第3話 黒き”天使の咆哮”に乗った来訪者――ラリー部を揺るがす教育委員会委員長の煽り
愛知県のとある工業高校——そこには、ありふれた部活とは少し毛色の違う「ラリー部」が存在した。モータースポーツへ情熱を注ぐ生徒たちが集まり、週末にはダートコースで練習走行をする。顧問の佐伯は元ラリードライバーで、生徒の安全を見守りながら指導している。しかしこの春、学校の姿が大きく揺らぐ事件の予感が漂い始めた。
委員長という名の教育委員会トップの立場で、この工業高校を視察にやってくる男がいる。彼の名は円城寺潤(えんじょうじ じゅん)。35歳で黒のレクサスLFAを乗りこなす実業家兼資産家でありながら、噂では“ラリーを嫌っている”という不穏な話が囁かれていた。
この日、円城寺はレクサスLFAで校門をくぐり、校長室を軽く訪れた後、ラリー部の顧問である佐伯へ「直接話がある」と告げた。ここから生まれる衝突が、のちに工業高校ラリー部と、17歳の女子高生ドライバー・高槻亜実の運命を大きく左右していくのだが——。
まだ春先の冷たい風が残る朝、高校の敷地に黒のレクサスLFAが滑り込む。V10エンジンのクリアなエンジン音は天使の咆哮と呼ばれるほどで、周囲の生徒や教職員が目を見張る。工業高校だけあって車好きの生徒は多く、ざわつく者も少なくない。
「何だあれ……レクサスLFAだよな! 初めて生で見た……」
「すげえ、委員長って言ってたっけ? 金持ちなんだろうな……」
そんな囁きを背に、円城寺潤は車を降りて校舎に入る。スーツ姿だがどこかラグジュアリーな雰囲気をまとう男。校長に軽く挨拶を済ませると、すぐに「ラリー部の顧問に会わせてくれませんか」と要望を伝える。校長は「わかりました、案内します」と慌てながら動き出した。
この工業高校には伝統あるラリー部がある。自動車企業や部品メーカーからの支援を受けていて、国内ラリーにも積極的に参加しているという。教育委員会の職務上、円城寺もその活動を視察しなければならない——表向きはそう言っているが、実際に彼が何を目論んでいるかは不透明だ。
(ラリーなんて……くだらないと思ってるが、建前上、視察は必要だ。どうせ大したことない連中だろうけど……)
そんな腹の内を抱えながら、円城寺は校舎を歩き、やがて部室棟の一角へ通される。そこには「ラリー部」と書かれたプレートがかかった扉が見えた。
ノックをしてドアを開けると、奥に一人の男性教師がいた。ラリー部顧問、佐伯というらしい。手にオイルが付いたタオルを握り、工具箱の前でパーツを点検している様子だ。
佐伯は振り返って、「おや、来客ですか……? いらっしゃいませ、どなたでしょう」と軽く頭を下げる。そこで校長が「教育委員会の円城寺さんだ。うちのラリー部を視察に来られた」と紹介すると、佐伯は表情を引き締めた。
「佐伯です。元ラリードライバーで、今は顧問をしております。……まさか教育委員会の委員長がここまで来るとは、珍しいですね」
円城寺は余計な遠慮もなく、スーツのまま部屋の中央へ進む。ラリー部特有の機材やポスターが貼られた空間を一瞥し、鼻で軽く息をつくように微笑んだ。「ええ、まあ。“ラリー部”がある工業高校ということで、教育委員会としても直接見ておかなきゃと思いましてね。……ざっと、こちらの活動状況を教えてもらえますか?」
佐伯は内心で「嫌な雰囲気を醸す男だな……」と感じつつも、表向きは礼儀正しく対応する。「そうですね、うちは自動車系のコースがある強みを活かし、車両整備からラリー走行までを学ぶ部活です。実際にダートトライアルやジムカーナもしており、国内ラリーへの参戦実績も……」
「ふん、そういう若者の活躍が目立ってると。近年日本人若手ドライバーがラリーで注目されている、と聞きましたが……」
円城寺はそう口にしながら、どこか棘のある笑みを浮かべる。佐伯はその態度に違和感を覚えたが、「ええ、日本人の中にも若くして海外ラリーに出る子が増えてきまして……」と答える。
「その……この部に“高槻亜実”という子がいませんか?」
唐突な質問に、佐伯は驚く。
「え? 知ってるんですか、彼女のことを?」
「いや、名前だけ。実際に実力があるのか確かめたいと聞きましてね。……動画とか、ありませんか?」
佐伯は少し躊躇するが、ここで隠すわけにはいかない。部活の資料として撮影したダートトライアル映像があるから、それをタブレットで再生することにした。
流れる画面には、未舗装のコースをコンパクトカーが疾走する姿。激しく砂利を飛ばしながら、しなやかにコーナーを抜けるフォームは素人のレベルを遥かに超えている。
「これが亜実ですね。14の頃からダートを走っていて、今17歳。免許はないですが……動画でも分かるように、異様に速いんですよ。実際にラリー界でも『17歳にしてこのタイム?』と驚かれているぐらいで……」
佐伯は苦笑しながら説明する。亜実が若手として既に名が知られ始めている事、ローカル大会でも上位に食い込んだ実績がある事を付け加える。映像の中、車体が大きくスライドしても亜実は冷静に姿勢を立て直し、コースアウト寸前のラインを攻め続けている。
「ほう……17歳でこの走りか」
円城寺は画面に目をやりつつ、「確かに素人にしては速いな」と小声で漏らす。ただ、その口調には褒める感じが薄く、“どこか面白くなさそう”にも聞こえるのを、佐伯は見逃さなかった。
「若いドライバーの活躍は嬉しいことですが……あなたのお顔を見るに、あまり好感を持ってないようですね?」
佐伯が直球で問うと、円城寺は淡々と応じる。「いや、まあ……近年日本人がWRCでどうのこうのと騒がれていますけどね、私はラリーがどうも好きになれないんですよ。あの危険性や、海外で痛い目を見た記憶もあるし。どうも……ね」
そう呟いた時、ほんの一瞬、彼の瞳に暗い影が宿ったように見えた。挫折か、あるいは嫌悪の念か。佐伯は胸騒ぎを覚えるが、深入りするのはやめておくことにした。
「なるほど。まあ、どの競技にも危険はつきものですからね。特にラリーは公道を使いますし……」
「まあそういうことです。でも、その“高槻亜実”とかいう子が注目され始めてるってのが……ん、いや、何でもありません」
円城寺は何か含むように言葉を飲み込む。“嫌悪感を誰にも話していない”といった雰囲気がにじんでいる。佐伯はあえて聞き返さず、黙ってうなずいた。
ひとしきり映像を見終え、円城寺はタブレットをパタンと閉じる。「なるほど。確かに速い。だが、私のほうが負けるとは思えないな」
「え……?」
佐伯は意味が分からず、眉をひそめる。すると円城寺は、上着のポケットから何か書類のようなものを取り出し、「このたび、経営者や業界の有力者が出場するハイアマチュアのラリークロスが行われるんですよ。私もそこで走る予定でね。もし、彼女が私に勝てるなら、“ラリー部廃部”の危機から救ってあげましょうか」と言い放つ。
「ちょ、ちょっと待ってください。廃部の危機って、突然どういうことですか?」と佐伯が動揺する。
円城寺は余裕の笑みを浮かべ、「何、学校側には私の意向がある程度通るんです。ラリーなんて危険な部活、教育委員会として存在が望ましくないと思えば、そういう話を進めることも可能だ。まあ、高槻亜実が私に勝てれば、その話は無しにしてやってもいい。単純でしょう?」と言う。
その傲慢な言いように、佐伯はさすがに反発したくなる。だが相手は教育委員会の委員長。下手に逆らえば本当に部活が存亡の危機に陥るかもしれない。
「しかし、彼女はまだ学生で、免許を持っていないんですよ。あなたと対等に……」
「ふふ、そこは構わない。どうやら彼女はダートトライアルで車を操る術を持っているようですからね。私はFRのレクサスRC Fで出るのでハンデとして彼女の車種は自由にしてあげます。スバルのWRXでも三菱のランサーエボリューションでもいいですよ。出せるのなら、グループBのランチアデルタS4コンペティツィオーネでもトヨタGRヤリス ラリー1のような現役ワークスカーでも構わない。私がFRのRC Fで絶対勝ってみせるからね」
円城寺は自信満々に言い切る。その姿は不気味なほど余裕を感じさせ、“鼻をへし折る”という下心が丸見えだ。
佐伯は頭が痛くなる。(何て面倒な男だ……)と内心で呟く。どうやら円城寺は「日本人若手のラリー活躍」に嫌悪感を抱いており、亜実のような才能をこのままにしておくことが面白くないのだろう。
「ラリークロスと仰いましたが、彼女が出場することは可能なんですか? ルール的に免許や登録など……」
「私が手配する。主催者とは顔が利くし、公道じゃないから年齢制限もクリアできるはず。……まあ、問題は彼女が受けるかどうかだがね。受けないなら、ラリー部の存続は危ういってことでいいんじゃないかな」
脅しとしか思えない発言に、佐伯は立腹しつつも言葉を飲む。この人が本気なら、実際にラリー部が廃止されかねない。何とか亜実に伝えて対応を考えなければ……という思いが頭を回る。
「さて、長居は無用ですね。大体のところは分かりました。あとは彼女がどう出るか。面白い勝負になればいいな……」
そう言い残して、円城寺は部室を出て行こうとする。その背中に佐伯が声をかける。
「円城寺さん、どうしてそこまで若いドライバーに敵意を?……もし聞いちゃいけないならいいですが、ラリー嫌いならわざわざこんな勝負を仕掛けなくても……」
円城寺は足を止め、振り向いた。その表情には淡い苦笑が浮かんでいる。「確かに私は嫌いですよ、ラリーも、日本人若手が世界で注目されてるという話もね。でもどう思おうが私の勝手だろう。それに——勝負して“私が勝って”、彼女が鼻っ柱を折られれば、少しは大人しくなるんじゃないかな。その時にラリー部を閉鎖するかどうか、考えてあげます。……じゃあ失礼しますよ」
そう言い放ち、円城寺は部室の扉を開けて出て行く。外へ消えていく彼の姿に、佐伯は一瞬背筋が凍る。
(なんて傲慢な……いや、ただの嫌がらせで終わらなければいいが。亜実や部員たちがこんな脅しに耐えられるのか……)
円城寺が立ち去った後、佐伯は部室の窓から外を見下ろす。遠くでは黒のレクサスLFAが駐車されているのがちらりと見えるが、どうやら別の職員や校長への挨拶をしているのか、まだ敷地内にいるようだ。
(しかし何故LFAで来て、次はRC Fで出ると言うのか……まるで“FRでも4WD勢に負けない”と誇示するため?)
佐伯は呆れを感じながらも、事態の深刻さを噛みしめる。円城寺は教育委員会の立場を利用し、ラリー部を握り潰す力を持っているかもしれない。亜実にこの話をどう伝えたらいいのか——彼女の立場を苦しめるだけではないか?
足音がして、先輩部員が部室に入ってくる。
「先生、今の黒いスーパーカー見ました? すごい音でしたね。誰なんですか?」
佐伯は重い口を開き、「教育委員会の……円城寺という人だ。どうやらラリー部にちょっとした“勝負”を挑んできたみたいだ。うちの若手ドライバーが負ければ廃部の可能性がある、なんて物騒なことを言い出してる」と説明すると、先輩は仰天して絶句する。
(亜実に言わなきゃいけない。だが、どう言えばいい?) 佐伯は眉をひそめ、頭を抱える。まだ話の序盤だが、大きな嵐が部活へ押し寄せようとしていた。
一方、高槻亜実はこの時、グラウンド横のメンテスペースでパーツの手入れをしていた。円城寺の存在など知らず、ただ先輩から借りたダート用ホイールの洗浄を黙々と続けている。
彼女の頭の中には“次の地方ダート大会での優勝”という目標があり、それ以外は見えていない。それがこれから起きる問題——委員長・円城寺が仕掛けたラリークロス勝負によって、ラリー部廃部の危機が迫っていることなど微塵も想像していない。
亜実の手はグリスまみれになりながら、嬉々としてベアリングを触っている。「あと少しで仕上がる……!」と心弾ませるが、この幸せな時間がいつまで続くかは分からない。
そして亜実は、まだ円城寺という男の存在すら知らない。この出会いが、やがて大きな波紋を広げることは、誰の予想をも超えていた。
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