Chapter 2 ・ 塾の後
第3話
金曜日、塾が終わり茜と一緒に玄関のドアを開けると、奥の方から母がスリッパをパタパタ言わせながら廊下に出てきた。
「おかえり。茜ちゃん、いらっしゃい」
笑顔で迎えてくれた母の声は明るく、軽く、まるでスキップでもし始めるんじゃないかと思わせるようなトーンだった。
普段の母とはまるで別人で、つい見入ってしまう。
母はいつもどこか哀しそうな顔をしていて、そんな『愁い顔』が通常の顔になってしまっている。なんとなく紫陽花の薄い青色を思わせるような。綺麗で、それでいてどことなく寂しそうな雰囲気の切なくなる色。昔起きたことを思えば当たり前なのだけれど……。
そんな母が今日はひまわりみたいな笑顔で茜にスリッパを出している。
「お父さんと今ちょうどご飯食べ終わったところなんよ」
その言葉でなぜ母の機嫌が良いのか分かった。
でも、私の顔からは血の気が引いていった。
父が帰宅している……。
父がこんな時間に帰宅していることなんて滅多にない。
母の軽やかな足取りとは反対に私の体は急に重くなり、心の中もずっしりと重く冷たいものに覆われていった。
緊張しながらダイニングに行くと、父は残り少ないおかずをつついていた。
隣のリビングからは野球の中継が流れていて、私と茜に気づくと、視線をテレビから私たちの方へと移した。
何か月かぶりに見る父の頬はこけていて、色黒なのに不健康そうに見る。心臓が弱いのに仕事漬けだからだろう。
父の視線を受けると、条件反射のように体が強張った。そんな自分を否定したくて、
「お、お父さん、おかえり……」
と、話しかけたが、声は怯えた小動物みたいになっていた。
しかも、緊張しているからか、家に帰ってきたのは自分の方なのに、おかえりなんて言ってしまっていた。でも、いつも不在の父がここにいるからか、そんな言葉さえも自然に思えてしまう。
「あぁ、さゆり」
ボソッとそれだけ言うと、父はテレビに視線を戻した。視線が逸れてもまだ強張っている私の体を呼び起こすように、茜が後ろからそっと腕を掴む。
居心地の悪い空気が漂う中、母ひとりが笑顔でまた嬉しそうな声を出した。
「さゆり、お腹空いとる? 茜ちゃんも何か食べる?」
私が黙ったまま茜を見ると、
「お腹あまり空いとらんけど、おばちゃんのご飯美味しいから何か少しいただきます!」
と、いつもの明るい声で返事をした。
母は一瞬にして花が開くように笑み、
「あら、そう? じゃ、おにぎりでも作っておかずを少し合わせるね。部屋に持って行ってあげるけん、二人は二階に上がったら」
そう言うと、早速炊飯ジャーのご飯をボウルに移し始めた。
父から離れさせる口実をやんわりと作るのは母の仕事と言っても過言でないくらい、父と私のきまずい雰囲気を和ませるのはいつも母親だ。
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