第2話 聖女は淑やかに導かれた。

 聖女ハルが召喚されてから、三年後。



「先生、ではまた後程」



 口元をいつの間にか拭った淑女が、そっと席を立って礼をとった。



「ご挨拶する相手も多いでしょう。時間はあります。急がずとも良いですよ……ハル」



 ツイーディアが気を遣うと、黒髪黒目の聖女は薄くほほ笑みながら首を少し振った。



「高位元素とでも呼ぶべき、新たな魔素の可能性について、まだお話が足りていません」


「残りは準備をし、時間をとって行いましょう。すでに現在の示唆で、検討に値します」


「ほんとですか!? ぁ……ん。ご配慮、ありがとう存じます」



 喜びの声がつい口をついて出たらしく、ハルは慌てた様子で淑女の顔に戻った。



「礼を失したついでに言ってしまいますが、私は単に先生ともっとお話がしたいだけです」


「知っています。行ってらっしゃい」



 ツイーディアが応えると、聖女は華やぐような笑顔を頭を下げて隠し、テラスから出て学園へと戻って行った。



 給仕の下げる食器を見ながら、ひとり残ったツイーディアは、この三年に想いを馳せる。


 腰を締めたドレスを着ても、難なく食事も生活もこなすようになったハル。


 たった3年で、自身と専門的な魔法議論を交わすようになったハル。


 そして。



(嗚呼。本当に美しい……)



 ツイーディアは下げられる最後の一皿を見て、瞳の奥に歓喜と法悦を浮かべる。


 皿には僅かなソースと……皮と骨が残されていた。


 白身魚の焼き物。骨の多い魚で、小ぶりのため丸ごと一匹で調理される。


 その可食部が、すべて綺麗になくなっていた。ほんの小さな身も欠片すら残っていない。



(三年前から、変わらず……貴女は元々、真に淑女であった)



 ハル自身も故郷でかなり躾けられていたらしく、姿勢もよく言葉遣いも丁寧で、作法の心得もあった。


 当然にこの世界のものとは異なるため、教育が必要ではあったが、芯の部分はとうに出来上がっていた。


 中でもツイーディアが目を奪われ、否、のが。



 魚の食べ方、である。



(あの頃は箸。今はナイフとフォークで、完璧に魚を食べきる。

 同じことは私もできる。だが彼女の方が、ずっと美しい。

 ――――――――たまらない)



 獣性すら宿す己が情欲を胸の内に飲み下し、しかしツイーディアは隠しきれぬ想いをほぅっとため息に乗せた。


 出会った頃からそうだが、ツイーディアはハルが魚を食べる様子を見るとはっきり欲情した。


 彼女自身も理由は分からないが、たまらぬものが腰の奥から全身を駆け巡るのだ。



 フィライト王国は豊かな川が流れ、しかも南端は海に面している。


 魚介の食文化は盛んで、美しく魚を食べられる者は密かに敬意を集めていた。


 そうした文化的背景から来るもの……にしても特異な性質を、公爵令嬢ツイーディアは抱えていた。



 なお箸については、東方から流れてきた食器の一つである。


 海運が盛んなため、フィライトは広く国・文化の交流を持っていた。



「おい、ツイーディア」



 三年前、初めて会って会食したときの衝撃と快絶を思い起こしていたツイーディアは、不躾な声に物思いを遮られた。


 思わずテーブルの扇を手に取って口元を隠したのは、激昂したからではない。陶然としていた己の顔を、隠すためである。


 遠慮なく自身の前の席に座った、己の婚約者から。



「おや、ジェイド殿下。かようなところにおいでとは」


「なんだその呼び方は。当てつけか? 貴様」


「いいえ、ただの区別です。それで?」



 ジェイド王子は無作法にも片付いたテーブルに身を乗り出し、ツイーディアをじっと睨んだ。



「俺の聖女をどこにやった、ツイーディア」


「――――さぁ、なんのことでしょう」


「とぼけるな。ハルはどうも……俺を避けている」



 ため息をつくジェイドに、ツイーディアはそっと笑みの籠った瞳を向けた。


 王子の語った内容は、こうだ。


 ハルになかなか会えないし、会ったら会ったで予定があると逃げられる。


 時々、ツイーディアのような皮肉気な言い回しをして不快だ、とも。


 ハルを今日の卒業祝賀会に誘っても色よい返事をしないばかりか、王城での別の会に出席するらしいと聞いて、ジェイドは気を揉んでいるようだった。


 さらには王城の会が第二王子トライとハルを称えるものらしいと言い出し、トライ王子の愚痴へと発展。


 ジェイドは自身がハルを召喚して魔王の呪い祓いを始めたのに、トライがそれを引き継いで完遂したことが気に食わないらしい。


 おまけにその功績を認められ、王太子の座はジェイドからトライへと渡った。


 そうして最後に、全部貴様が何かしたのだろう!?と席を立ってツイーディアに詰め寄るわけである。



 酔客のように勝手に激昂しては勝手に人を貶める婚約者に、ツイーディアが心底うんざりし始めた頃。






「あら。せんせを差し置いて上座にいてはるなんて、王子殿下はたいそう出世されはったんですなぁ」






 冬の大河を思わせる声が、オープンテラスの一瞬の静寂の中をすらっと流れた。

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