その3
クズはその日、気が気ではなかった。
溢れ出す玉が止まらない。こんな事は初めてだ。
クズはこの時、手を止めることなく動かした。
しかし、幸運は長くは続かなかった。
元を取り戻り、少しプラスになった辺りで止めるべきだった。またも金はマイナスとなりクズは再び、失った金を取り戻さんと神に祈る。
そして隣のオッサンもまた、神に祈っていた。
そうして時間を過ごすこと2時間、約束の時間にはまだ間に合うだろう。距離を考えれば全力で走るなら三十分もかからない。しかし、クズの手は止まらない。それどころか時間の焦りと、負けの焦りが混ざった事で目に見てわかるほどに顔色も悪くなっている。
隣で祈っていたオッサンもそんなクズを心配してか、声をかける。
「大丈夫ですか?体調悪いんですか?」
「今集中してるから声をかけるな」クズは機嫌を悪くして答えた。
「時間が無い。本来なら俺はお前の今座っているその席に座る予定だったのに。明日以降お前に当たらなくなる呪いをかけてやる」
オッサンは顔を赤くした。
「ムカつくか?俺もムカついている。しかしだ、俺たちにパチンカス時間はないんだ。さぁ、台を打とう」
そうしてクズは、よろよろと台を打ち始めた。
次に、意識が戻ったのは約束まで三十分を過ぎようとした頃だった。
もう、打つのを辞めなければいけない。
こちらには時間が無いのだ。これ以上遅れれば約束を破ることになる。
しかし、ここまで負ければ再度確率は収束し、今度こそ勝ち越せるかもしれないのだ。
こんな所で辞めてもいいのか、クズは葛藤した。そんな時に、アイツら現れる。
『彼女の為にも金をプラスにしてから行きましょう!』
『隣のオッサン確変入ったぜ?席を奪ってやれよ』
天使と悪魔が、クズに囁く。
しかし、クズには明日できるパチンコよりも彼女を選ぶことにする。
クズは、今から、走る。彼女のために走るのだ。暴者の魔の手から救うために。走らねばならぬ。歩いていけば時間には間に合わない。
さらばパチンコ屋。クズは辛かった。幾度か、後ろを振り返り店に戻ろうと思った。
さっきまでいた席を奪ったオッサンが当たっている可能性を考え、拳を握った。
しかし、クソッ、クソッ、と小声で言いながらも走った。ゴツゴツとした道を走り、横断歩道を渡り、時に自転車に乗った小学生にぶつかりそうになりもした。
そうしてひとつの歩道橋を渡切り、息が切れ始めた頃、雪が降り始めた。
クズは日頃から傘を持つことなんて無い。
雪に濡れながらも走った。
クズは髪を濡らしながらも、足が痛くなりながらも、このまま行けば間に合う、もはや遅れることは無い。そう思っていた。
しかし、雪の他に災難が降って降りる。
ドン、クズはびしょ濡れになりながらも肩で風を切るガタイのいいヤンキーとぶつかった。
「おぉ?痛え痛え。よくもやってくれたなぁ」
そんなことを言うヤンキーを前に
「ああ、抑えてくれ…その荒れ狂う感情を。今こんな奴に構っている時間なんてないのに」とクズは心の中で思う。
「これは骨折れちまったなぁ、金、金払えよ」
「無理だ。お前なんかに払う金は無い。頼むから助けてくれ……時間が無いんだ」
そう懇願するクズはもはや涙を流しそうになっている。
「持ち物全部を置いていけ」
「俺には持ってるものなんてない。プライドも、常識も、俺に残っているのは……アイツだけなんだ」
「へっ、彼女か?ならその女を寄越しな!」
「あぁ、逃げろ」
クズは辺りを歩く人を盾に、その場を切り抜けるべく走る。そうして一気に道を抜け、ヤンキーを巻くことには成功した。
しかし、巻くことに大量を使い切ってしまったクズはもう走ることが出来そうにない。
今の距離を考えれば、間に合うかは分からない。
歩く事に、クズの瞳から涙が、1滴、2滴と零れでる。もう嫌だと、疲れたと。
こんな働きもせず、いつも遊んでばかりのクズがここまでしたのだ。自分はよく頑張ったのだと、もう許して欲しいとクズの心は崩れ落ちた。
俺が付き合ったばかりに、彼女は顔も、名前もよく知らないような奴に襲われてしまった。すまない、すまない。俺はアイツの言うようにクズなんだ。けれど、もうそれでいいのだと、クズのクズな部分が心を支配した。
約束を破るつもりなんて無かった。
けれど、もう無理なんだ。
せめて、あと少しパチンコを早く辞めていれば、事故が起きることもなかったのに。
クズは、心の底で言い訳をした。
クズは分かっていた。自分がクズであることを。クズは何よりも、誰よりも自分がクズであることを理解していた。
見た目が良いだけの出来損ないとして生きて、高校に上がる頃には捻くれた遊び人となっていた。
かと言って、人に暴力を振るう勇気も無い人生はいつしかその日暮らしの何も無い空っぽの物になっていた。
あぁ、こんな辛い人生、もういっその事、終えてしまいたい。クズは、全てが嫌になってしまった。
そうして出た言葉は「もう死にたい」。
それは、クズの心の奥底からポツリと漏れ出た言葉。過去にも口にして、そしてもう口にする事が無いと思っていた言葉であった。
なぜ、あの時に死ななかったのか。
その答えは、分かっているし、覚えている。
全てを投げ捨て、車の走る道へ身を投げ出した。けれどそんな自分を救い、空っぽの自分に生きる理由をくれた。何よりも強い気持ちを、愛をくれた彼女がクズを、クズの心を救ったのだ。
彼女が囁いた言葉は、胸を暖かくしてくれて、彼女の体温が、鼓動を動かして……クズにとって金柱芹は命に他ならない大切な人。
まだ希望はある。彼女こそが、希望なのだ。彼女が生きているのなら、まだ頑張れる。
クズは走った。そんな力は既にないはずなのに、どこからか湧き出る力を頼りに、走った。クズな自分を愛してくれたその愛情に報いなければならない。走れクズ。止まったら、クズですら無くなってしまうのだから。
俺は愛されている。俺は愛されいる。
自分がクズなのは分かっているけど、それでもクズじゃないと言ってくれた彼女のために生きていたい。彼女に愛されたまま、死にたい。
そんな思いを胸に抱えボロボロになっても道行く人の目を恐れることなく、クズは風に吹かれるゴミのようにおぼつかない足取りで走った。
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