落ち着く方法

島尾

精神を休める

 落ち着かねばならない場面は、人が生きているうちに何度となく訪れる。しかし落ち着くということを知らない人には、狼狽して失敗を重ねるのだろう。あるとき、私が精神的に不安定だったとき、なんとなく永平寺に行ってみた。何の目的もない、ただ福井駅で降りたから名所であるそこへ赴こうと思った。別に大したことはなかろう、と思っててきとうに見て帰る気でいた。


 すでに私は多くの寺院を訪れた身である。湖東三山の西明寺に行ったのが最初だった。金剛輪寺のあの仏様のお顔を忘れることはない。若狭には妙楽寺があって、千手観音菩薩さまは私を異空間へいざなった。それから四国八十八か所の寺を訪れ、清い流れが己の心に発生しては消えた。このように、一つ一つの寺院が及ぼす影響は大きい。しかし訪れた寺の数が増えることは、新しい感覚が下りてくる可能性を著しく減少させる。よって永平寺という大寺院に関しても他の寺と似たような感覚になるんだろうなと思っていた。


 結果から言えば、永平寺の僧たちと同じ又は似たような動作を意識的に行うことによって、余計な毒々しい精神的成分は除去された。階段をひたひたと音もなく上がったり下りたりする動作、畳を歩くときに音の一つも立てずに進む動作、など。そういった基本的精神状態になった私は、一つの大きな部屋に足が向いた。そこではNHKが永平寺について解説した番組の映像が延々と流されていた。また、畳の上に丸い座布団が点々と(散村のごとく)置かれていた。私はそのうちの一つに正座をして、映像を映しているモニターと古めかしい謎の絵画の間の、何もない壁をただひたすら見ていた。1時間、他の人は寝たり動いたりしていた(それは偶然に視野の内部に入った光景である。私はそれらを風景の一部だと感じていた)。


 それから数日して、働き始めた。精神病にかかっていた私が働けるのか、かなり不安で仕方なかった。しかし、「私は「行」をやるのである」、という極めて純粋な感覚をもって作業にあたった私は、特段苦痛を感じることはなかった。初日のそれは、最も大事な感覚であるというふうに今でも思っている。


 単純作業、湯船の内部(冬)、そして永平寺。いまのところ、これらが私を先の純粋な感覚へ導く。ちなみに湯船の中に身を入れるときは「深部体温を上げる」という唯一の目的を設け、それ以外のいかなる思念も不要なものとして切り捨てる。日々の悩みなどは、風呂においては不要である、そのように定めた。

 ほかにも様々な実験的行動をして純粋な精神状態を得ようとしたが、どれも中途半端に邪念が入り、失敗に終わっている。

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落ち着く方法 島尾 @shimaoshimao

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