雹と出逢った日
神崎諒
雹と出逢った日
「生まれてくる時代を間違えたんだ」
暖炉の薪がはぜる音にかき消されそうなその声は、何十年も生きてきた人間だけがもつ深い嘆きのようにも聞こえた。
「『親ガチャ』って知っているかい」
「大昔に流行った言葉だそうけれど、最近また注目され始めているのよね」
彼は木組みで一人用の椅子に座っていた。丸まった背骨をさらに丸めて、うつむいていた。私は彼の対角線上に座りながら、冷え切った指先を暖炉の薪火で暖めた。
「ここに来るまでに、他のやつの足跡はなかったかい」
わたしは首をかしげた。
「わからないわ、多分ないと思うけれど。雪が降っていたから、あっても消えているかも」
彼は、そうか、とだけいって椅子を
「すまんな、こんな老いぼれで」
「いいのよ、どうせ家にいてもだらだら動画配信を見ているだけなんだから」
暖炉の薪がパキ、と音を立てて、彼は空咳をした。
「それで? 親ガチャがどうしたの」
「いやぁね、親は選べないだろ? 生まれてくる時代も選べない。ぼくは、生まれてくる時代を間違えたんだ、確実に」
彼は立ち上がり小屋の中の引き出しをあさった。
「お嬢ちゃん、タバコ持ってる?」
「わたし、吸わないから」
「あ、そう」
彼は床板をきしませながら別の引き出しをあさった。
「プロフィール詐欺だと思うかい」
「確かに、だれがどう見ても二十代ではないし、写真に載っていた人とも別人みたい。それどころか八十歳くらいの老いぼれで天涯孤独、ってかんじね。唯一あっているのは、『性別は男性』ってとこぐらいかしら」
彼は、ふっ、と笑って引き出しをしまった。
「ぼくがちょっとだけカチン、ときたのは、きっと図星だからだ。今、お茶を淹れよう」
わたしは会釈をして上着を脱いだ。
「暖炉って、あったかいのね。薪が燃えているのをじっと見ているだけでも癒される」
「それが年中ともなれば、いやにもなるさ。薪も切ってこないと」
「あなた、自分で薪を切っているの?」
「唯一の運動だ」
彼はやかんに水をいれてコンロに火をつけた。
「すまん、もう少しかかりそうだ」
彼は机上の日めくりカレンダーをめくった。
「それ、机上に置くんじゃなくて、壁にかけるものよ。それに、めくるなら朝にやりなさい、もう夜中よ」
「かけるものがないんだから、仕方がない」
破いたばかりの『七月二十六日』と書かれた一枚を、彼は暖炉の中に放り込んだ。
「今は夏……か」
彼は椅子に座り、気の抜けたため息をついた。
わたしはみるみる燃えていく一枚をぼんやりとながめていた。
二十一世紀中ごろ、火星探査ミッションの一環として火星地表下に存在する氷や塩水の成分分析が行われた。そこで火星の水が地球の水とは異なる微量成分を含むことが発見された。けれど、その物質は従来の分析技術では説明がつかず、新たな元素『クリオニウム(Cryonium)』と名づけられた。
それから約二十年後、クリオニウムは地球での合成に成功し、様々な応用研究が進められた。とくに大気中の温室効果ガスを吸着して変換する触媒特性が注目され、この新元素を活用した環境改善技術が開発された。クリオニウムの『大気中のガスと反応して熱エネルギーを吸収し、再放出しない安定状態を作り出す性質』を利用した『スマートエアタワー』が都市部を中心に設置され、さらに農村地帯には『空気冷却ドローン』を導入することにより、短期間で地球温暖化の進行を劇的に抑制できると期待された。でもクリオニウム化合物が地球環境下で長期間使用されるうちに、化学構造に微細な変化が生じることが判明、火星の厳しい環境下では安定していた分子が地球の放射線や気候条件に影響されて、地表からの熱放射を遮断する、という副作用をもつ未知の『低エネルギー状態』へと変化した。四方を海に囲まれた日本では、大気中に分散したクリオニウム化合物が海洋からの熱供給を遮断しやすい環境を作り出した。その結果、日本列島では気温が毎年低下し続け、ついに真夏の東京に、雪が降った。日本の四季から夏が消えた。
「プロフィールのことで、もう一つ謝らんと、いかんことがある」
「なに?」
少しの間があった。
「ぼくは、かなり、いや、とても変わっている」
「わかっているわよ。あなた、ヘンだもの」
わたしは苦笑いをした。
「君になら、話してもいいと思える。ぼくは、
「マジックとかじゃないのよね」
彼はうなずいた。
「あんまり、じっと見るんじゃない。失明しちゃうからね」
それを聞いて、わたしはのけぞった。
「触ってもいい?」
彼はうなずき、わたしは目をつむったまま両手の指先で光る雪に触れた。彼の雪はまぶたの裏で光を増した。指先から自分の熱が奪われていくような不思議な感覚だった。
「あなたを感じるわ」
しだいに彼の体温とわたしの体温が溶けあい、身体の境界があいまいになっていった。彼の光とぬくもりを感じる、ゆったりとした時間が流れた。
じばらくしてから、わたしはゆっくりと手を離した。
「いつから、どうやって?」
「ある日、突然できるようになった。信じられないだろうが、本当だ。科学のお偉いさんらは、新しい技術を使った人体実験なんてしなかったんだろう。学生のころ、一度だけ彼女に見せたことがある。そうしたら、こういわれた。『……死人みたい』って。確かに、ぼくの手は死人みたいに冷たかった。それ以来、だれにもいわず、見せずに生きてきた」
「不思議なこともあるものね」
彼は首をかしげた。
「もう少し、驚かれると思った」
「だって、なんか手から雪でも出るくらい、おかしなことがないと辻褄あわないような感じだなって。こんな極寒のなか、一人で小屋暮らしの時点でどうかしているでしょ?」
「それじゃあ、なぜ会おうと思ったんだい? 山奥までわざわざやって来て」
「一人でいても、つらいだけだから」
「お嬢ちゃん、中学生かい?」
「そう見える?」
大学生よ、とわたしはいった。
「あるでしょう? だれにだって突然、日常から逃げだしたくなることぐらい」
夏の東京に雪が降り積もり日照時間がはるかに短くなってから、孤独を感じる人は多くなり、それを埋め合わせるようにマッチングアプリで手軽な出会いを求める人が急増した。全国民の利用率は八十パーセントを越え、オンラインサービスが充実した。
特に困ったことがあるわけではない。友達関係に悩んでいたり、お金に困っていたりするわけじゃない。それでも時々、日常から飛び出してなにもかも投げ出したくなるときがある。わたしのような、過剰な選択肢の中で自分を見失っているような状態の若者は『飽和世代』と呼ばれ、今でもたびたびネット番組で特集されている。
日常を捨ててどこか自分が全く知らない場所で自分のことを知らない人に逢いたい、そんなことを思っているときに登録していたマッチングアプリで知り合ったのが、『
「ねえ、なんで
やかんの口が甲高い音を立てて勢いよく蒸気を吹いた。
彼は、よっこいしょ、といって立ち上がった。
「緑茶と紅茶とほうじ茶、どれがいいんだい」
「ねぇ、聞いてる?」
彼は答えないまま、戸棚からカップを四つ取り出して、それぞれに茶葉パックを入れてからお湯を注いだ。
「答えたくない、ってこと?」
わたしの前の机上にカップが四つ置かれた。彼は椅子に座ってから自分のカップを手に取った。
「雹がどういうものか、知っているかい」
「空から降ってくる、あの氷の塊みたいなやつでしょ?」
彼はうなずいた。
「一度だけ経験がある。あれにあたると痛いんだ。農作物も建物も全部だめになる。だから、それにした」
「まだ、理由がよくわからないんだけど」
彼はカップのお茶をすすった。わたしは一番手前のカップを手に取った。たちのぼる蒸気にのって、上品なほうじ茶の香りがした。
「こんな奇妙な力をもったぼくが近くにいると、だれかを傷つけてしまう。そんな気がする。だから雹なんだよ」
小屋全体が静まりかえっているなかで、暖炉の薪だけが音をたてて燃えていた。
「若いころはね、いろいろ考えたんだ。この力を使って金
彼はカップのお茶を一口飲んでからいった。
「平安のころには必要とされていた
彼は一気にお茶を飲みほしてカップを持ったまま立ち上がった。洗い場にカップを置いてから次は冷蔵庫をあさった。
「お嬢ちゃん、ビール、持ってる?」
「ごめんなさい、どこにも寄らずにここ来ちゃったから」
「あ、そう」
彼は冷蔵庫の扉をしめてからまた椅子に深く座った。
「ぼくがみじめに見えるかい?」
「ぜんぜん」
「そうかい」
それから彼は黙ってから、大きなあくびをした。つられてわたしもあくびが出た。
「いつから、ここに住んでいるの」
彼は眠たげなまぶたをあげた。
「ん、ずうと前からだよ。ずうと」
「ずっと、って?」
「ずうと、だ」
彼はまた、まぶたをとじた。
「また、ここに来てもいい?」
そのとき、彼はなにかを思い出したように、おもむろに立ち上がり、カーテンの隙間から外をのぞいた。
「……やつらだ。ついに来た」
「なに?」
「ぼくみたいな『変わり者』を探してつけているやつらだ。ぼくみたいな存在を、国は利用したがっているから」
彼の動きが機敏になり、小屋全体に緊張が走った。
「悪いがね、お嬢ちゃん、今日はこれまでだ。裏戸があるから、そこから逃げなさい。お嬢ちゃんぐらいの背丈なら通れるだろう。静かにだよ」
「あなたはどうなるの」
「ツケがまわってきただけさ」
彼は部屋の奥にある裏戸から、おお、と声をあげると、落ちていたタバコを拾い上げた。そのまま加齢で震える手でタバコに火をつけた。
「今まで自分で奪ってきた自由が、今度は他人に奪われるだけの話だ」
「あなた、捕まるの?」
「早く行きなさい、もう時間がない」
「いやよ、そんなの」
「ぼくとなら、また会える。だから今日はひとまず行きなさい」
彼がふかしたタバコの煙は、彼の顔をしばらくぼんやりと見えにくくさせた。
「……本当のことを教えて」
わたしは彼の今にも閉じそうな、ほそい瞳を見つめた。
「あなたの本当の名前を教えて」
彼はたばこをふかした。
「お互いに知らずじまいのほうがいい。またどこかで縁があったら、そのときには話すとしよう。それまではナイショだ」
「……そう」
わたしは上着を羽織り、手袋をはめてマフラーを巻いてから裏戸に向かおうとした。そのとき、彼に呼び止められた。
「のお」
「うん?」
「本当は、
微笑む彼に、わたしは微笑み返した。
「お互いさまでしょ?」
彼の微笑みを見届けてから、わたしは身をかがめながら裏戸から外に出た。来たときよりもさらに十センチくらい、雪はわたしの
足で水気のある重い雪を掻くようにして進んだ。途中、小屋のほうから鋭い銃声が鳴り響いた。瞬間、わたしの頭に嫌な想像がよぎり、一瞬、足を止めたが、振り返ることなく進んだ。身体を差すような冷風と新雪で足もとがおぼつかなかった。鼻先と肺が凍るように冷たい。それでも足で雪を掻くようにして進んだ。誰も通っていない暗がりのなかを、わたしはひたすら進み続けた。
その後三日間、わたしは高熱をだして寝込んだ。
身体が本調子に戻りつつある頃、もう一度アプリをひらいてみたけれど彼のプロフィールは削除されていた。わたしと彼のメッセージ履歴も全てデータから削除されていた。わたしはまだ身体に寒気を覚えながらも、彼がいた小屋に向かうことにした。
わたしが歩いた道のりは完全に新雪で埋められていて、わたしがそこを通ったことすらも歴史から消されているようだった。
小屋が見えた。小屋の周りは黄色い『KEEP OUT』のテープで区画されていて四人の警官らしき人物らと二台のドローンがあたりを監視していた。
――もう、あそこには行けない。
わたしはそれから森のなかをさまよい続けた。やせほそった木々のなかへと進み腰の位置まで降り積もった雪にもかまわず身体全身を使ってあてもなくさまよい続けた。どこまで来たのか、自分でもわからないまま身体が
天にのぼる息は白かったが、やがて色はなくなり身体の感覚もなくなった。
わたしは彼のことを思い出した。深みのある声、丸まった背中、ほそまった瞳、ぬくもりのある雪……。
一滴、すう、と涙が流れた。わたしは最後の力を振り絞り身体を起こしたが、立ち上がることはできなかった。
今度はもう片方の目から涙が流れ、頬と顎をつたって左手の甲に落ちた。
涙のゆく先を追っていると、ふと自分の手のなかからなにかが
わたしはそれをもう片方の指先で触れた。
あのときと同じ……。
青い雪は淡い光を放ち、あのときのような静かなぬくもりをわたしにくれた。
――これが、あなたの見ていた世界なのね。
このときほど喜びに満ちたときはなかった。
それからしばらくの間、わたしは彼のぬくもりを感じていた。
雹と出逢った日 神崎諒 @write_on_right
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