『光の方程式』 ~記憶を守る最後の灯台

ソコニ

第1話  浸食の痕



時計の針が溶けていく午後、記憶もまた形を失っていく。


村井圭子は父の写真を、祖父の地図の上に置いた。地図資料館の薄闇の中で、二つの時間が重なり合う。写真の中の父は、いつも背を向けている。古地図研究者になった理由を、圭子は誰にも語らない。それは、消えゆく場所を記録することで、失われた時間を留めようとする密やかな儀式。


地図の上で、青いインクが滲む。その染みは、未来の海岸線を予言するように広がっている。北海道の永い冬が終わらない2040年。気候変動が加速する中、予測モデルは次々と崩れ落ちていった。ちょうど、家族の記憶のように。


「どうしてここにいるの」


十六年前、父はそう問いかけた。灯台での最後の夏。圭子は黙って観測値を記録し続け、姉の美咲は祖父に質問を投げかけていた。家族の形が、光の中で歪んでいく午後。


「お客さん、閉館時間です」


管理人の声が、記憶の糸を切断する。窓の外では、季節を失った雨が降り続いていた。かつてここは内陸だった。地図の上で青く滲んだ場所が、今は波に沈んでいる。


「あと少しだけ」


自分の声が、祖父に似ていることに気づく。几帳面さは父ではなく、祖父譲り。観測記録への執着も、きっと同じ。しかし祖父は、数値の向こうに何を見ていたのだろう。


地図の端に記された走り書きが、薄明かりに浮かび上がる。


『光は二度、形を変える。一度目は警告として、二度目は記憶として』


後半は判読できない。しかし、その脇に記された名前は鮮明だった。笠原歩。祖父の最後の助手であり、灯台守補。シンガポールの気象研究所で、記憶の保存を研究しているという。


圭子が携帯を取り出した時、着信を知らせる振動が走った。画面には姉の名前。


「もしもし、圭子?」


取材で鍛えられた美咲の声が、珍しく震えている。


「お姉ちゃん、どうしたの?」


「笠原さんに会ってきたの」


その瞬間、窓の外で光が踊り始めた。波間に不思議な模様が浮かび上がる。六角形の結晶が、生命体のように増殖していく。それは祖父が「予兆」と呼び、必死に記録しようとした現象。


「光が、また──」


美咲の声が遠のく。目の前で、地図の青いインクが蛍光を放ち始めた。波間の光と同じ幾何学模様。記録と記憶が、光の中で溶け合っていく。



十六年前の夏の日。父の葬儀の帰り道。


「どうして記録を取り続けるの?」

美咲が祖父に問いかけた。

「それは、お前たちのためだよ」

「私たちのため?」

「いつか分かる時が来る」


圭子は黙って数値を書き留めていた。父の死因は単なる事故。でも、その日の光は、いつもと違っていた。



「お帰りください」


管理人の声で、圭子は現実に引き戻された。写真と地図を片付けながら、切れた通話の履歴を見つめる。


外に出ると、記憶の雨と現在の雨が重なった。車を走らせながら、父との最後の会話を思い出す。


「古地図を研究するんだね」

「うん」

「理由は?」

「地図の中なら、消えたものも残るから」


答えた時の父の表情を、圭子は見ていない。いつもの後ろ姿。そして翌日、事故の知らせ。


灯台跡地に着いたとき、雨は静かに形を変えていた。


空全体が光のスクリーンとなり、記憶の結晶が降り始める。地図を広げると、インクの下から新たな文字が浮かび上がった。


『予兆は、光の屈折に現れる。記憶は、光の中に保存される。そして、真実は──』


携帯が震えた。


差出人:笠原歩

件名:光の記憶について


『地図を持っているのですね。父を失った日の光を、覚えていますか?あれは偶然ではありませんでした。光の中に、すべての記憶は──』


フロントガラスの向こうで、雨粒が万華鏡のような輝きを放つ。二十年前、祖父が記録した光の模様が、より鮮明な形で目の前に現れる。まるで、失われた時間が空に投影されているように。


深夜、美咲から新しいメールが届く。


『取材で分かったの。笠原さんの研究について。気象データと人間の記憶の相関関係。お爺ちゃんが最後に残した観測記録。そして、あの日見た光の正体。これは単なる気候変動の記録じゃない。私たち自身の記憶なの』


文面から、姉特有の冷静さが消えていた。


返信を書こうとして、圭子は手を止めた。窓の外で、また光が形を変える。今度は、まるで誰かの手のひらが空を撫でているように。


祖父は知っていたのかもしれない。光の記録に隠された本当の意味を。そして、その先にある記憶の真実を。


地図の青い染みは、もはや単なるインクではないように見えた。それは未来の海岸線を予言するものであり、同時に──父との別れを記録する装置なのかもしれない。


窓を開けると、潮風が部屋に流れ込み、父の写真が僅かに揺れる。月明かりに照らされ、地図が新たな文字を浮かび上がらせる。


『記憶は、光となって還る』


祖父の最後のメッセージが、闇の中で静かに輝いていた。それは警告でも、予言でもない。ただ、確かにそこにある何か。


失われたものが、永遠に存在し続ける場所。


圭子は、シンガポール行きの切符を予約することに決めた。姉の追う真実。笠原歩の隠す記憶。そして、祖父が遺した光の記録。


すべては、あの夏の日に始まり、そして──。

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