯び始めた。


モニターの中で、アイリスのプログラムが新たなパターンを描き出す。それは記事にはならない真実。記録に残せない記憶。


取材ノートの最後のページが、風に舞う。そこには、ジャーナリストとしての美咲ではなく、一人の娘として、妹として、彼女が書き記そうとしていた言葉が並んでいた。


『記憶の保存に関する報告』

という表題の下に、

『父へ』

という二文字。


窓の外で、シンガポールの夜が変容を始めていた。人工的な雨が、制御を逸脱した光の結晶を描く。それは報道でも、記録でもない。


ただ、確かにそこにある何か。

私たちの記憶そのものが、世界を形作っているという事実。


美咲は、最後の一行を記した。


『真実は、時として光の形をとって現れる』


その瞬間、シンガポールの空が、北海道の灯台の光で満ちていった。

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