第10話 もう一人の円城寺――夢で見た幻
夜が深まり、静寂に包まれた部屋。いつものように眠りについたはずの円城寺は、突如として不思議な夢に引き込まれる。
夢の中、彼は自分がもう一人いるのを目にする。まるで鏡の中から抜け出したかのように、“別の円城寺潤”がそこに立っていた。
「お前は……誰だ?」
と聞いても、相手はにやりと笑い、「俺は“もう一人の円城寺”だよ。お前が捨てたはずの夢を背負っている」と答える。
さらに混乱する間もなく、景色ががらりと変わり、まるでラリーのサービスパークらしき場所に移動している。多くのラリーカーが並び、どこからともなくスピーカーで案内が流れる。
夢の中の“もう一人の円城寺”は、監督かチーム代表のようなジャケットを着て、メカニックやスタッフを指示している。
「さあ、まもなくスタートだ。今回のドライバーは高槻亜実。今度は本物のラリー車で世界に挑むんだ」
その言葉を聞いて、円城寺は目を疑う。そこには亜実が本格的なラリー車に腰を下ろしている姿が見えたのだ。
夢の光景はあまりにもリアルだ。広大なサービスエリア、チームトラックが並び、世界中のラリーファンが集まる国際ラリーイベントのようだ。ポディウムやスポンサー看板がきらびやかで、憧れのWRCを想起させる。
そこに“監督”として君臨しているのが、もう一人の円城寺潤。本人には全く馴染みがないが、彼は堂々とメディアのインタビューを受けている。
「今回はうちのエースドライバー、高槻亜実が世界初挑戦です。俺が彼女を見つけ育て上げ、ここまで連れてきた。4WDの本格ラリーマシンと、亜実の才能があれば勝ち目はある」
そうやって自信満々に語る姿は、現実の円城寺が憧れながらも手放した、“ラリーで世界へ行きたい”という夢の延長かもしれない。
そして、その話を傍で聞いている現実の円城寺(夢の中にいる“本人”)は混乱する。「どうして俺が亜実を推すんだ? 俺はあの子に負けたし、ラリーなんて嫌いなはずなのに……」
しかし周りはそんな彼を気に留めず、メカニックたちは着々とマシンを仕上げている。ハイスペックな4WDのラリー車は、RC Fとは似ても似つかない。本物のラリーモンスターといえる仕様だ。
亜実は車の周りを歩き、ロードブックを確認している。ヘルメット越しの瞳は真剣で、あの日のラリークロスよりもはるかに強い気迫を感じる。
「じゃあ、スタート位置へ移動しましょう。監督、どうぞ」
メカニックが声をかける。“もう一人の円城寺”が頷き、亜実と共に歩き出す。車に乗り込む前、亜実は監督役の円城寺に軽く笑みを投げ、言う。
「監督、行ってくる。絶対に勝ってくるから」
「おう、頑張れ。俺が見込んだドライバーだからな」
2人はまるで師弟のような信頼関係を醸し出す。現実の円城寺は、そのやり取りを見て複雑な気持ちになる。何かがずれている、これは夢に違いない……でも、なぜこんな展開なのか。
コ・ドライバーも乗り込み、ラリー車はスタートゲートへ向かう。コースは未舗装路と舗装路が入り混じったワールドラリー選手権そのものだ。観客が沿道を埋め尽くし、亜実がアクセルを踏み込むとエンジンは甲高いサウンドを放って飛び出す。
「……すげぇ。俺が捨てたはずの世界に、あの子は適応しているのか」
現実の円城寺は遠巻きにそれを見守る。まるで映画を観ているような感覚。いつの間にか“監督”の自分はサービスパークに戻り、スタッフに指示を出しているが、そちらのシーンは背景のように流れていく。
夢の中のステージは、象徴的な風景が次々と切り替わる。森林地帯を抜けたかと思えば、険しい山岳路、さらにターマックの高速区間へ転じ、亜実のラリー車が華麗にコーナーを攻め続ける。
実況やヘリの撮影が入り、テレビ画面のような映像が脳裏をよぎる。会場の熱狂、舞い上がる土埃、カメラのフラッシュ。まるで世界トップレベルのラリー大会に参加しているかのようだ。
そこには苦戦するラリーカーも混ざっているが、今や亜実のマシンはワークス勢を相手に互角の戦いを繰り広げていた。
「まさか、本当に世界まで来るなんて……」
見ている円城寺は思う。一方で、“監督の円城寺”はステージリザルトを確認し、興奮した様子で「いいぞ、亜実! このまま行け!」と声を上げている。
最終SS(スペシャルステージ)まで来て、どうやら亜実が総合首位に立ったという場面に突入する。ラリーカーがゴール地点へ滑り込むと、大きな歓声と紙吹雪が舞い、MCが「初優勝だ!」と叫んでいる。
“もう一人の円城寺”が、亜実を迎えてステージに上がり、トロフィーを抱え、満面の笑みで写真に収まる。まるで映画のハッピーエンドだ。
しかし、その映像を遠巻きに眺めていた“現実の円城寺”は、一層強い違和感を感じる。これは俺が欲しかったはずの未来なのか。俺が捨てた夢を、なぜ亜実が実現して、監督の俺が拍手しているのか。
胸が苦しくなり、視界が歪む。喜びのはずなのに、暗い影が落ちる。すると、誰かが囁くように声をかける。
「いいのか、あの子が世界に挑んでいるのに、お前はそのままラリーを嫌い続けるのか……?」
気づけば景色が暗転し、広大な砂漠のような荒野に移り変わっていた。さっきまでの華やかなゴールセレモニーはどこへやら、冷たい風が吹き抜け、赤い夕陽が地平線に沈む。
そこに“もう一人の円城寺”が一人立っている。背中越しに「なあ、お前、本当はラリーが好きなんだろう?」と問いかける。
「うるさい……嫌いだって言ってるだろ」
現実の円城寺は答えるが、その言葉に自信はない。夢の中で嘘をついている感覚に駆られる。
「じゃあ、なぜRC Fでダートを走る? なぜ亜実という才能に惹かれる? お前が世界を捨てたはずなのに、まだここにいるのはなぜ?」
問い詰められ、円城寺は言葉に詰まる。周囲には乾いた空気が漂い、まるで砂漠に迷い込んだ心地だ。もう一人の円城寺は続ける。
「お前は夢を失ったんじゃない。夢に失望して自分から逃げただけだ。だけど、夢はまだそこにある。亜実のような若い才能が示す未来に、お前は嫉妬しながらも希望を見ているんだろう?」
夢の中、円城寺は歯を食いしばり、わなわなと震える。認めたくなかった言葉を突きつけられ、無理やり蓋をしていた想いが溢れそうだ。
――俺はラリーが嫌いじゃない。むしろ、本当は好きだったからこそ、挫折が苦しかった。
認めれば苦しみが再来する。あの海外での敗北感、資金が尽きた絶望、スポンサーに見放された屈辱。だから逃げた。走ることをやめずに、ラリーを避ける道を選んだ。
すると、遠くから風が吹き抜け、もう一人の円城寺がぼやけていく。視界が白んでいき、目の前が真っ白に染まる。
「そうか……目が覚めるのか……」
最後に呟いたのは、どちらの円城寺だったのか、分からなかった。
――次の瞬間、円城寺は自宅のベッドで飛び起きた。周囲は暗い室内、夜が明けかかっている。時計を見れば午前4時過ぎ。汗がびっしょりだ。心臓がバクバクしている。
「何なんだ、今の夢は……」
頭を抱え、深い息をつく。亜実が本格ラリー車に乗って世界に挑んだらどうなるか。もう一人の自分が彼女の監督をしていた。その光景がリアルすぎた。
窓を開けると、まだ薄暗い空気が入り込み、秋の冷たい風が頬を撫でる。落ち着かない胸の鼓動に、円城寺は手を当てて自問した。
「もし、本当に亜実が世界を目指す日が来たら、俺はどうするんだ? 嫌いだと言いながら、また同じ土俵に立つのか? それとも今度こそ逃げるのか……」
ラリークロスで彼女に負け、そして学校でラリー部を見て、さらにこの奇妙な夢まで見た。まるで何かに導かれているような気さえする。
もう一度ベッドに腰を下ろし、コップの水を飲み干した。ラリーに戻るなど考えたくない。でも、RC Fを捨てる気にもなれない。ダートを走る喜びは脳裏に鮮明に残る。
「何かのサインなのかな……」
独白する声だけが、静かな部屋に溶けていく。
もうすぐ夜明け。外は少しずつ明るさを取り戻し始めている。どこからかカラスの鳴き声が聞こえた。
円城寺は窓の向こうを見つめる。朝日が差し込めば、新しい一日が始まる。いつか、夢に見たラリーの世界に、彼自身もまた違う形で関わることになるかもしれない。あるいは、心からそれを拒むかもしれない。
いずれにせよ、高槻亜実という存在が、彼の中で眠りかけていた“何か”を揺り起こしたのは確かだ。――もう一人の自分が示した未来。
彼女が本格ラリー車に乗り込む光景を思い返すと、悔しさと羨ましさと、一抹の希望が入り混じる。それは果たして、悪夢だったのか、それとも小さな救いを含む予感だったのか。
円城寺は小さく笑みを浮かべて、スマホを手に取る。まだ時間は早すぎるが、どこかに連絡を入れたくなった。
(亜実のラリー部……いや、やめよう。今はまだいい)
画面を消し、静かに深呼吸する。今日も仕事があるし、教育長として動かなければならない。
でも、心の奥で芽生えつつあるものに、気づかないふりはできない。もう一人の円城寺が監督として見せた光景を、ただの夢とは思えないのだ。
いつか本当にあの子が世界を目指すとき、俺は果たしてどんな顔をして彼女を見送るのだろうか。
そう自問しながら、円城寺はゆっくりと家を出る準備を始める。東の空が赤く染まり、朝の匂いが広がっていく中で。
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