第4話 屈折した負け犬のプライド――資産家 円城寺潤という男

 夜の街灯が幹線道路を淡く照らす。円城寺潤は、黒いレクサスLFAのステアリングを握りながら、わずかに不機嫌そうに唇を結んでいた。V10エンジンの天使の咆哮サウンドがトンネルを抜けるたび、腹の奥に響くが、彼の心はどこか別の次元に沈みこんでいるかのようだ。


 (――やっぱり、あの時の挫折を捨てきれない。WRCに挑んで、資金も実力も足りなくて、あっけなく世界の壁に突き飛ばされた……)


 思い返すのは、8年前の海外遠征。夢はWRC(世界ラリー選手権)で戦うラリードライバーになることだったが、スポンサーも集まらず、強豪たちの異次元スピードに屈し、あっという間に帰国する羽目となった。心に残ったのは「日本の環境じゃ通用しないのか……」という絶望感と、ラリーへの――正直に言えば、嫌悪感だった。


 そのくせ、地元である愛知では資産家で、経営者や企業の走行会などでも顔を出さなければならない立場。そこで必要になったのが“趣味のスポーツカー”だ。最初はレクサスLFAという超弩級の車を手に入れ、自分のプライドを慰めていたが、さらに経営者とのダート走行会が定期的に行われると聞き、ダート用に一台選ぶ必要があった。


 (本来なら、ラリーといえば――ランサーエボリューションやインプレッサWRX、GRヤリスみたいな4WDターボが定番だろう。だが、俺はそんなもの絶対に選ばない。あんな”ラリーカー”を見ると昔を思い出す……虫唾が走る)


 そう思いながらも、“ダートを走らねばならない”という状況。そこで彼が屈折した末に出した結論がFRクーペの「レクサスRC F」だった。2WDで重く、ダート走行には明らかに不向き。ただ、その不利を「俺の腕さえあれば4WDラリーカーなんかに頼らなくても速く走れる」と意地を張りたかったから選んだ面もある。


 LFAで街を走り、自宅へ帰る道すがら、円城寺はRC Fについての思いを改めて振り返る。4WDとFRの違いについて、彼は痛いほど知っている。4WDは4輪すべてに駆動力がかかり、ダートや雪道でも高いトラクションを得る。コーナー立ち上がりで圧倒的に速いし、スピンもしにくい。 FRは後輪だけで駆動するから、前輪はステアリング専用になり、重心移動を利用したドリフトコントロールがしやすいとも言えるが、極限ではトラクション不足に陥りやすい。特にダート路面では、4WDの安定感に及ばなくスピンしやすいのが常識だ。


 「だからこそ、FRで4WDを倒してみせる——そう思ったんだ。RC Fをダート仕様にいじって走りまわったら、意外と自分に合ってたのか、いつしか地元で“あのFRで最速”なんて囁かれるようになって……」


 自宅近くの交差点で赤信号に止まる。アイドリングが静かに耳を包み、彼は浅く息を吐く。


 (地元で“一番速い”なんて呼ばれても、本当のトップは海外にいる。それを知ってるから虚しいだけだろうに……でも、俺もまだ何か捨てきれない。)


 最近になって日本人若手ラリー勢がWRCや海外ラリーで活躍し始めたというニュースが度々耳に入る。ネットでも話題を見かけるたび、胸の奥がうずくような嫌悪がこみ上げる。

 「なんなんだ……あいつら、俺があんなに苦労して届かなかった世界を、簡単に踏破しようってのか?」

 思わず小声で呟き、ハンドルを強く握りしめる。やがて信号が変わると、LFAのV10サウンドを響かせて発進。だが、その音すら彼にとっては満たされぬ自己嫌悪を反映するだけだった。


 自宅のガレージに到着し、シャッターを上げる。中にはRC Fも鎮座している。パッと見はラグジュアリークーペのままだが、サスペンションや下回りなどをダート向けに改造してある。その狂気じみた姿は“走る名刺代わり”としてラリークロス走行会で名を馳せ、いつしか地元最速FRドライバーと呼ばれるようになった。

 しかし、円城寺自身はその称号に誇りを感じているわけでもない。

 (どうせ地方の遊びだろ。4WDが本気出したらFRなんてかなわない、そういう陰口も聞く……でも、それでいいんだ。俺はラリーに負けたんだから。いまさらエボやWRXに頼る気もない。フン……)

 エンジンを切ると、静寂がガレージを支配する。前照灯の残光がRC Fのボンネットを照らし、艶めく塗装が浮かび上がる。「……いつまでも俺はこんな歪んだプライドに固執してるのか」と呟きたくなるが、思考は先ほどスマホで見たある動画に向かう。


 それはダートトライアルを走る女子高校生、名を高槻亜実という。まだ17歳ながら、明らかに異次元のコーナリングを披露し、周囲を驚愕させていた。日本のラリー界では“最年少の注目株”と呼ばれ始めているらしい。

 (……まさか高校生ごときが4WDラリーカーでもないのにこんな走りを? 単なる噂なのかもしれないが、動画の動きは明らかに本物っぽい。……嫌な感じだ。俺が踏み破れなかった壁を、未成年が軽々と越えるとか……)

 スマホ画面に映る亜実のマシンが、砂煙を上げて軽快にカウンターを当てる姿が脳裏にこびりつく。手の中の血がざわつき、また“虫唾が走る”感覚に苛まれる。若き才能の存在は、彼の傷を容赦なく刺激していた。


 「……勝手にやってればいい。ラリークロス大会で叩き潰してやるがな……」


 吐き捨てるように言葉を紡ぎ、円城寺はガレージを後にする。夜の闇が彼を包む中、LFAのボンネットに残るかすかな熱気が消えていく。

 彼の胸には、二度とラリーなんか信じないという思いと、未だに捨てきれない挫折の痛みが、絡み合ってうごめいている。

 日本人が世界で活躍しているラリーのニュースなど、耳にするたび虫酸が走る。——だが、その屈折した感情が、やがて彼と亜実を巡る大きな運命を動かしていくとも知らずに。


こうして、円城寺潤は夜の帰路につく。WRCに挑んで跳ね返された苦い記憶、4WDラリーカーに対する嫌悪、そしてFRのRC Fを選んだ歪んだ理由。それらが彼の中で混ざり合い、若き才能を見るたびに胸をかきむしっていた。

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