第9話 揺れる円城寺の心
ラリークロス決勝は、誰もが驚く結末となった。RC Fを駆る円城寺潤が鉄板の勝利かと思われたが、最終コーナーで高校生ドライバー——高槻亜実のフィットRSが逆転し、ゴール直後にブローしながらも先にチェッカーを受けた。
“天才FRドライバー”と呼ばれた円城寺が、まさか市販コンパクトカーに負けるなど夢にも思わなかった……あの日、彼は苛立ちと失望、そして説明のつかない混乱を抱え、自宅に帰った。
ゴールデンウィークが終わった日の初めての平日、空には灰色の雲がかかり、時折小雨がぱらつく。そんな中、円城寺は重い頭を起こし、黒のレクサスLFAのキーを手に取る。昨夜はほとんど眠れず、ひどい頭痛に苛まれたが、今日やるべきことがある。——そう、自ら提起した「ラリー部廃部」の件をどう取り下げるか、工業高校のラリー部顧問・佐伯と正式に話し合うため、学校へ向かうのだ。
「まったく……敗北の余韻が残ってるっていうのに、なぜ俺がこんなことを……」
しかし言葉とは裏腹に、どこかで心が落ち着かない。まるでこれから迎える日が、自分の人生を別の方向へ再び向かわせるかもしれないという予感がする。
15時過ぎ、工業高校の正門前。
真っ黒なボディのレクサスLFAが静かに滑り込む。V10エンジンの洗練された排気音が門をくぐる時、警備員や登校中の生徒が思わず息を飲む。
つい数日前、円城寺はラリークロス会場にRC Fを持ち込み、話題をさらったばかり。だが、今日はなぜかLFAで登場。生徒たちが「うわ、LFA!」「カッケー!」と囁き合う。彼は教育委員会の要職ということもあり、意外と学校への出入りに権限がある。
(ふん、RC Fで負けたのがトラウマになったわけじゃないさ……このLFAも嫌いじゃないが、もう俺には何も関係ないだろう。ラリーなんてやめておきたいが……)
ステアリングを切り、駐車スペースに静かに停める。ドアを開いて降り立つ円城寺の姿は、一見冷静に見えるが、心の底ではまだ昨日の衝撃が消えていない。
学内ではラリークロス決勝のニュースが既に広まっており、「高槻亜実がRC Fの円城寺に勝ったんだ!」という話がそこかしこで囁かれている。そんな空気を感じ取るたび、彼の胸は苦い感情でいっぱいになる。
案内もそこそこに、円城寺は校長室を訪れた後、ラリー部の部室へ向かう。廊下を歩くと、作業着姿の生徒が挨拶してくるが、彼は微かに会釈するだけで言葉を返さない。
部室は自動車コースの実習棟の一角にあり、扉には大きく「ラリー部」と貼り紙がしてある。中から聞こえるのは金属音と軽い笑い声。どうやら部員たちが昨日の疲れも感じさせず、何やら作業中らしい。
円城寺はノックしようか迷ったが、扉が開き、中から顧問の佐伯が顔を出す。「あ、円城寺さん……お待ちしてました。こちらへどうぞ」と深くお辞儀する。
部室に足を踏み入れると、テーブルの上にはフィットRSのエンジン部品らしきパーツが散らばっている。おそらくブローしたマシンを早くも分解し、状態を確認しているのだろう。
円城寺はその光景を見て唇を噛む。
(昨夜のレースで俺を抜いた張本人……このコンパクトカーが……)と記憶が甦り、苦々しさをこらえる。しかし、今日はラリー部廃部の件を処理するために来たのだ。嫉妬を見せてはならないと自分に言い聞かせる。
部室の奥には簡易ソファが置いてあり、佐伯はそこに円城寺を案内する。部員たちは軽く会釈するが、昨日のレースを見たばかりなので、畏まった空気が漂う。
「正直申しまして、今回のラリークロスにおける結果を踏まえ……円城寺さんが廃部を望む理由もないと理解してよろしいでしょうか?」
佐伯が控えめに切り出す。
「……ええ、まあ。」円城寺は曖昧に頷く。
「そもそも私は“ラリー部なんてなくてもいい”と思っていましたが、昨日の結果を見れば、これだけの若い才能がある部活を潰す意味が……ない……ですからね。」
歯切れが悪い。あの敗北を言及するわけにいかないし、かといって取り繕うことも難しい。
佐伯は内心で(彼なりに認めたということか)と察する。「そう言っていただけるなら、私たちも助かります。これでラリー部の存続問題は白紙に戻せますね。ありがとうございます。」
「…………」
円城寺は短い応答に留める。苦い思いを噛み殺しつつ、廃部は取り下げると示すしかない。昨夜のレースで負けた状態で「やはり廃部だ」などと言うのは自分の醜態を晒すだけだ。
ちょうどその時、部室の扉が開き、高槻亜実が入ってくる。17歳の少女。コンパクトな体格だが、表情には活力がみなぎっている。ブローしたフィットRSのパーツを探しに実習室へ行っていたらしい。
「顧問、こんなの見つけましたけど……」と言いかけて目線を上げ、円城寺と視線が合う。数秒の沈黙。
「あ……あなたが……円城寺さん……」
2人は初めて直接会話する。前回のコース上でわずかに姿は見ていたが、こうして対面するのは初だ。亜実は戸惑いながらも礼儀正しく頭を下げ、「あの時は対戦ありがとうございました」と言う。円城寺はその言葉に胸がズキリと痛むが、軽く頷く。
「……ああ。君が、フィットRSを駆っていた……高槻亜実さん、だね。いい走りだったよ、正直驚かされた。まさかあんなFFコンパクトで……」
言葉を切りながら歯を噛む。亜実は控えめに笑う。
「いえ、最後までエンジンがもてばいいなと思って走っただけです。RC Fの迫力はすごかった……ドリフトでみんなを沸かせるし、私なんか本当にギリギリで……」
(いや、勝ったのはお前だろう……)円城寺の胸に苛立ちが広がるが、何とか表情を保つ。
なんとなく気まずい沈黙が漂う中、亜実は「フィットRS、今こんな状態なんです」とパーツを指す。ピストンにダメージがあるのが見える。
「予想よりもダメージが大きくて廃車寸前って感じですけど、私たちが手をかければ、また直せるかも。まだ走れる見込みがあれば……。でも予備エンジンとかお金の問題もあって……」
彼女は困ったような笑みを浮かべるが、それでもあきらめる気配はない。「今度はブローせず完走したいんですよね。あの子(車)をまた走らせたい」という言葉に、“車への愛着”がにじむ。
円城寺は少しばかり呆れ……いや、興味を抱く。(あの程度のコンパクトカーをそこまで愛せるのか?) それは彼がLFAやRC Fを持つのとは違う純粋さかもしれない。
「はあ……まぁ、頑張ればいいんじゃないか? ——あれを再起させるなんて、正直無駄なようにも思えるが」
自分でも棘のある言い方だと分かるが、どうにも素直に励ませない。亜実は首を振り、「私には大事な仲間なんです」と返す。その瞳に曇りはなく、むしろ円城寺が萎縮しそうになるほど強い光を放っている。
ひとしきりフィットのダメージ状況を見終えたあと、話題は自然と「ラリー」という競技に移る。
亜実は無邪気に言う。「私、いつか本格的なラリーにも出たいんです。免許取ったら国内戦や、将来は海外にも行けたら……。円城寺さんは……ラリーはお好きなんですか? あんな速さを見せるなら、きっと……」
その瞬間、円城寺の表情が強張る。
「…俺はラリーを嫌ってる。 馬鹿げたスポーツだと思うし、好きでもないんだ」
亜実はきょとんとする。「え……でも、ラリークロスに参戦されたり、ダートであんなスキルを持っているのに?」
円城寺は言葉に詰まる。正直、“WRCで挫折したから”などと説明する気はない。でも、気づけば視線を逸らし、苦々しく唇を噛んでしまう。
「……4WDとか、ラリーカーとか、そういうのは……嫌いなんだよ。俺には向いてない」
それは自分に対する言い訳でもある。部室の端で佐伯が不安そうな面持ちで佇んでいるが、口を出さない。もし円城寺が本心を晒すなら、彼自身のタイミングで語るしかない。
ここで亜実が小首をかしげて、「でも……あのレース中、円城寺さんの走りはとっても華麗でした。ダートでFRをあそこまで振り回すには、ラリー的なテクニックが必要ですよね……」と素直に賞賛する。
「……」
「私、あれ見て思ったんです。この人、本当はラリーが好きなんじゃないかなって。噂だと嫌いって言ってるけど、多分嘘だろうって……」
その発言に、円城寺は眉をひそめ、心が大きく揺れる。
(ラリーが好き? そんなわけ……俺はラリーを嫌ってる……はず……)
だが、否定しようとして口が動かない。確かに昨日、FRをあそこまでドリフトで制御した感覚は、かつてのラリーの走りを思い出すものと言われてもおかしくない。嫌いと言いながら何故、あんなに力を入れてしまうのか……自分自身でも矛盾を抱えているからだ。
亜実は続ける。「だって、嫌いならそこまでダート走り込まないでしょう? 私なんてラリーとかダートが大好きだから、フィットで泥にまみれても笑ってられるんですけど……円城寺さんもきっと同じじゃないのかなって」
円城寺は言い返せず、顔を逸らす。「黙れ……俺はラリーなんて……」と弱々しく呟く。だが、その声はあまりにも力がなくて、説得力が皆無だった。亜実の眼にはその表情が一瞬切ないものに映る。
部室での会話が終わり、ラリー部廃部は正式に回避されることになった。その後、円城寺は校長や関係者へ挨拶し、「廃部は撤回する」と明言する。生徒たちは安堵し、亜実も嬉しそうな笑みを浮かべる。
だが、円城寺は複雑な表情のまま、ひとこと「じゃあ、私はもう失礼します」と切り上げてレクサスLFAに乗りこむ。
外では亜実が手を振って「円城寺さん、今日はありがとうございました!」と声をかけるが、彼は窓を閉めて発車してしまう。
(くそ……ラリーが好きだなんて言われて、動揺するなんて。俺は……)
学校を離れ、幹線道路へ出ると、LFAのV10サウンドが大通りに反響する。いつもなら誇らしく感じるエンジンの咆哮だが、いまは胸をかきむしるような不快感を覚える。何か大事なものが壊れかけていて、頭の中が混乱していた。
“嫌いと言いつつ本当は好きかも”——あの亜実の言葉が耳から離れない。
夜。円城寺は自宅のソファで一人、グラスを傾ける。照明を落とし、部屋に薄暗い影を作っているのは、LFAのシルエットが映るガレージのライトだけ。
今日の出来事が頭を巡る。ラリー部廃部問題は消えたが、その過程であの女子高生に言われた「ラリー好きなんじゃないか」という言葉が深く突き刺さった。
(俺は……ラリーを捨てたはずなのに、あのフィットに負けたことから、こんなにも苛立ちを覚え、そしてまだラリーを走りたい欲求がこびりついている……?)
ウイスキーを飲み干し、ベッドに崩れ込む。「くだらない夢は見るなよ……もう寝よう」とぼやくが、瞼を閉じると脳裏にラリーの光景が浮かぶ。
そして、そのまま眠りへ沈み込む。奇妙な夢が訪れるとは知らずに……。
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